彼からのリクエスト
「ありがとうございます」
私は笑顔でアンドレ様に告げる。笑顔が引きつらないように、細心の注意を払いながら。
アンドレ様が私の前世の世界を知っているとすれば、私がいわゆる『盗作』をしたこともバレているだろう。この世界では、『エリーゼのために』も『ラ・カンパネラ』も私が作った曲になってしまったのだ。
……いや。もし、アンドレ様があの世界を知らないとしても、アンドレ様に嘘をついていることはいけないと思う。仮にも夫婦になったのだから、夫婦の間に隠し事はいけない。
たとえアンドレ様が激怒しても、アンドレ様には伝えるべきだろう。
「あの……」
恐る恐る声を出すと、その声は酷く震えていた。アンドレ様との距離が近くなったのに、また離れられるのが酷く怖い。だけど……嘘はいけない。
「あの……私が弾いている曲は……
……私が作ったのではないのです!! 」
意を決して告げた。もちろん声は震えていて、心臓もバクバクと音を立てている。もうすぐ冬だというのに、背中を嫌な汗が伝った。アンドレ様を見るのが怖くて、私はぎゅっと目を瞑って下を向いている。
こんな私を、
「リア」
相変わらず穏やかにアンドレ様が呼ぶ。その声があまりにも優しげだから、少し安心してしまう。
おずおずと顔を上げると、目の前のアンドレ様は口角を少し上げて私を見ている。どうやら、怒ってはいなさそうだ。
「そうなのか。……教えてくれて、ありがとう」
アンドレ様は低い声でそっと告げた。
「君はそんなことを悩んでいたのか。
君が本当のことを言っても、この世界では信じる者はいない。だから必然的に、あれらの曲は君の曲となるだろう」
(やっぱりアンドレ様は……)
その疑惑は、確信へと変わっていく。アンドレ様がどんな記憶を持つのかは分からないが、アンドレ様もあの世界の記憶を持っているのだ。
(ですが、怖くてそれ以上聞けません)
アンドレ様があの世界で何をされていたのか。どんな生活をして、誰を愛したのか。知らないほうが幸せかもしれないと思ってしまうのだった。
私は複雑な顔で食事を食べていたのだろう。美味しいデザートのジュレを食べ終わりスプーンを置くと、アンドレ様が立ち上がる。
「さあ、今日の昼の約束だ。
俺に、君のピアノを聴かせてくれ」
「えっ……本当に……? 」
私は驚いてアンドレ様を見て、その美貌に頬を染めて俯く。アンドレ様はやたら顔面偏差値が高く、この世では男慣れしていない私には、ハードルが高すぎる。
真っ赤な私に、アンドレ様は困ったように聞く。
「嫌か? 」
(嫌というより、アンドレ様は私のピアノを聴きたくないのではなかったのですか!?
それなのに、何ですかこの変貌ぶりは……)
だが、アンドレ様の頼みを拒否することは出来ない。私は真っ赤な顔のまま立ち上がり、アンドレ様を見てさらに頬を染める。だって、アンドレ様はその綺麗な瞳で、優しく私を見つめているのだから。
「ど、どんな曲を弾きましょうか? 」
苦し紛れに聴きながら立ち上がる私に、アンドレ様は告げた。
「『月の光』という曲を知っているか? 」
「はい。ドビュッシーですね」
私はピアノに座り、蓋を開けた。そしてひと呼吸してから弾き始める。そして、リクエストされたにも関わらず、暗譜で弾きこなしてしまう自分に驚いた。
『月の光』を弾いていると、ある光景が頭に浮かんだ。もちろん、前世の記憶だった。あの日も、今日みたいな寒い日だった。
「このボス、強くて倒せないんだけど。
俺、もう三日間も戦ってる」
テレビの前に座り、慎司はゲームをしていた。テレビには、暗い夜空の下、幽霊みたいな透明で儚げな敵が映っている。だがこの敵、儚げだが強いらしいのだ。
「この曲もうぜー!! 」
慎司が叫ぶから、私は笑いながら彼をなだめる。
「うざいとか言わないでよ。
この曲、本当はすごくいい曲なんだよ? 」
「えっ、マジ? 弾けるの? 」
「うん、弾ける弾ける!」
私がピアノを弾くと、慎司はゲームをやめて聞いてくれた。敵に負けて不貞腐れていた顔も、いつの間にか笑顔になっている。
「本当だ、すげーいい曲」
「でしょ? だから慎司もうぜーとか言わないの」
私たちは、顔を見合わせておかしそうに笑う。こんな些細な毎日が、とでも幸せだった。
「なぁ、香織。これからも弾いてくれる?
香織のピアノを聴いていたら、ゲームで負けたくらいどうでもいいって思えた」
「あはははは!! 」
あの幸せが続くと思っていた。だけど、長くは続かなかった。私は足を滑らせて窓から落ち、きっと死んだ。
私が死んだあと、慎司はどうしたのだろう。出来ることなら伝えたかった。
「大好きだよ。
慎司に会えて、私は幸せだった」
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