解纜の火・5
「ようやくその姿捉えたぞ、わが愚昧よ」
牙を剥いて張り付く獅子面の奥から、野獣のような唸りをあげて絞り出された言葉は、憎しみと厭悪に満ちていた。
その声だけでも、それが誰であるかはわかったが、離れていても見上げるように高い上背と、鎧の上からでもわかる筋肉の隆起による体躯の厚み、そしてなにより、その小さく可憐な魔力の気配によって、目の前の人物が確実に兄――ホルルであると確信する。
それと同時に、フィロの眉間にわずかに不快の波が立ち、グズムンディーナの眼には、あからさまな侮蔑の色が浮かんだ。
「ホルルお兄様……そのお姿は……」
嫌悪の混じったフィロの視線に、ホルルは負けじと金属の鎧に包まれた胸を見せつけるようにそらした。その仕草には、後ろめたさなどはみじんもなく、むしろ全身鎧のその奥から、子供のような無邪気すら染み出してきて、どこか誇らしげですらあり、その様子がまた、フィロの心の襞を不快に刺激する。
「あの日、王都でお前を取り逃がしてから、随分と時間がかかってしまったが、ようやくだな」
「えぇ」フィロがその言葉に同意して頷く。「たった半年ほどではありましたけれど、お兄様にとっては、家法を忘れて悦に入ることができる程度には、長い時間だったようですね」
「何を言うか。お前たちのブロツワフなど、もう滅んだのだろうが。俺がお前たちのブロツワフの家法に縛られるいわれなど、もうない」
その言葉に、兄の愚かさが、滲みだしていた。
禁を破って鎧を着けたのは、私への当てつけか――。
だがそれでは、何を理由にして始めた闘いであるのかを忘れてしまったも同然ではないか。己が継げなかったものを奪い取るために始めたことではないのか。そのように浅はかだから、父上に選んでもらえなかったとは、少しも思わないのだろうか。
「それよりも、お前が己の罪から逃げ惑うのもここまで、だ」
「――私の罪? なんのことでしょう?」
何を言っているのか。すぐには理解できず、思わず聞き返してしまった。
「忘れたとでもいうつもりか?」手甲に包まれた指先が、グズムンディーナに向けられる。「グズムンディーナが、おまえごときを助けようとしたせいで、王都は火の海となり、その結果、どれだけの者が命を落としたか!」
「どれだけの被害になったかは、風の便りに聞きましたけれど、あれは私たちだけの責任ではないでしょう? 王都での魔術師同士の私闘の禁を破ったのは、そちらも同じことではありませんか」
「貴様らが、先に手を振り上げねば、それもなかった」
「お兄様……屋敷を襲撃された私たちが、どうして先に手を振り上げたことになるのです。それに、先後で言えば、お兄様が宝物庫から魔術具を盗み出したことが第一の先手になると思うのですが」
「そんなことよりも! お前が我が身惜しさに逃げ出したために、グズムンディーナの蒔いた火が十万の民を焼き殺すことになったのだ。それをお前たちの、いや、お前の罪といわずして何と言う!」
突然、兄は何の話をはじめたのだろうかと思いながら応じていたフィロだったが、そこまで言われて、兄がブロツワフを滅ぼす理由、その建前の話をしているということに、やっと気がついた。
ブロツワフの族滅は、貴族社会の日陰者たちが長年をかけて成し遂げた策謀が時宜を得た果ての結果であるのだが、それを、王都を焼き払った罪が故のこととして正当化する。
それでは因果がまるであべこべになってしまうが、この兄を唆して宮廷社会に返り咲こうと必死になる陰謀家たちと、これらを操る者にとっては、そんなことは、どうでもよいことだ。むしろ常套手段の内であるとさえ言えるだろう。まんまとその策に嵌ってしまったフィロ自身でさえも、そういうやり方には、よくよく同意できる。
しかし、今更ながらにその話をするのか。
この場において、入り江の中にまで入って来たのがホルル兄一人だったために、そういう建前や体面は抜きにして話を進めるのだと判断してしまった分、多少、面食らった。
兄は、そういうことをするような人ではなかったはずだ。王都からここに至るまで、顔を合わせることがなかったとはいえ、それはたった半年程度のことなのだ。それなのに、随分と回りくどいことをするようになった。
ふと、いつだったかグズムンディーナが言っていた『男子三日会わざれば云々』という何とも不思議な言葉を思い出したが、これはそういうのとは少し違うだろう。
入念とも周到とも言い難い策謀は、なんにせよ、この男を通して形になっている。それを成したのは、二人の男の拙くも深い執念だ。それを、慢心と増長に感冒していたブロツワフが見逃して、見事に崖から蹴落とされることになってしまった。
「民の命を奪っておきながら、その無頓着、無関心……。お前のような非道の輩が、宮廷において権力を振るうような事態にならずに済んで、今は王族の方々も、その襟懐を安んじておられるだろう」
一族の禁忌を犯してまでこの場に立っておきながら、繰人形のごとく見えない糸であやつられ、踊っているだけの男。その破廉恥を自覚していない愚かな兄に、フィロは無性の苛立ちを覚えた。
「お兄様……少し会わないうちに、難しい言葉を覚えてしまったのですね……」
「ふん。そうやって話をはぐらかそうとすることが、お前が、自身の罪を認めているということだ。はぐらかしも言い逃れも、これ以上は許さぬ。わが愚昧だけではない。グズムンディーナ、お前もだ!」
糾弾するように名を呼ばれたグズムンディーナは、顔色の一つも変えることなく佇んでいた。その目は、破廉恥な姿を晒すホルルを捉え続けながらも、意識は常にフィロを護るために周囲の警戒へと向けられている。
それは職務上そうする必要があったからでもあるが、そもそもグズムンディーナは確かに王都を火の海にした実行犯であり、ホルルの指摘自体には、反論の余地がないということもあった。
だが、それがなんだというのだろうか。グズムンディーナは、王都の大火以外にも大規模な『惨事』を幾つか起こし、それ故に『炎の魔女』などという不本意な仇名をつけられるに至ったが、その全てが、己の尽くすべきを尽くした結果だった。
省みるに、努力の足らなかった部分は大いにあり、また、別のアプローチが必要だったのだろう場面も一つや二つではなかったが、しかしそれで犠牲になった者たちに対して、彼女自身何も思う所などなく、ましてや『罪悪感』など、あろうはずもなかった。
彼女がそれを感じるべき相手とは、主人であるフィロにほかならず、そのフィロのためにしたことが、『罪』や『悪』であるはずがなかった。人の命を軽視しているというのではない。グズムンディーナにとっては、世の中のあらゆることと比べて、フィロの命の重さが勝るというだけのことだ。
しかもそれを糾弾するのがホルルであるのなら、なおさら、その言葉には何一つ心を動かされなかった。
そう。動かされるわけがないのだ。
それが、自分のことだけであれば。
ホルルは、一見すると押し黙り、言葉に窮しているようにも見える赤毛の侍女の様子から、己の追求が正しく敵を追い詰めているのだと誤解した。そして、そのことに勝手に気を良くすると、あまりにも静かに燃え滾る怒りの炉に向かって、さらなる薪をくべ続けた。
「お前たちのしたことは、すでに国中に知れ渡っている。お前たちの……お前のせいで、そうだ……お前のせいで、一族はもはや人民の怨敵となり果てた! お前の愚かさのせいで、ブロツワフは滅ぶのだ」
「あら、先ほどブロツワフはもう滅んだとお聞きしましたけれど?」
「……瑣末な言葉の端をつまむ、意味のない揚げ足取りだな。滅んだか滅んでいないかなど、この期に及んで意味があるか。秘宝を残した意味と、その罠も見抜けぬ愚か者が、賢し気に語るのではない」
その言葉に、「まぁ、罠があったのですか?」と殊更に驚いて見せると、得意げに言葉を継いでいく。
「ふん。進退窮まればお前がアレを使ってみようとするのは自明のこと。魔力の量だけは並外れているお前が使えば、どこからでも居場所が割れようというもの。逃げ隠れをさせぬための、いわば埋伏の毒よ」
それによっておびき出された可能性などには、思い至らないらしい。
日頃から自身の思惑からしかものを語れない人であったから、これくらいの方が、兄らしいとも思える。空っぽの頭に入れてもらった知恵が、早々に涸れはじめているようだが、大丈夫だろうか。
「私が、これ以上は逃げも隠れもしないと言ったなら、お兄様はお笑いになるのでしょうね」
フィロの言葉に、獅子面の下の口を歪ませて、ホルルは大笑した。
「追い詰められてからそれ言うのは、滑稽以外のなにものでもない。それがわからんから、お前は愚か者なのだ。逃げも隠れもせずに命乞いをする覚悟ができた、というのなら、それをする時間くらいはくれてやるがな」
「お兄様の見当違いなご配慮には感謝しなければなりませんけれど、残念なことに、ブロツワフの者は、鎧を着こんで戦場に現れるような臆病者に、下げる頭を持ち合わせてはいないのです。以後はぜひ、御承知おきくださいませ」
「私は、臆病者などではない!」
「ではなぜ、そのような格好でいるのです。ブロツワフの禁忌を犯して――」
「何が禁忌か!」フィロの言葉を遮ってホルルが叫ぶ。「そのようなことをいつまでもやっているから、古いブロツワフは倒れた、いや、この俺が倒したのだ! そして、俺が新しいブロツワフの始まりとなる。旧態に依って専横を極めたブロツワフは、宮廷ではすでに進退窮まっていたのだ。それを革める時期だったのだ。お前を当主に担ぐなどと、バカなことをした父上や御三家のジジイどもは、一族を破滅に導くだけの無能どもだったということよ」
「勝手なことを……」
当初の建前など、もはや頭の中にはないとばかりに本音が透けて見え始めたホルルの言葉に、フィロは呆れていた。そして、熱いマグマのような憎悪が、腹の底に溜まっていくのを感じていた。
この男は、一体何を目的としているのか。
自らの欲しているものと、自らの手放したもの。それらが一体なんであるのかが、まるでわかっていない。
要らないというのなら、自ら一族とは絶縁し、勝手に別家を立てればいいだけの話で、なぜブロツワフの名に拘っているのだろう。 そのくせ、ブロツワフの掟に拘る必要がない?
この男は、本当に自分のことしか見ていないのだ。
兄の身勝手さなど、わかっていたことではあるが、身勝手が過ぎて、他者に対する態度だけではなく、自己に対する認識までもがねじ曲がっているのを目の当たりにすると、この男に同情するための要素が、一つ、また一つと失われていくのを感じる。
が、それ以上に、目の前の鎧姿の人物に、言いようのない違和感を覚えて、フィロは首を傾げた。
守るべき家法――ブロツワフの者は、鎧を着て、兜を被り、天の階を昇ってはならない――を破った男という事実は、フィロの中で、自分が思っているよりも、果てしなく罪深いものとして認識された。
それはまるで、己の中に在る魂と精神が絡み合い、これまで連綿と続いてきた尊き魔力の系譜によって描かれる生命の樹の二重螺旋に新たに刻まれた『罪』の追求――その訴えだった。
その意識の極まりが、フィロの心に沈み込んでいくと、その水面に小さな波紋で、新たな意識が書き込まれていく。
守るべき掟を破り、一族の理から外れた者。
既にこの者は、私の兄ではない。
その想いが胸に浮かんできた瞬間、フィロは違和感が形になった気がした。だが、それが一族の敵である兄というイメージと重なってしまった瞬間、その意味は曖昧になった。敵であるのはそうだが、これは、なにかもっと違うものだ。言葉には出来ない害意が、自分の心の中に芽生えているのを、見つけてしまった。それ自体に困惑してしまう。
戸惑いながら、わずかにグズムンディーナの気配を窺うと、冷静さを保ってはいたが、彼女もやはり、そこにわずかに困惑の色を滲ませている。
ホルルを目の前にした二人の害意は、秒刻みで増大し続け、さらに、そのぼんやりした感情の骨格が、徐々にはっきりと、そして強固になっていく。
「次代の王、貴族、そして平民――すべての人民の怨敵となり果ててしまったブロツワフを、俺がやり直そうというのだ」
面頬で隠れていても分かるほど得意げにそう言って、鎧に包まれた胸を張る。
「ブロツワフが人民の怨敵となったということを、私は否定しません。なら、お兄様は――」
同じブロツワフの者であるお兄様はどうするのです――と、訊こうとして、その言葉はフィロの胸の奥深くに飲み込まれていった。代わりに湧き上がった言葉は、フィロの戸惑いが確固たる姿を現して形になったものだった。
この者は、すでにブロツワフの者ではない――。
それはまるで、血の源流から流れ落ち、フィロの胸の内にわだかまる淀みに浮かんだ一葉の啓示だった。それが何を意味するのか、はっきりと感じ取る前に、激流にもにたマナの流れは、その啓示を押し流し、少女にとっていまだ遠い精神世界の向こうへと消し去った。
それら一連のイメージが何を意味するのかは分からなかった。しかし、一つの魂が、大いなる流れから、今、切り離されたということだけは理解できた。海の果てに向かった一族との一体感は失われないのに、目の前の人物とはわかりあえない。たとえ血のつながりがあろうとも、この者は、すでにブロツワフの者ではないという理解だけが、あった。
その事実に気がついて、あとの言葉が継げず、急に黙り込んでしまったフィロの姿を見て、ホルルが嘲るように鼻を鳴らした。
「お前に心配などされる必要はない。私はすでに、王陛下直々の恩赦を受けている。あとはお前たちを討伐すれば事は成る」
「……そのために家を捨て、立場をお捨てになったというのですか?」
「旧いものを捨てて何が悪い。そうして私は、討伐の功と我が身の忠節を新たな王に捧げ、ブロツワフを再興する。くだらん禁忌や迷信などを必要としない、新しい、俺のブロツワフをな。この鎧姿は、それを成すまでの仮の姿よ」
フィロにとっては、この男はもうブロツワフではなかった。
「ホルル……あなたは、血において戒められたことに、確かな意味があるとは思わないのですか?」
突如として呼び捨てられたことに動揺したのか、金属の鎧に包まれた巨躯がわずかに揺れた。
「……思わぬ。ブロツワフの家法――禁忌など、貴族の守るべき作法や礼節ではなく、ただの迷信に過ぎない。それと同じ、不合理極まる家法によって、お前に家督が譲られることになった時、私はそれに気がついたのだ」
要は、自分の意に染まぬ決まりは守らぬと言っているだけだった。自ら女子供と蔑むフィロなどよりも、よほど子供じみた「わがまま」を言っている自覚が、あるのだろうか。
あるのかもしれない。
あるからこそ、迷信だの不合理だのという言葉を重ねて、それを廃するのが合理的だと言い訳をしているのだ。
家族を捨てて、一族を捨てて、血を捨てた醜い男。
己の立つべき位置がどこにあるかもわからぬ愚か者。
「新しくするのだ。血も、時代もな」