序
その日。
関東はこの冬一番の寒気に覆われた。
記録的というほどでもない。が、それでも昨夜からの降雪が10センチを越えた影響で、公共交通機関のダイヤは大きく乱れた。
滑走路の除雪が追いつかず、羽田や成田の発着便は軒並み欠航した。JRや私鉄の在来線に加え東北、北陸長野、上越の各新幹線も朝から計画運休となり、東海道新幹線も熱海で止まった。
首都高速の入り口も殆ど全て閉じられ、都心はまるで結界でも張ったかのように、ぽっかりと雪に幽閉されていた。
その日。
この冬一番の寒気の中。幽閉された都市のその一角で、小さく音を立てたものがあった。
ことり。
幾重にも更紗に包まれた蒔絵の箱。その中にまた蒔絵の箱。さらに桐の箱。
その箱の奥が微かに震え、
ことり。
と音を立てた。
その箱を囲む二重の人垣。
覗き込む瞳はどれも暗かった。
誰かが大きなため息をついた。
午後になり雪は雨に変わり、夜にはその雨も止んだ。
通勤客が溢れる時間には沿岸部と山沿いを走る幾つかの路線を覗き、殆どの私鉄とJRの主要な路線が動きだした。
雪のため大きくダイヤの乱れた横須賀線逗子行きの終電が北鎌倉駅に着いたのは深夜一時を回ってすぐだった。
駅に降り立ったのは1人だけだった。
和装にトンビを羽織った痩せた男。
目深に被ったソフト帽から僅かに尖った輪郭がのぞく。
男は鞄の代わりに首から箱を下げていた。
連想するのは遺骨をいれた骨壷だが、箱を包む布は白くなかった。
男は箱に両手を添えてゆっくりと歩を進める。
寒さに首をすくめ鼻を啜った。
円覚寺を右手に男は進む。
溶けかけの雪のせいか男の歩みは遅い。
雨は止んだが、重たい雲はまだ空を覆い、月も星も道を照らさない。
男は道を左に曲がった。
明月院を左に見ながら進む。
山陰のせいかまだ雪がだいぶ残っている。
男はもう一度鼻を啜った。
そうして。
さらに暫く歩いた男は、やっと目指す一軒の家の前に立った。
板垣に囲まれた木造平屋の古い建物だった。
男は黙って木戸を開けた。鍵は掛かっていなかった。
玄関の引き戸を引く。
手を伸ばし壁際のスイッチを探る。
蛍光灯の灯りに室内の様子が浮かぶ。
そこには大小の様々なサイズの箱が折り重なって置かれていた。
男は履き物を脱ぎ捨て、箱を抱えて廊下を進む。
廊下に積まれた箱、箱、箱。
箱の隙間を縫って歩いた男は部屋の障子を足で引いた。
「お帰りなさい」
八畳ほどの部屋に幾重にも重ねて積まれた箱。
部屋の真ん中に置かれた机の上にも箱。
その机の前のほんの僅か半畳の空間に、黒いフリルに埋もれるように座った黒髪の少女が上眼使いで、口角を僅かに上げて男を見つめる。
「合鍵を預けた覚えはないのですが」
男は少女の顔も見ずに答え、机の端に腰を下ろす。
箱を左手に抱いたまま右手のソフト帽を脱ぐ。
四十代半ば。違った輪郭。窪んだ眼窩。
顎の無精髭にも無造作に束ねた髪にも白いものが混じっている。
男は少女から目を逸らしたまま聞く。
「見に来たのですか?織田天目。」
「もちろんよ。」
少女の口角がさらに上がる。
男は机から腰を浮かせ、今座っていた場所に首に下げていた箱を置いた。
箱を包んでいた風呂敷を解く。
箱を覆う更紗をゆっくりと剥がす。
更紗の下には古紙が巻かれた蒔絵の箱。古紙には経が書き込まれている。
「二月堂焼経ですね。火除けはこれ以上のものはない。これがなきゃ本能寺で持ち主と一緒に燃えてた」
焼経の下には更に蒔絵の箱。
蓋を開けると更に経の書かれた古紙。
「これは久遠寺経だ、勿体無い。くちゃくちゃじゃないか…」
男は殊更大きなため息をついた。
古紙を剥がし姿を現した桐箱。
ここで男は初めて目の前に座ったゴシックロリータの少女に向き合った。
「織田天目はお見せします。で、見に来ただけなのですか?」
少女は可笑しさに耐えきれないというように口角の上がり切った口元を隠して答える
「月のない夜に私に出来ることなんてないわ。それに今夜は首都に大袈裟な結界が張られてる。雪の結界がね。」
そうだ。この結界を張るために「雪の小面」「雪松図」から「品川の雪」まで配置したのだ。
男は口の中で呟く。
「今夜できるのは私の姿を送ることだけ。本当に織田天目が見たかっただけよ」
そして少女は付け加えた。
「王への謁見は早い方がいいわ。九十九神の王になる子だもの」
百歳に一歳足りない九十九髪…か。
底冷えする部屋だというのに男の腋には冷たい汗が流れた。
「早く見せて。」
少女は弾むような声で言った。
男は箱の中からそれを取り出した。
それは黒い天目茶碗だった。
北宋の建窯で焼かれた茶碗のうち、天文学的な確率で偶然生まれる星を宿した茶碗。
現在するモノは世界に三椀。その三つともが日本にある。
「…。」
男は声にならない感嘆の息を吐く。
男の手の中の茶碗もまたその内側に星を宿していた。
稲葉天目とも藤田美術館、竜光院のどれとも違う模様。
「八葉蓮華」
少女の口が微かに開き掠れた声が漏れた。
男の手の中で織田天目はゆらゆらと淡い光を放つ。
男は慌てて茶碗を箱に戻す。
「今夜はもう帰るわ」
再び口角を上げた少女はそういい、立ち上がり様姿を消した。
暫くの沈黙。
男が息を吐き出して、止まっていた刻がようやく動いた。
織田天目が九十九神の王だと…。
じゃお前はなんだ、小野小町。
百歳に一歳足りない九十九髪…だ?
よく言うぜ。千歳もサバ読みやがって。
心底、厭だ。
あんなバケモノ連中相手に護らなければならないなんて。
この茶碗、織田天目を。
箱の中からまた
ことり。
と音がした。




