解纜の火・8
呼びかけたフィロに応じるようにして、隘路の裂け目から青白い氷霧が吹き出した。魔術の篝火に照らされたそれが、闇夜の入り江に、ふわりと広がっていく。
その霧は、凍てつく絶望を現世に呼び込む蒼の兎の吐息であり、全ての魂を無慈悲にも氷雪の芸術と化す冷悧の影、そして、圧倒的な死の先触れだった。
歴代のブロツワフ一族が、その絶大な性能を持て余し、それ故に使える者もわずかとなってしまったその魔術具が、『敵』となった者たちの手に渡ったことは、ある意味ではまさに、絶望的なことだった。
それがましてや王族の手にあるというのであれば、万が一が十分にある。常人には起動することすら儘ならないそれを、充分に使いこなす術を、彼らが持っていたとしてもおかしくはない。
フィロもグズムンディーナも、それを怖れるべき脅威として今日まで来た。故に、一族の者たちの命の保障を優先し、自らはこの場には死を覚悟して臨むしかなかったのだ。『氷の兎』は、まさにそのような最強たる魔術具の一つだった。
そのはずだった。
しかし、二人の目の前で、途切れがちに吐き出された氷霧には、先ほど隘路を凍り付かせたような迫力は失われていた。まるでベッドの上に仰ぎ臥す老人が、今際の際に力なく喘ぐかのような弱々しさで現出した青白い吐息は、さして強くもない海風に煽られて、わずかにあったほんのりとした冷気とともに、遠い夜空の向こうに攫われるようにして消えていってしまった。
それによって、霧の足元から忍びよろうとしていた『本命』の魔術が露になる。が、そこにも、フィロとグズムンディーナがそれぞれ心の中で覚悟していた『氷の兎』がもたらす極寒の世界――透き通る蒼の氷床と巨大な霜柱が林立する――は欠片もなく、ただそれまで通りの夜の入り江が広がるばかりだった。
加えて、隘路の裂け目を青白く照らして輝いていた氷壁すらもがすでに融け始め、古代から受け継がれてきた強力な魔術具がもたらした美しき極寒の芸術――ある種の神々しさすら滲みだしていた蒼白の世界はほとんど失われ、ただ、もとの暗い岩壁の姿に戻りつつあった。
その変わりように、訝し気な視線を投げた二人が、何事が起こっているのか、いや、何を起こせなかったのかという簡単な答えに辿り着くのに、時間は要らなかった。
フィロにしてみれば、彼が、今ここで、姿を現わさぬという選択肢も、十分にあると思われた。ホルルを見捨てて逃げ出すことは、この場においては、自らの命を守る最善の選択といえるだろう。なぜなら、フィロの背後で、覚悟していたはずの結末が遠ざかって行ったことを確信したグズムンディーナの魔力が、王都を灰燼に帰したあの日のように激しく燃え盛り始めたからだ。
フィロでさえ、背中を押されるような分厚い圧力を感じるこの魔力に恐れをなすことは、恥とは言えない。『炎の魔女』は、それだけの実績を、すでに積み上げていた。
しかしそれでも彼は、その姿をこの場に顕すことを選択した。
「フィロ・ブロツワフ宮廷公。一旦の休戦を申し込む!」
場違いなものを感じるほど高らかに、聞き覚えのあるしわがれ声がそう告げると、隘路の向こうにあった王族の気配が動き出した。敵意のない穏やかな魔力の波動が、主従の元に届き始めると、倒れ伏すホルルを挟んだ少し向こうに、小さな光が、ぽつりと浮かんだ。
弱々しく漂うそれは、二人にとっては、よく見慣れた浮標だった。
身構えた赤毛の侍女が、その悠長なやりように、それを消し飛ばすのも手かと、わずかに魔力を燃やしたが、泰然としてそれを見つめるフィロの眼差しと、王族の魔力を受けてなお平静を保つ魔力の広がりが、グズムンディーナを穏やかに制止した。
それを見計らったようにして、隘路の奥から無数の光の粒子が飛び出すと、眩しいばかりマナの奔流となって流れ混んでくる。だがそれは、入り江の闇を照らし出すことはない。ただこの世界から隔絶されて、宙空を寂しくも飛び交う精神の影だった。
王族だけが使えるとされる、転移の魔術具の作用だ。
めずらしいものではない。王族の立ち会う儀式や式典などでは、当たり前に繰り広げられる光景で、フィロだけでなく、グズムンディーナも幾度となく目にしたことがあった。
だがこの場においてフィロの目に、それは孤独の光に見えた。
世の人々に戴かれながら、しかし自らは世の人々に混じり合うこともなく、ただ一人の男として下界に降りてくる血の純潔の一族。そびえたつ大山のような世界の樹、その若き枝葉の王子たち。その唾棄すべきただ一人達。
夜にすら拒絶され、この世界に交じり合うことを禁じられて飛ぶ光の粒子が浮標に向かって殺到する。そして、それらがひときわ強い光を放ったかと思うと、一人の男の姿が顕れた。
乳白色の肩衣に流す銀絹の長髪と、フルンフィヤルの雪の化身と言われる透き通る白い頬、そして、狼の相貌と言われる、わずかな険のあるその顔つきを、その頭に戴かれた銀鎖のサークレットとともに、暗夜を照らすかがり火が朱を差して浮かび上がらせる。
瞑目するかのように伏せられていた男の目が、ゆっくりと啓いていくと、そこにあらわれたのは、白磁の盃に注がれた葡萄酒のように、鮮やかにして深く沈みゆくような濃密な魔力の輝きを湛える紫赫の瞳――。
今上における孤独の一族――その四人目の男。
ルフェーブルと呼ばれる、三番目の王子。
祭服のような緑地のチュニックに身を包んだルフェーブルの顔には、予想していたよりも濃い疲労の色が浮かんでいる。時にブロツワフの者でも持て余す、氷の兎を使役することは、王族であっても難しいということか。
どうやら、フィロとグズムンディーナがが思っていたよりも、王族の魔力の底は浅いらしい。それとも、それが第三王子の個性ということだろうか。
なんにしろ、彼はもう恐れる相手ではなくなっていた。
「久しいな、フィロ・ブロツワフ」と短く言ったルフェーブルが、じっとグズムンディーナを見据える。 「半ば覚悟していたのだが、炎の魔女によって、一宇の燃えさしとならずに済んだことを、私はどう受け止めればよいのかな?」
「オスターハーゼ伯爵のお元気そうな声を聞けたことに対する感謝の表れ……とでも思っていただければ」
そして、宮廷における数少ない善人の一人であり、あの人の好い老翁を、この場に連れ出すという愚かをしでかさなかったことに対する報酬でもある。そういうことにしておきますと、フィロがその穏やかな笑顔で答えると、ルフェーブルもかすかに口角を上げて、それに答えた。
「老翁は連れてきてよかったな。それだけの働きをしてくれたようだ。だが彼は――」
炎陣に、気を失ったままピクリともせずに倒れ伏す男を見下ろして、憐れを含んだ眼差しを降らせたルフェーブルが、そのまま、祭服が汚れることもいとわずに膝をついた。そして、その体に触れようとして、魔術の罠へと手を伸ばす。
象牙細工の繊細さで以て伸ばされた色白の手の、その指の根に嵌るかの指輪を見ながら、フィロはわずかに迷った。
この男たちに向ける同情は、今の自分にはないはずだった。どころか、ホルルとともに焼き尽くして、氷の兎を本来あるべき場所へと取り戻すことが必要なはずだった。
しかし、今さらそれを取り戻したからといって、何かが全て元に戻るというわけでもない。それを正しく所有するべき一族はもう、海の向こうへ旅立ってしまったのだから。
ややもすると不自然なその心の動きは、フィロが自らにそう言い聞かせたのだとして、自然と覆い隠された。
「いけません、王子。それは、くべられたすべてを贄にして燃え盛る、怒れる羊の火の祭壇。たとえ王族と言えど、その聖鎧を身にまとわねば、触れた途端のたちまちに、お望み通りの灰となれるでしょう。もちろん、その無様な男を救うために、己が身を炎の羊の贄として捧げるというのなら、無理に御止めはしませんけれど」
どこか投げやりな忠告を受け止めて、伸ばした手を止めたルフェーブルが、倒れ伏すホルルに向かって何事かを呟いた。
魔術の類を使ったのでないことはわかる。それはただ、憐れにも囚われとなった男に向かって呟かれた、いたわりの言葉だったのか。
海風が思ったよりも強く吹き、呟かれた言葉を掻き消して、あらぬ闇へと運んでいった。
それを見たからなのか。
それとも、もっと別の何かに対してなのか。
フィロの中の、なにか自分でもよくわからないものが、ひどく刺激された。錆びついた金の建具がこすれ合うような、ざらつく感触と不快な金切声のようなものが、心の中でざわついていく。
この不快さは、一体なんだろう。
自身としては、第三王子に対する、何がしかの恨みなど、ないつもりではあった。しかしルフェーブルの顔や仕草、その振る舞いを見てしまえば、心をざわつかせるなと言う方が、無理があったのかもしれない。この誰一人として違う顔を持たぬ男たちの一人が、ホルルに心を砕く様を見るのは、確かに不快としか言いようがない。
ということは、これは、何か嫉妬のようなものだとでもいうのだろうか。明確にそう表現してしまうには、あまりにも得体のしれない胸のざわめきであるようにも思える。その不可解さが、ある種の不機嫌となって、フィロの全身から染み出しはじめていた。
その後ろでは、突き刺すような冷たさを帯び始めた主人の魔力を感じ取りながら、グズムンディーナが、晴らしきれなかった殺意を、薄気味の悪い真白の肌とそこに浮かぶ濁った毒色の赤の瞳に向けていた。
ただでさえ、みな同じ顔をしている王族の一人を目の前にしながら、しかもそれが、倒れ伏すホルルを慮るような態度を取るのを見てしまえば、フィロのその心中を察するに余りある。
赤毛の侍女は、「このような男は、やはり初手で燃やしてやればよかったか」と内心の殺意を新たにし、それを魔力に乗せるべく、深く、深く研ぎ澄ます。
フィロとグズムンディーナが、宗家の血を引く者と、分家の血を引く者の違いによって、本質的にはまったく別種の、しかし同じ結論に至る苛立ちを感じる一方で、ブロツワフの者たちほどではないにしろ、優れた魔力的感受性を備えた人である王族のルフェーブルは、二人の女たちを見ながら、あまりにも深きに禍つ魔力の色を感じ取り、その内心に、恐々とした想いを抱いていた。
「それほどまでに、兄を許せぬか……」
おぞましさすら感じるほどの負の情念に、入り江に独りある男として、わずかに怖気づいたものの、それを気取られてはならぬと己を叱咤する。だが、それが無意識の心理に、余計な言葉を紡がせた。
「彼らを……許してやることはできないか?」とルフェーブルが、自身にとっても意外なことを問いかける。
それを聞いたフィロの顔が曇り、失望の色に染まった。
原初の山嶺の高園に咲く竜胆の花――そう言い継がれてきたブロツワフの女たちの中でも、その可憐さにおいては並ぶ者がないと社交界でも称されたその少女は、あきらかな失望の色でもって、その表情を染めていた。
しかしその美はいささかも損なわれずに夜の入り江にあって咲き、その陰に入った蒼紫の瞳に、夜の闇を取り込んだ暗く渦巻く魔力の光が灯る。