解纜の火・9
「ルフェーブル王子……」
フィロの声が、闇を跳んで王子のすぐ耳元に囁いた。
本当にすぐ傍――あるいは、その息吹が耳朶に触れたのではないかと思えるほどの身近で発せられたような錯覚に陥って、白磁の王子は、思わず辺りの気配を探る。しかし、ホルルを挟んで向こうに佇む主従は、その立ち位置をわずかにも変えず、そこに在る。
「ルフェーブル王子……」
もう一度。
それは、今や先代と呼ぶべきブロツワフの当主――フィロの父親であるアインバールが、ルフェーブルの父であるサコッシュ王に諫言するときに発する声とよく似ていた。だがそれは、より冷たく、より重く。染み出すような恐れを伴って、王子の胸に響めき、埋み、澱んでいった。
「自らの望みを叶えるために、一族全てを皆殺しにしようとした者を許すことができると、あなたがもしそうお考えであるのなら、貴方には、ご自分が思っているよりも、支配者の椅子に座る資格がおありなのでしょう。ですがその椅子は、すでに私が仰ぐべき場所に置かれてはおりません」
それが自分より八つ下の少女から出る言葉とは思えぬほどの重みと、魔力的な重圧が、そこにはあった。
王太子の婚約者でありながら、一族の家督を継ぎ、その長者にまで選ばれた。それは、宮廷において貴族どもに悪しざまに言われたブロツワフの《《驕り》》などではなく、確かな根拠理由があってのことなのだと、この時になって、やっとルフェーブルは理解した。
しかしそうであっても、ルフェーブルは知らなかった。
龍の宰相と言われたアインバールが、それを音響の魔術具を使って『演出』していたことを。そして、目の前の少女が、同じことをするのに、なんの魔術具も使わずに、それを成していたことを。自らの魔力を声音とし、幽世にある魂に響かせる。それをできる人間が、何者であるのかということを。
「……愚かな問いであった。赦せ、龍の姫君よ」
そう言った白磁の王子の態度には、赦しを乞うものとしての態度も、意志もなかった。自らの発言を翻すこともなく、相手の容赦だけを求め、それを当然のこととしていた。その傲岸な言葉から、彼がなぜこの場に姿を現わせたのか、フィロにはわかったような気がした。要するにこの王子は、ここがいまだに宮廷であると思っているのだろう。自らの存在自体が、特権として機能する、あの堆い山の上の宮廷であると。この、海と砂利の浜以外には、夜の闇しかない、この入り江を。
「王子……私は、貴方の、貴方がたの何を、誰を赦さなければならないのでしょうか」
フィロが王子の言葉には応えずにそう言うと、ルフェーブルが意外そうな表情を見せてから、「ふむ」と一つ唸り、その白い顎を撫でつけた。目の前の相手に反感を覚えた時にすると言われる、王族に共通する癖の一つで、交渉相手に対して不満を伝えるための、公然にして暗黙のジェスチュアだった。
無意識に出た所作の一つではあったのだろうが、そんなことは、今のフィロには関係がない。ここはすでに王宮ではなく、そしてフィロ達はもう、この国における全ての権利を停止されている。それは、この国において人々の生活を縛る全ての因習に従う必要がないということでもあるのだから。
「女一人のために忠義の一族を滅した者のこと。それとも、そこに眠る浅ましき盗賊にして、破廉恥な裏切り者のこと、それとも――」
「こんな場所で、破滅の一族最後の姫を前にして、この白首を晒している愚かな王子のこと――か」
フィロの言葉を継いだルフェーブルが、 自らの喉元をさすりながらそう言った。
「お判りいただけますか?」
「わかる。いや、わかった。私が愚かであった……。君が私に従順であらねばならない理由は、もうない」
「はい、王子。すでに自由が保障されない私たちのことを、誰がどのように扱ってもよいということは、私たちが、だれをどのように扱ってもよいということです」
「ゆえに、私の言葉を聞き入れる理由が、君にはない」
ゆっくりと頷きながら、「もちろん、それだけが理由ではございませんけれど……」と、フィロが呟く。
なんだろう。
フィロは、何らかの違和感を覚え、それが自分自身の胸を騒がし、重くのしかかっていることに気がついた。だが、それが何によってもたらされる違和感なのかが、まったくわからない。
その違和感にのしかかられたことで、なんのことはない言葉の語尾が、小さく弱々しくなってしまい、それに気がついたルフェーブルの瞳が、舐るようにフィロを観る。
向かい合う相手の弱みを探る王族の習い性のことではあったが、フィロに向けられたその不躾な視線を、探る者は、この場において他にもいる。当代のブロツワフ一族におけるフィロの信奉者――その中でもタカ派として認知されるグズムンディーナが、それを許すはずもなかった。明確な威嚇の意志を交えて指輪に魔力を追加する。活き活きとした赤の輝きが指輪に満ちて、入り江に灯る幾つもの篝火が、そして、ルフェーブルの足元の炎陣が勢いを少しだけ強くした。
本来なら、王族相手に魔術具を以て威嚇することなど、許されることではなかったが、フィロ一人のために、万の民を荒ぶる炎で焼き殺し、数千の軍勢を地獄の煮え湯に叩き込み、その実の兄をも灰となそうとした炎の魔女に、そのような理屈が通じるはずもない。
思っていたよりも、自らの命を死線の上に晒してしまっていたことに、ルフェーブルはようやくに気がついた。そして、勇んでここまで足を伸ばした苦労が、すでに実らぬものになったと、理解した。
「休戦も交渉も、望めるものではないようだな、フィロ・ブロツワフ」
「まだそのようなことができるとお考えなのでしたら、ルフェーブル殿下には、支配者としての資質はなかったということ。そして、御身足の軽さが命とりであるということも、これでお判りになったことでしょう?」
何をするにも腰の重さが仇となると言われた父王と、その性質を最も色濃く受け継いだと言われる王太子。その二人が果断に動いた結果として、ブロツワフの追放が成ったのに、なぜおまえはここにいるのか。
ことここに至って諫言されるとは思わず、ルフェーブルは内心で思わず笑ってしまい、それが魔力に感情となって現れる。
すると、目の前の魔女に炎となって集まる羊の群れが、一斉にこちらを向いた。そう幻視してしまうほどに明確な攻撃の意志が、ルフェーブルに向けられる。
ここまでの人生かと諦めたくなるほどの、殺意が入り江を渦巻いている。
「我らのことは、許さずともよい」
ルフェーブルにしてみれば、ホルルがフィロ達を説得するためにほとんど役に立たなかったことが、すでに誤算であった。その誤算を正しい方へと修正するために、動揺するともの者たちの反対を振り切って彼女たちの前に姿を現わしてみたが、その判断も間違っていた。ホルルを責めることはできない。なんのことはなく、目の前のブロツワフの主従が、似た者同士の女たちであるのと同じで、倒れ伏すホルルとルフェーブルも、その愚かさにかけては似た者同士だったというだけのことである。
そもそも彼女たちに、『私』を許す選択肢はなかったのだ。それを宣言されてしまった以上、ここでできることなどない。
「だが知っておいてほしい。アダミール兄とのことは、我々としても忸怩たる思いでいた。あの女に対して、どうしてあそこまで入れ込むのか、我ら兄弟にもよくわからなかった。そして、ホルルは盗人などではない。これは――」
言いながら、ルフェーブルが指輪を一つ、抜き放つ。
「ホルルから、王に『献上』されたものである。それを下賜された私がどう扱おうが、自由喪失の裁定を抜きにしても、君たちにそれを咎める根拠はない。どのようにして彼がこれを手にしたかは知らぬ。だが、ブロツワフ宗家の物を、ブロツワフ宗家の者が献上することは、なんらおかしいことではない」
「へ理屈をよくもまぁ、ぬけぬけと……」とグズムンディーナが小さく呟くのが聴こえ、フィロとしても同じ気持ちではあったが、それ以上に、「許さずともよい」というルフェーブルの言葉を聞いてから、胸騒ぎが収まらなかった。
なにかが起きようとしているような、それとも、起こしてはならぬと警告するような。
何を許さずともよいのか。
いや、これはもっと違うこと。それよりも少し前。
ルフェーブルに嫌味をつけるために『殿下』と呼んだ時。
否、その前。
ここが宮廷ではないのだと、自分に言い聞かせるようにしてルフェーブルを心の中で詰った時。
否、その後。
ルフェーブルを、なぜか頑なに『王子』と呼び続けていたこと。
否、ルフェーブルが、この入り江に姿を現わした時。
否……王族の魔力を感じ取った、その時から?
フィロが感じていた心の焦り、苛立ちは、ブロツワフを族滅の結末から救う重圧からのもの......否。自らを捨てたアダミール……しかし、これも否。
ならば、ホルルが鎧を――これは、そうであるような気する。
だがそれは、より大事なもの。もっともっと、大きくて、古くて。
結ばれた手にこそ結ばれる。
遥か昔に遺された……旧きにありて約されし、掟と伝わる……細き糸。
「……君の言ったこと全て、いずれも、なかったことにはできん。アダミール兄の愚挙は、私ごときには止めようがなかったし、ホルルのしたことは、あずかり知らぬ。そして、ブロツワフの族滅が覆ることは、絶対にない―」
それは、この時に失われた。
フィロの胸元で、何かがふっつりと途切れ、そして、捨て去られた。
気のせいではない。何かを失ったという空白が、己の中に強く起こった。しかし、その感覚自体も、まるで目の前を漂った幻想の吐息となって、瞬く間に消え去っていった。
その胸の跡地に残されたのは、己の精神の内にある高き山々であり、どこまでも広がる緑の沃野だった。フィロは、それを感じた瞬間に衝撃を受けた。我が身の内の純粋なる魂の置き場所に、そのような光景があるとは、知らなかった。晴れ上がった胸の内には、いままで霧がかかっていたのか。それとも、何か重々しい塊がそこにあって、フィロの視界を塞いでた。それらが今になって、露と消え、はるか彼方に取り払われた。そのようにしか思えない。
それを錯覚と呼ぶには、あまりに明瞭な解放の感覚に、フィロは思わずその胸元に視線を落とす。自らの野戦用のドレスを彩る飾り紐は、いずれもしっかりとそこにあり、力強い自身の魔力を帯びながら、この身を守っている。
魔術による呪いや攻撃の類かと思ったが、そうではない。王子の言葉自体に、衝撃を受けたわけでもない。族滅の裁定が覆らぬことなど、当然のことであるからだ。
では一体、今の感覚は何だったのだろう……。訝しみながら視線を戻すと、ルフェーブルも自身の胸元を見て、怪訝な表情を浮かべていた。
「姫様、なにかございましたか?」
グズムンディーナが、フィロの『異常』を察して、すぐさま声をかけてくる。
何もなかったと応えるわけにはいかない。
しかし、自身の体に異常はなく、周囲にもおかしな気配はない。
ただ、何かが己の身の内から消え去って行った。
いつ訪われたかもわからぬものが、永遠に。
「大丈夫よ、グズムンディーナ」
そばに来た侍女の手を自分の方から握りしめ、心配そうに覗き込むその深紅の瞳に視線を合わせた。