アンドレ様からの提案
私はどのくらいピアノを弾き続けていたのだろう。ピアノを弾いていると飛ぶように時間が過ぎ、外が暗くなっていた。曲を弾き終えると、いつものように拍手が湧き起こる。この館の人々には感謝しかない。延々と続く私のリサイタルに付き合ってくれるのだから。そして、歯がゆいほどのお褒めの言葉をもらえるのかと思ったのだが……
「『月光 第三楽章』か。
君は本当に何でも弾けるんだな」
感心するように手を叩きながら歩み寄ったのは、なんとアンドレ様だったのだ。
「お、お帰りなさいませ」
慌てて立ち上がりながらも動揺を隠せない私。
(アンドレ様、いつから帰っておられたのでしょう。
しかも、『月光』だって知っておられるなんて)
だが、アンドレ様をつまらないピアノに付き合わせてしまったのも事実。帰って来られているのなら、出迎えもてなさなければならなかった。
「も、申し訳ありません。せっかく早く帰ってこられたのに、無駄な時間を遣わせてしまって」
焦る私を見て、目を細めるアンドレ様。
「君と過ごす時間に、無駄な時間なんてない。
いつも素晴らしい演奏を聴かせてくれて、ありがとう」
その言葉に泣きそうになる。
アンドレ様とマリアンネ様の関係に、酷く動揺していた。だが、アンドレ様はこうやって私に、まっすぐに声をかけてくださる。私は大切にされているし、これ以上のものを望んではいけない。
だが……やはり不安になる。パトリック様も、私の知らないところで、テレーゼ様と愛を育んでいた。そして私は、それに気付かなかった。だからアンドレ様だって……
(駄目です、一緒にしてはいけません!)
不安を振り払うように、私は首をぶんぶんと横に振った。アンドレ様の元へ来てから行動には気をつけていたが、淑女としては相応しくない振る舞いだ。
(いけない。嫌われてしまうかもしれないです)
だが、考えれば考えるほど、思考は悪い方向へと向かっていく。まるで、泥沼にはまったかのように。
「リア」
私の名を呼ぶアンドレ様の低い声で我に返る。慌てて顔を上げると、アンドレ様は心配そうな顔で私を見ている。
(ほら、アンドレ様に迷惑をおかけして……)
「リア」
アンドレ様は、再び静かに私を呼んだ。アンドレ様は、不審な行動をした私を蔑む訳でもなく、ただ心配そうに見つめながら聞いたのだ。
「俺は、人の気持ちを理解するのが苦手だ。
だから、君がなぜそんなに悩んでいるのか、教えてくれないか?」
私は愚かだ。アンドレ様とマリアンネ様の関係に一人で動揺し、アンドレ様を心配させているだなんて。
それに、私に心を許してくださったとはいえ、他人と深く関わることを嫌うアンドレ様のことだ。私が二人の関係に嫉妬しているだなんて聞いたら、私が嫌われてしまうかもしれない。
私は笑顔を作る。作り笑いになっていないようにと、必死で願いながら。そして答えた。
「いえ、何でもありません」
「そうか……」
そう答えたアンドレ様は、どこか寂しげだった。
結婚し、本当の夫婦を目指すと決めた私たちだが、まだ心の距離は遠いのかもしれない。だが、本当のことを話して嫌われるほうが、もっと怖い。
アンドレ様はしばらく何かを考えるように宙を見ていた。そして、突然告げた。
「急にバリル王国へ向かう所用が出来た」
「承知しました」
笑顔で答えながらも、心はずきんと痛む。この微妙な距離感と嫉妬を抱えたまま、アンドレ様と離れるのは辛い。だが、離れたくないと言えるはずもない。何しろ、アンドレ様は将軍という重要な役割を背負っているのだから。
だが、アンドレ様は顔色一つ変えず、私に告げたのだ。
「もし良かったら、君にも同行してほしい」
「……え? 」
思ってもいなかった言葉をかけられて嬉しい。だが、ちくりとする。アンドレ様が行かれるバリル王国は、私の故郷だからだ。私の故郷には、大好きなお父様お母様だけでなく、先日押しかけてきたパトリック様や、私を追放した国王だっている。私はきっとあの国で悪者になっている。そう、いわゆる悪役令嬢とかいうものだろう。
私はどんな顔をしていたのだろう。アンドレ様は私を見て、ふっと笑った。その笑顔にいちいちドキドキする。
「大丈夫だ。君のことは俺が守るし、君の婚約者の件で、国王が謝罪をしたいらしい。
リアの両親にも改めて挨拶に行かなくては」
アンドレ様は、こんなにも私のことを考え、私を大切にしてくださっている。それなのに、つまらない嫉妬や不安を抱えている私を愚かに思う。
「ありがとうございます」
笑顔で応えると、アンドレ様はほっとしたように頬を緩める。アンドレ様、こんなに優しい顔もするんだ。知らないアンドレ様の一面を見るたびに、どんどんアンドレ様に惹かれていく。もっともっとアンドレ様を知りたいと思ってしまう。人って贅沢な生き物だ。はじめはこの館に住ませていただくだけで幸せだったのに、到底思いもよらなかったものまで欲しいと思い始めている。
「君とは結婚からの始まりになってしまったが、こうやって少しずつ思い出を作っていきたいんだ」
「……はいっ!! 」
嬉しくてアンドレ様に飛びつきたい気持ちだった。だが、もちろんそんなことが出来るはずもない。ほわほわして真っ赤な私を見て、アンドレ様も微かに頬を染めて笑った。
不思議だ。アンドレ様とマリアンネ様のことで悩んでいたのに、暗い気持ちはいつの間にか薄れている。アンドレ様の態度から、『二人は何もない関係』だと思えてしまう。パトリック様のように、浮気している可能性だってあるはずなのに。いや、アンドレ様とパトリック様を一緒にしてはいけない。私はアンドレ様と本当の夫婦になるために、アンドレ様を信じなきゃいけないの。
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