解纜の火・7
ホルルはその言葉に反論しようと、口を開きかけ、そして、何の言葉も紡げぬままに、口を閉じた。
目の前の女たちから向けられる家畜を見るような視線にも、なぜか反発することができない。フィロとグズムンディーナの言葉が、どういうわけか自分の中で腑に落ちてしまった。そのこと自体が、自己愛に歪んだ男の澱んだ誇りの心象に、屈辱という色となって塗りこめられていく。
拳を握りこみ、ただ唸りながら佇むホルルの様子をみて、グズムンディーナが声を上げて笑った。
「お前のその金属の被り物に包まれた頭は、本当に、浅慮と迂闊で作ったバケツ頭だったのね」
「……ば、バケット頭、だと?」
「えぇ、怨嗟と憎悪に染まった裏切りの汚水を満たしたバケツ。そんなものを体の上に載せていながら、お屋敷を出た後、どうやって生きてきたのかしら? ブロツワフの貴族として在ることも難しいおまえごときが、一体何の仕事ができたというの? 馬丁も庭師も、賢く実直でなければ務まらないのだから、お前には無理というものよね……。
貴族の陰謀家どもの元に行って、一体、何をしたことやら。命乞いの土下座をしながらする床磨き? それとも、媚と諂いで三下どもの靴を舐めては取り入ったということかしら。なんにしろ、みっともない真似をしたのでしょうね」と、そこでグズムンディーナは顎に手を当て、軽く考え込むような仕草を取ってから、わざとらしく、得心の表情を浮かべてから二度、三度と頷いた。 「そうね。ブロツワフから盗んでいった宝を見せて、雇ってくれと交渉すれば、お前のような使えない男とを雇うのに、どちら様も嫌とは言わないでしょう。魔力はない分、賄賂を贈って強者に取り入ろうなどという、誇りある貴族なら決してできない浅ましい行いも、その濁った水に満たされた頭でしかものを見れないお前なら、さぞや崇高な行いと思えるのでしょうし……。
何も出来なくても、盗んでいった宝があれば、それで充分。高貴なる魔術具たちと引き換えに、その破廉恥な鎧を選ぶのも、涸れ果てたような魔力の才しかないお前には、そうするしかなかったということなのだと、わかってあげてもよくってよ?」
そこまで言われて、それがようやく罵倒であると気がついたホルルが、赤毛の侍女の言葉を、慌てながら遮った。
「調子に乗るなよ、グズムンディーナ! 旧いブロツワフは終わったのだ。お前が依りかかる『宗家』などというものは、もうないのだ。そして、どれほど貴様の魔術が強力であろうとも、この鎧がある以上、この私には効かんのだ。王族に認められ、新しいブロツワフの始まりとして在るこの私に、お前たちが勝る道理はもうない」
「下卑た作法でもって取り入った王族の威を借るその姿……本当にご立派だこと。その身をどこまでも下賤に落としたいというのなら、勝手にすればいいのだわ」皮肉めいた口調を際立たせるグズムンディーナが、さらに一歩前に出る。「けれど、一族の禁を破り、恥ずかしげもなく卑怯者共の手先となって働く下郎が、よりによって、新しいブロツワフ? フフッ……他人の書いた笑劇で踊る役者にもなれないものが、どうしてそれを成せる器があると思っているのかしら。
あら? もしかして、新たに興すというのは、一族ではなく『一座』ということ? ゆくゆくは道化まがいの喜劇役者にでもなろうというなら、わからない話ではないわね。貴族の役を捨ててまで、家族を捨てて命乞いする下男の役を演じるお前の行く末には、ろくなオチなど、あるわけがないけれど」
この時、その饒舌な振る舞いとは裏腹に、沈黙するかのように静まり返ったグズムンディーナの魔力を捉える洞察力がホルルにあれば、後のなりゆきは変わっていたかもしれない。
しかし、元々の直情径行と、乏しかった魔力の才、フィロの憐れな動物を見るような瞳と、かつての憧れが撒き散らす嘲笑の暴風が、彼にとっての最上の未来を、はるか天の向こうに追いやっていった。
「わ、わたしに、ブロツワフの当主が務まらんと言いたいのか……」
「それ以外の意味に聞こえてしまったのだとしたら、私にも役者の仕事は無理そうね。舞台のことはお前にすべて任せるわ、ドブのような仕事を果たす下男の役に生きることを決意した、誰でもないあなた様」
「ぐっ……それ以上、囀るな……あばた顔の端女が! 女中風情のファージンゲールが、何を思い上がるか! そこの愚妹も、お前も、身の程を弁えろ!」
「まぁ、恥知らずにも一家眷属を売り飛ばした裏切り者の下男が、たいそうな口を利くものね。王国最古、賢古の一族ブロツワフのその長者――龍の姫君を前にして、貴様の方こそ頭が高い!」
龍の姫君――。
グズムンディーナの口からその言葉を聞いた瞬間、あらゆる劣等感とうしろめたさ、そして、その魂を覆い始めていた強烈な疎外感からくる恐怖とがないまぜになって、ホルルの精神のバケツの淵から、恐慌が零れ落ちた。
ほとんど無意識のまま、鉄靴が砂利をけ飛ばして、入り江の中を、巨大な金属の塊が突進した。
しかしそれを予期していたグズムンディーナは、ゆったりとした動作でフィロの前に進み出ると、慌てるそぶりも見せずに指を鳴らした。
すると、両者の間を遮るように火の手が噴き上がり、それが炎の円陣を描きだしては、迫りくる巨体を押し包んだ。
我を忘れて駆け出していたホルルが、突如目の前に現れた炎の柱に、その勢いをとめることもままならずに激突すると、金属鎧に包まれたその巨体が、まるで壁にでもぶつかったように軽々と弾き飛ばされて、ゆらめく炎で象られた円陣の中央で、盛大にしりもちをついた。
その様子を見ていたグズムンディーナが「忌々しい鎧だこと……」と小さく呟く。
本来ならば、炎の壁に触れた時点で、ホルルは消せぬ魔術の火によって炙られ、焼却されているはずだった。そのはずなのに、今彼女の目の前でしりもちをついた鎧姿のホルルは、驚いたような視線を兜の向こうから送ってくるばかりで火傷の一つも負った様子はなかった。しかし、先ほどとは違って、鎧に触れた炎が掻き消えてしまうようなことはなかった。
それが『聖鎧』だとわかっていれば、対処する方法は伝わっている。王統に尽くすことを生業とするブロツワフ一族には、御連枝が授かる王家の秘宝が、王と太子に仇なす場合の備えがある。それは、王族とブロツワフに結ばれている旧き約定の内のこと。
それなのに。
しりもちをついた格好のまま、ようやく周囲を遮る炎の壁に気がついたホルルと、彼が着込んだ鎧の両方をまじまじと見ることになった赤毛の侍女の中には、小さな、しかし今となってはどうでもよい疑問が浮かんでは消えていく。
この男はどうして、魔力が少ないのだろうか――。
この男はどうして、聖鎧を装着できるのか――。
この男はどうして、聖鎧に対処する方法がブロツワフに在ることを知らないのか――。
今更この鎧の男が、ホルルでないとは思わない。だが、そうだとすれば、あまりにも滑稽な話だった。すでに、憐れと思う根拠は、彼女の中からは消え去っていた。
ただ愚か。ただ汚物を見るようなグズムンディーナの視線は、燃えるように赤々としながら、まるで正反対の冷たさを帯びて輝いた。
それを見たホルルは、幼馴染だった侍女の立つ場所が、どこか自分の知らぬ高みにあることに気がついた。目の前にその姿を見ながらも、なぜか見知らぬ女となってしまったグズムンディーナに、なおも焦心を駆られて、勢いよく立ち上がる。そして、その心底からの嫌悪を感じるそのため息にもめげず、グズムンディーナにつかみかかろうと手を伸ばし、炎の壁に強い衝撃を受けては、また弾き返される。
それを幾度か繰り返した後、「なぜ! なぜ消えぬ! これはディブロブニクの鎧なのだぞ!」と喚き始めたその姿と、この後に待ち受けるだろう不本意な終わりを予見したグズムンディーナが「……いい加減に黙れ愚物。気付くのが十六年遅い」と吐き捨て、そこに生まれた苛立ちを叩きつけるように『炎の羊』を振るった。
すると、円陣の上にさらに炎の天井が顕れて、兜に包まれたホルルの頭を勢いよく打った。思わぬ一撃にあがるうめき声にも構わず、天井はそのままぐいぐいと落ちていき、強制的に大男の身を這いつくばらせ、土下座の恰好をさせると、そこでようやく停止した。
本来であればこれは、捕えた相手をそのまま焼殺する目的の炎獄の罠だったが、魔力耐性が高いどころか、驚異的なまでの断魔の性能を持った鎧のおかげで、土下座させられるだけで済んだのは、ホルルにとっては、屈辱よりも幸運に分類するべき出来事だった。
無様な体勢でなお死ぬ気配のない相手を見下げ、グズムンディーナが顔を歪めた。
姫様に殺してみせると豪語したのに、まさかそれを果たせないだなんて――。
一族の怨敵を生け捕ることには成功したが、目的はそんなことにはない。
主人との約束を、その御前で果たせないという事態は、彼女にとってはあり得ないほどの恥辱だった。胸の内でその恥辱と怒りと苛立ちがぶつかり合い、激情となって荒れ狂うと、左手の『炎の羊』がそれらを燃料にして爛々とその輝きを増し、それに伴って、ホルルを包んでいた炎が、いよいよ燃え盛った。
「ぐッ…ああああ! があああああああ!」
円陣の内側で、なおも上がり続ける炎の熱量を相殺しきれなくなったのか、対魔の鎧そのものが高熱を発して、ホルルの肌を焼きはじめる。
身を護るはずの金属の全身鎧が、その身を包んで逃がさない焦熱の拷問具と化した。文字通り、全身を焦がし焼く痛みと恐怖に、ホルルの叫びが狂乱の色を帯びていく。
「やめろ! やめろグズムンディーナ! やめろと言って――ッ!」
我が身から漂う肉の焼ける匂いがホルルの鼻腔をつきさして、その脳裏に死へのヴィジョンが奔った瞬間、青白い全身鎧が装着者の身の内にある小さな魔力を根こそぎ吸い上げては、眩い光を放散した。
一瞬の光が入り江を照らしたあと、ホルルは土下座したままの恰好で意識を失い、微動だにしなくなった。
使用者が命の危機に瀕した際にその身を十全に保護する――鎧の機能であることは明白だった。炎獄の罠の中は、なおも荒れ狂う炎で満たされていたが、ホルルがそれ以上苦しむこともなければ、焼け焦げていく様子もない。ただ、鎧だけが活き活きとした光沢を放っていた。
やはり、と赤毛の侍女は落胆した。
こうなってはもう、何をしても死ぬことはないだろう。
「本当に、困ったお方……」
グズムンディーナが吐き捨てるように言うと、炎獄の火がその勢いを弱め始める。その揺らめきが蝋燭の火のようなサイズになったところで、最低限の仕事を果たした赤毛の侍女が、主人の方に向き直り跪いた。
「申し訳ありません、姫様。斯様な結果になってしまいましたこと、謝罪してもしきれるものではありません」
「謝罪は必要ないわ、グズムンディーナ。そこで頽れた無様な蛙のような男が、あなたに殺されるに値しない者だったというだけのことよ。むしろ、あなたの魔力があのような者の魂で汚れなくてよかったわ」
「龍の姫君の寛大なるお心と、その深い慈悲に感謝いたします」
いくらか芝居がかったやりとりをしたあと、グズムンディーナが何事もなかったかのような表情をして主人の後ろに控えると、フィロもかつて兄だったもの――今は、這いつくばった金属製の無様な焼き蛙となり果てた――から視線を離し、今までは、その背後に隠れてこちらを窺うだけだった存在に意識を向けた。
「ご覧のありさまとなりましたけれど、次はどうなさいますか、王子殿下」