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龍の一族  作者: 鱈野 房
解纜の火
6/12

解纜の火・6

「そろそろおだまりなさい、この下郎」


 口を開きかけたフィロの代わりに、グズムンディーナの声が入り江に響いた。 


「ブロツワフの最も新しき長者を前にして、何をのたまうかと思えば……。お前のような貧者にも感じ取れるほど圧倒的で、濃密な姫様の魔力の発露を目にしておきながら、その本質を理解できない――そのようなことだから、宮廷の悪意の日陰に沈み込む滓のように息衝く陰謀家共にいいようにあしらわれ、その下働きをしながら得意げでいられるのでしょうね」

 

 その言葉から既に敬意は失われ、その声音には静かに燃える怒りが満ちていた。

 それは、ホルルが鎧兜の向こうに隠したはずの誇りという名の精神の塊を照らし出し、獅子面の奥にあるホルルの頬を焼いた。

 ブロツワフを捨てると決めた日に、恨みと憎しみに置き換えたはずの羞恥をあぶりだされるような錯覚にとらわれたホルルは、あえぐように「だ、誰が下郎か……」と絞り出すのがやっとだった。

 その様子を見ながら、グズムンディーナがその糸のような目筋をいっそう細め、赤毛の髪を揺らして小さく嗤う。 


「お前以外に、この場でそれにふさわしい者がいるのなら、教えてほしいものね」

「ぐッ……! お、お前こそ! ブロツワフの下僕に過ぎんファージンゲールごときが、言える分際か!」


 反撃とすら言えない幼稚な罵倒は、グズムンディーナの耳元にまで届きはしたが、古きを捨て去ったという男の言葉は、すでに彼女の魂に触れることは叶わなかった。


「ファージンゲールは、正統たるブロツワフの系譜から枝を分れし、誇り高き側仕えの一族。我らの先祖代々が、ブロツワフの宗家に尽くして生きてきた。その私たちをお前がどう見ていたかなど、この期に及んでは、どうでもいいことよ」


 その言葉を、目の前の鎧の男に向かって返した時、そこには、ほとんど何の感情も含まれていなかった。

 グズムンディーナにとってホルルという存在は、フィロの『お身内』であるからこそ、真に憎むべき対象だった。しかし、この破廉恥な男にはすでに、その憎悪を向けることができない。

 どうしてだろう。一族を売った相手だからだろうか、それとも、血を捨てたと、そうのたまったからだろうか。それとも、家法を犯したからだろうか。

 とりとめもない違和感がグズムンディーナの心を流れて行くと、その終わり際、彼女の内に流れる『ブロツワフ』という名家を支え続けてきた介添えの血が、その答えを、囁くように伝えてきた。


 目の前の人間は、もうブロツワフの者ではない――。


 それは全く根拠のない思い込み同然の気づきだったが、つい今しがた、フィロの魔力がわずかに揺動したのは、これが故であったのだと、全く根拠なく納得できた。グズムンディーナには、その理由は露ほどもわからないが、この男は、本当の意味で、ブロツワフに連なる者としての自らを捨て、ただの敵対者となり果てたのだ。

 それに思い至ると、黒のドレスに包まれたグズムンディーナの痩躯から、瞋恚や厭悪の感情が取り払われていき、純粋な怒りのみが心を満たしていった。その清々しいまでの感情が、ゆっくりと魔力に変わっていくのを感じるとともに、『炎の羊』が己の心に応えるように胎動する。

 グズムンディーナに宿る意志の力がおだやかに揺らめき、増大していくと、夜の精霊が、その荒々しい魔力に同調したか、海を背にする主従の肩に、いっそう冷たい風が吹きつけて、乱暴に二人の髪をかき乱した。闇に紛れるように広がる二つのドレスが、その裾の端を激しくはためかせては、金属の鎧その身を包む大男へと指向する。

 かつては王都の中央にある貴族街に居を構え、さらにその中心にある宮廷の奥深い殿上世界で生きてきたフィロ達だったが、いまではこのような夜気と夜風に、その身を晒すのも当たり前となっていた。放り込まれてしまった『裾野の世界』の常識の一つとして、森や木や、岩や断崖があったとしても、そこを渡る風を遮る壁となってはくれないことを、二人は、その身をもって学んでいた。我が身を守ってくれる囲いを作るのも一苦労であるという新たな常識を、胸の内に刻み始めていたグズムンディーナが、己の身をその代わりとすべく、わずかに立ち位置を変えた。

 それは、主を守るために、無意識のうちに表れた行動だったが、静かにたたずむフィロの背後をして、かがり火の色に怒りの炎を加えて燃え上がる赤毛のうねりを見たホルルには、それが、実妹から向けられた敵意と殺意の現れとして映った。


「そ、そうだ。もうお前たち旧きブロツワフは、私とは何の関係も……そうだ、何の関係もない……」


 ホルルの目に、見なれたはずのふたりの姿が、急激に夜の入り江に遠ざかっていく。

 分かりきった幻視に、なぜかあふれ出した焦燥に駆られ、ホルルが自身の中に在る小さな――しかし、常人を凌駕する程度にはある――魔力を操って、目の前の二人につながるマナの糸をようやくに掴んだ時、とてつもなく巨大な存在が、そこに出現した。

 否――それは、そこにいた。いつもそばにいた。

 見慣れたはずのそれは、妹と呼ぶべき存在。

 その途方もなく巨大な魔力。

 あるいはそれは、はるかに見上ぐる原始の山(フルンフィヤル)の山嶺であり、あるいはそれは、この闇の彼方に広がる絶海のごとくの広さを湛えているように思われた。ただ人の目には、雲の向こうの高峰に絡みつく龍の驥尾を見ることはできず、不帰の水平線がひた隠す『その向こう』を知ることは不可能だ。

 魔力の才が少なかったが故の遅鈍な感受性をして自身の置かれた場所を誤解し、それゆえの傲岸さでもって生きてきた男の魂が、ようやく、己というものが何と対峙していたのかを把握した。

 しかしそれは、かつて彼の中で、古代からの地続きであった魂の系譜が『断絶』していたことを知った瞬間でもあった。


「私を、殺そうというのか……」


 ホルルの口から、ぽつりと漏れ出た言葉に、フィロとグズムンディーナは、そろって耳を疑った。

 

 何を言っているのだろうか、この男は――。


 寸分違わぬ疑問が、二人の胸の内に浮かび上がる間にも、獅子面の口元からは同じ言葉が二度、三度と漏れ聞こえてくる。

 

「……私を殺そうというのか、お前たちは」


 今更の言葉の意味を飲み込めず困惑する主従をしり目に、ホルルはその巨体をわなわなと震わせながら、背後にあった闇の中へとのめり込むように後退った。

 鉄靴が力なく砂利を噛み、大兜の奥深くにある瞳の色が戸惑いに澱むのを見たフィロは、兄が自分たちと同じ『理解』へとたどり着いたことを直観した。 

 おびえるように言うホルルに対して、「そうですよ、ホルル」とゆっくりと言うフィロが、にっこりと笑って答えた。「あなたが私たちをそうしようとした程度には」

「ふ、ふざけるなッ! 私は王に赦され、王命によってお前たちを、天の白雲の向こうに送ろうとしているのだぞ。その、その私を……」

「天上の世界へ行くことを許してくださるだなんて、お優しいのですね」

「そうだ。私が王に願い出たのだ。大罪人であろうとも、どれだけ愚かであろうとも、お前がわが妹であることに変わりはないのだからな……。王の御慈悲を受けいれるべきは、お前たちだ」


 混乱するホルルの頭の中に浮かんだ身勝手極まりない言葉が、向かい風に抗いながら、フィロとグズムンディーナの耳朶を不快に撫でた。意図した呟きではないが、それゆえに、その身勝手極まりない言葉が、ホルルの本心であるということがわかる。

 

「なのに、なぜおまえたちは、私を殺そうとするのだ……」

「貴方と同じように、そうしなければならないからです……。貴方が貴方自身のために一族を滅ぼそうと決意したように、私たちも一族を救うために、貴方を殺す。それを避けるべき理由が少し前まではあったのですけれど、今はもう――ない」

「なに?」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 フィロのその言葉を合図にして、グズムンディーナの指輪から小さな炎が勢いよく噴き上がった。

 すると、隠されていた魔法陣がホルルを挟み込むようにして浮き上がり、炎の塊が飛び出し、その巨体を飲み込もうとして――掻き消えた。


「む、無駄だ! これは『ディブロブニクの鎧』だぞ。なまじの魔術など効かぬ!」


 鎧に拒絶され、虚空に消える残火を見たホルルは、己が着こんでいた物の威力を革めて目にして、ほんの少しだけ、落ち着きを取り戻した。

 

「まぁ。それが、かの有名な『聖鎧』ですか。幼気(いたいけ)で可憐な魔力しか持ち合わせない貴方ごときが扱って、我らがブロツワフの魔術を祓うだけの威力をみせるだなんて、大したものですね」

「へ、減らず口を……いくらでも叩くがいい。お前がどれだけ愚かであろうとも、これがどういうことか……。この鎧が示す事実が、わからぬはずもないだろうからな」

「事実、とは?」ホルルの言葉に、フィロが小首をかしげ、わざとらしく聞き返す。

「ふん! この鎧は、王族の至宝。それを貸し与えられたということは、私が()()()()()()()()からの信任を得たということだ! それはつまり、王族を支える『龍の一族』は、私こそが継ぐべきだという王族からの信任に他ならぬ! なれば、誰が何と言おうと、ブロツワフの家督継承者は、お前ではないのだ、フィロ!」


 見えを切るようにして突き付けられた鈍色の指先を見ながら、お前ではないと言われたフィロが「ルフェーブル王子……」と挙げられた名前を反芻するように呟くと、ホルルの背後で、闇夜が蠢いた。

 隘路の左右を凍らせる氷壁を満たす魔力は超然として、なんの動揺もなく青白い冷気を吐き出し続けていたが、その奥から漏れ出てくる、それ以外の魔力が、明確に狼狽えた。

 ホルルの言葉は、駆け引きや虚勢から出たものではない。フィロとグズムンディーナは、そう確信した。

 かつての兄であり、いまは引きちぎられた縁の向こう側に佇むあの男が、そんなことができるタイプではないとわかっていたが、これは間違いなく失言であり、それを聞いていた者たちの迂闊な魔力の蠢動が、それを証明している。

 

「本当に……他人様の言うなりになって踊ることもできないだなんて、いったいどれだけ愚かであれば気が済むのかしら……」


 呆れたような表情を殊更に見せながら、グズムンディーナがわずかに一歩前に出る。

 その気配の中にある意志を感じながら、フィロが、少し前まで兄だった男――今はもう、魂の繋がりが失われた――を哀憐の眼差しで以て見つめ、ゆっくりと口を開く。


「もう誰でもないホルル。誰もお前に家督など与えない。誰もお前を、そうであるとは認めない。王の信任がなにか。聖鎧がなにか。おまえはすでに、正統たるブロツワフの裾野から離れ、ただ(びと)となり果てた。あなたが自らの山を登るのならば、好きになさい。けれど今以降、ブロツワフの山にあることだけは、許されない。なぜならばお前はもう、ブロツワフの家を捨て、のりを捨て、古代、王とともに空より来り、原初の山に降り立った我ら先祖の戒めから外れ、それとともに在ることを捨て去った、誰でもないホルルホルル・エンギンフェッキルなのだから」



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