1.2 - 善人を辞めるぞ! 【ミッドガルズ・エウローン帝国 : 善人の黒い決意】
善人回
黒霧の身体。
両の手を見る円間善人。
顔を上げる。
辺りを見渡す。
石造りの薄暗い部屋、妖しく光る円、明らかに日本人ではないラウム……。
目の前に広がる光景は、いつもの神社から見る景色ではない。
本来受け入れ難いもののはずだ。
だが、彼に慌てた様子は無い。
その動きは、実にゆったりとしていて、どこか余裕が伺えるほどだ。
「あ、あなたは何者なのだ……」
そんな黒霧とは対象的に、怯えた様子のラウム。
中空を彷徨う手、硬直一歩手前の身体は、小刻みに震えている。
未知なるものは恐怖を誘うものだ。
自身では対処出来そうに無い事態であれば尚更だ。
ラウムは、その心中にある、湯水の如く湧き出る疑問を払拭すべく、集約した一言を放ったのだ。
恐怖に駆られているラウムだが、目の前の黒霧は、先程から、やたらと人間味の感じられる素振りが見受けられた。
そこに一縷の望みを感じたのだろう。
「少し、黙れ」
短く言い放たれた言葉。黒霧からの返答。
ただの呻きとは違う、明確な意思を持つその音色は、ラウムに更なる恐怖を植え付けるには十分だった。
事実、ラウムは言葉を失った。
その彫りの深い顔を引き攣らせ、硬直してしまった。
(エウローン帝国……ヘルグリンド王国……召喚術……。
オーズやラウムが使っていた火や光は、力術……魔法みたいなものか。そしてオレは、召喚獣……。
この身体は……肉体ではないのか……。)
黒霧は、意識を取り戻してから、ある程度状況は理解出来ていた。
それは、オーズの知識が自分の中にあったからだ。
そして今、それを反芻していた。
あまり邪魔をされたくはない。
(あの魔法……力術……? 星に宿る神の力を利用した術……か。様々な現象を起こすことが出来るようだ。
この世界には、前世界、地球にあった魔という概念が無いようだ。所謂、剣と魔法のファンタジーのようだが、魔王的な存在はいない。なるほど……。)
と、黒霧は、反芻しながら納得していった。
(そうか……。もう……地球に……帰れないのか……。)
円間善人は、理解する。
自分はもう、黒霧になってしまった。
かつての肉体は無い。
星に宿る力の塊。神力で構成された身体だ。
人間ではなくなってしまった。
どうやら召喚獣と呼ばれる何かだ。
そして、何が起こって此処に居るのかは解らないが、帰る手段も不明。
たとえ帰還が叶ったとしても、もはや元の生活はおろか、人間としての生活すら不可能ということだ。
(さて、どうするかな……。なぜこんなことになってしまったのか……
は、分からないが……明確に分かるのは……
もう……あの女を殺す術は……無いということだな……。)
円間善人は、思案する。
悔しさや憤りは勿論ある。
しかし、もう彼の人生で初めて明確な殺意を抱いた相手とは、二度と関わる事は無いらしい。
強制終了されてしまったのだ。
(不思議なことだが……自分の持っている能力が解る……。
殺意を高めて滅殺、そして……吸収か。これは……召喚獣としての能力ということか……。
それでオーズを吸収してしまったようだな……。
オーズは、いわゆる貴族的な地位の子息か……。
知識に偏りがある感じがするな……。)
オーズの記憶のようなものは、知識としてある。
しかし……
オーズの知識は、あくまでもこの世界の学生、そして貴族の持つ知識でしかないようだ。
何も無いよりは幾分かマシではあるが、人に聞けるならば、あまり変わらないものだった。
(それにしても……だ。転生だとかの小説とかだと、ゲームみたいな世界に行くものじゃないのか……。
レベルアップしたり、ステータス画面が見れたり、鑑定とかで情報が解ったり……そんなのは無いのか……。)
円間善人の記憶には、小説やゲームの世界に憧れる気持ちが、少なからずあった。
限られた時間の中で見つけた、数少ない楽しみの一つだったからだ。
理想と異なるようで、少々落胆気味だ。
(非常に残念ではあるが……基本的なことが分かるだけでもマシか……。)
気を取り直したのも束の間、ふと疑問を持つ。
(いや、しかし……この姿……まともにコミュニケーションが取れるかも怪しいな。コミュ障がどうとかの次元でもなく……。どうしたものか……。)
現に、ちらりとラウムを見れば、歯をカチカチと鳴らして青い顔をしている。
オーズの知識に拠ると、ラウムは真面目で厳格な教師である。
そんな彼をもってしても、恐怖が勝るようだ。
(恐怖……恐怖か……。他人に抱いたことはあるが……。
乱暴な同級生や物言いのキツい上司なんかは、いつも怖かったな……。)
善人としての生しか知らなかった円間善人には、他人に恐怖されるなど、初めての経験である。
そして、自身の人格が変わってしまった事も感じていた。
(そうか……オレは今まで……軽んじられてきたんだな……。何でもいい顔して、受け入れてきた……。
そうして……他人から搾取されるばかりだったのだな……。)
いつの間にか、掌を固く握り締めていた円間善人。
自身の記憶、オーズの記憶、その対比と擦り合わせ。
新たに芽生えた、怒りという感情と、殺意。
黒霧の身体が陽炎の如く揺らぐ。
(どうせ……もう人間ですらないんだ。オレは悪になる。
侮られ軽んじられるのは、たくさんだ!!
オレは……善人を辞めるぞッ!!)
善人は、その生を受けてからというもの、初めて固く決心というものをしたのだった。