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龍の一族  作者: 鱈野 房
解纜の火
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解纜の火・4

 フィロがその言葉を言い終わらぬうちに、腹の底まで響く重苦しい音がして、入り江が揺れた。とっさに立ち上がったグズムンディーナが、フィロを庇うように体を入れ替えると、小さな浜辺を囲む切り立った岩壁の向こうから、大きな火柱が二つ上がる。それを合図にしたように、いくつもの魔力の気配が湧き起こり、膨れ上がってはぶつかり始めた。その中には、フィロのよく知る者たちの魔力もあった。

 もっともよく知るのは、 郎党のグラスノーとエイスリングのもの。


 そして――兄の魔力。


 驚きはない。そうなるように、フィロたちが策を巡らせてここまできたのだから。それらは大した策でもなかったが、兄を嵌めるのには十分だったということだ。

 驚きはなかったが、しかしそれで、落胆もした。

 本当に愚かな人だ。この愚かさで、どうして一族を裏切ろうと思ったのだろう。どうして親族たちを、宮廷の狼たちに売り渡してしまったのだろう。理由はわかっているし、知っていた。しかし、理解してあげられることではなかった。

 ふと見上げると、「始まったようですね」と呟く侍女の横顔が火柱に照らされて、闇夜の支配が強くなった浜辺に浮き上がっていた。警戒の視線を、崖の切通しとなっている隘路へ向けたままのグズムンディーナに、「二人は大丈夫かしら」と静かに問いかける。

 すると、間髪を入れずに赤毛の侍女が口を開く。


「グラスノー様とエイスリングなら、寡勢であっても追手どものいくらかを引きはがすくらいのことは、造作なくやってのけるでしょう。」


 信じているのでも、案じているのでもなく、至極当然のことといった口調が頼もしい。それだけで、二人は大丈夫だと思える。


「問題は……ホルル様が、どれだけ愚か者であるかという、それだけでございます」


 心底嫌悪するかのように眉根を寄せて、グズムンディーナがため息をついた。


「王都を離れてからというもの、あの方の無定見には、恐れを抱かざるを得ないほど。振り仰ぐも山を視ず、降るべき峰を登っては、迷わず違えた分かれ道を明後日の方へ駆け出すような真似ばかり……。追われている身でありながら、まさかこちらの背を追わせることに苦労するだなんて、誰が思いましょう。ひょっとしたら、あのような方に一族を領導されていたかと思うと、いまだにゾッとしません」


 一時は、自分たちをわざと逃がしてくれているのではないかと誤解するほど、兄の追跡はお粗末だった。フィロたちが王都から脱出するのに手を貸してくれた貴族たちが粛清されたと聞くまでは、それがホルルの本気の仕事であるとは、誰も思えなかったほどに。


「二人が張り切りすぎると、そちらに釣られてしまう心配をしなければならないのですもの。ホルル様の頭は、本当はブリキでできたバケツかもしれないと思ったのも、一度や二度では」

「ブリキのバケット――」


 うすい金属の板でできた籠を想像したその時、フィロの頭の中で、鑢で金属をこするような不愉快な音が鳴り響いた。ぞわりとした怖気が肌を走り、全身に鳥肌が立つのを自覚しながら、あまりのおぞましさに耐えかねて、眉根を寄せる。

 それを聴く者が、本能的に最も不快であると感じる音を鳴らす魔術であるそれは、兄のバケツ頭を削る音などではなく、隘路の中ほどに張った結界の魔術具が作動して、侵入者たちのあることを伝える警告のヴィジョンだった。

 身じろぎした後、「グズムンディーナ!」とフィロが呻くと、それだけで何事が起きたかを察した侍女は、「姫様、お下がりを」と短く言って、その目を大きく見開いた。 

 赤毛の侍女を彩る赭色の瞳が、昂る魔力を充満させて輝く火の炉と化す。

 飽和していく魔力が、その(まなじり)から涙のように溢れ出し、一滴(ひとしずく)の焔の影となって零れ落ちた。 それが渦を巻いては火の粉を散らし、右手の中指に嵌った小さな指輪――その石座に眠る小さな宝石に吸い込まれていくと、暗炭色のくすんだ玉石に命の色が刻まれて、美しい深紅の輝きが灯った。

 グズムンディーナは、目覚めた魔石『炎の羊(カオール・ラセール)』が刻む命の脈動を体の芯で受け止めながら、一切の躊躇なく右腕を振り上げた。


「燃えろ!」


 指輪のはまった中指の先から一筋の閃光が迸り、暗い入り江を切り裂くように飛んでいく。

 火矢となった魔力の塊が、オレンジ色の尾を引きながら、スゥッと岩の裂け目の隘路に飲み込まれると、一瞬の間を置いて、紅蓮の炎が勢いよく噴き出した。隘路からだけではなく、亀裂によって繋がっていたのだろう崖面の小さな裂け目からいくつもの小さな炎が上がっている。それに合わせて衝撃と熱波が入り江の中を荒れ狂い、敷き詰められた砂礫が瞬時に焼き石になると、浜辺に散った冬の報せの宝石たちが、蒸発という言葉も生ぬるい速さでもって、その姿を消していった。

 フィロはその様子を見ながら、その身に吹きつける暴風に抗うように手をかざした。熱気に乾いた風が、紺地のスカートを揺らして駆け抜けると、少女の黒髪を背後に流してかき乱した。グズムンディーナの手加減なしの炎の魔術は、それを浴びた人間を黒焦げにしてお釣りがくる程の熱風を巻き起こしていたが、フィロに備えはいらなかった。その熱量を平然と受け流して、魔術の炎が乱舞するのを見つめる。それは、落日の夕景が海を染め上げた感傷のオレンジとは、ある意味において対極に位置する色――術者の魂を映すかのようにして鋭く、そして力強い赫色に世界を染め上げていた。

 それは、グズムンディーナの赫色。

 物心つく前からフィロの側に仕えてくれる侍女の色。

 その美しい赤の世界を見つめていると、どこか心が落ち着いていく。脳裏を埋めた不快を誘う残響も、綺麗に燃やし尽くされて、すでに聞こえなくなっていた。

 グズムンディーナの方も、まるでどうということもなく、地獄と化して炎を噴き上げる隘路をにらみつけていた。魔術を使うことを、当然ながらの前提として仕立てられた黒のドレスは、その長身痩躯を包み込んで、それの作用する炎とその熱を斜絶する。吹き抜けていく熱風に、彼女を彼女足らしめんとしている赤髪だけが、その激情を映すかのようにして激しく乱舞していた。 

 二人の唯一にして共通の被害は、その身に纏っていた防寒用のケープだった。入り江に出現した暖炉――崖のあちこちから吹き出す業火――のおかげで、寒さという問題は夜の訪れを前にして解決した。しかし、グズムンディーナが調達してきてくれたケープは、ただのウールフェルトで仕立てた普通のケープだったので、あわれにも消し炭となったばかりか、うずまく風にさらわれ、もう跡形もない。


「申し訳ありません姫様……。ホルル様を消し炭にしようと思うあまり、ケープにまでは考えが及びませんでした」

「いいのよ。あなたの選んでくれたケープがなくなってしまったのは残念だけど、お兄様たちをくべた暖炉の火も、これはこれで悪くないものね」


 フィロは、寒夜となった入り江の浜に海を背負って立ちながら、ゆったりとした目で、燃え盛る炎の壁をみつめていた。隘路を使った罠が、ひとまずは役に立った形だが、これだけで事が済んだとは思っていない。むしろ、これで済んでしまっては困るのだ。そんな相手が来ているようでは、一族についての交渉などができるはずもない。せめて、話し合いのようなものができる相手であればいいが。

 感じ取った魔力の中には、王族のものがあった。といっても、王族たちは、みな同じ人達であるので、誰が来ているかまでは分らない。

 確実に来ていないとわかるのは、ただ二人。王であるサコッシュ八世陛下と、フィロの婚約者でもあった王太子殿下。王である人がこんな場所に来るわけもなく、そして、すでに愛する第二夫人のおられる太子殿下は、それ故に、ブロツワフ一族の族滅を主張する貴族たちの筆頭にあった。

 

 わかることは、それ以外の王子たちということだけか――。


 まったく同じ顔をした不気味な王太子の兄弟たちの姿が、フィロの脳裏を流れては消えて行くうちに、やがて隘路の亀裂から吹き出す火の手が色を失い、その勢いを弱めて消えた。

 一瞬、入り江が暗闇に包まれたが、グズムンディーナが指を鳴らすと、炎の灯りが浮き上がり、辺りを照らし出した。

 それからいくらの間も置かず、闇に開いた隘路の裂け目に、白い煙のようなものが這い出すように湧き立つと、辺りに満ち始めていた夜の隙間を埋め始めた。


「もう少し、グズムンディーナの()を見ていたかったのだけど……」


 その煙が嵩を増していくにつれ、ガラスのひび割れるような甲高い音がして、煙に撫でられた岩壁の周囲が、まるで胡粉を塗られたように白く染まった。


「追い払ってしまった『冬の報せ』の代わりにはなるかしら」


 鎮火して間もないにもかかわらず、渦巻いていたはずの暖かな空気は、白い煙にすいこまれながら消えていく。その熱量を食らって生み出されるのは、水晶のように透き通って伸び続ける霜柱の群れたちだった。

 ただしそのサイズは、あまりにも大きい。一つ一つが、フィロの腕ほどもある。それがいくつもの束になって壁面を覆い、冷気を吐き出しながら純化していくと、数分前まで、業火の焚かれた巨大な暖炉だったそこは、真冬の冷光を満たして冴える蒼い氷穴に一変していた。

 冬を報せる北からの使者を追い払った結果として、季節神の怒りを買って、その到来が早まった。見る者が見れば、そのように解釈することもあるかもしれない。だがそれは、呆気にとられるような光景――というには、二人にとって、あまりにも見知ったものだった。佇んでそれを睨みつける主従は、それを成すことのできる物を知っている。


「氷の兎……」

 

 フィロが、奪われたブロツワフの魔術具の一つであるその名を呼ぶのと、冷気の煙の向こうで大きな影が揺れ動いたのは、ほとんど同時だった。ひしめき合う霜柱の音に混じって、金属の何かが砂利とこすれ合う音が聞こえてくる。それが、何者かの足音だと気がついたグズムンディーナが、指輪に魔力を満たして身構えた。


「やれるものならやってみろ、グズムンディーナ」


 氷霧の向こうから、挑発の声が響く。

 グズムンディーナが、その言葉の意味を理解するよりも先に、純粋な精神の反射によって、火矢の魔術を撃ち放つ。 

 いましがた荒れ狂う熱波を撒き散らしたものと同じ魔術はしかし、霧を払って飛んだ後、突き出された手甲によって握り潰された。砕けた火矢の欠片が、力を失いながら消えていく。


「――!」

「無駄だと言っただろうに。忠義に狂った雌犬が、お飾りの主に尽くすようなフリをする」


 火の粉を払い、なおも立ち込める白霧をゆっくりと推し分けながら姿を現したのは、全身から青白い光を放つ甲冑姿の何者かだった。

 いまだ距離はあるものの、フィロが視線を上げなければならないほどに大きな体格のその人物は、つま先から首元まで、その全身を隙間なく板金鎧で覆い尽くし、頭には前時代的な大兜を被り、そこに獅子を模った面頬までもがついていた。さながら『さまよう獅子鎧』とでもいうようなそれは、鉄靴に包まれた足の裏で砂礫の粒を踏み飛ばしながら、大股で浜辺へと歩き出す。そうして、グズムンディーナの燈した魔術のかがり火のすぐそばまでくると、威圧的なその風体が闇夜に浮かび上がるように照らし出されて、一層、巨大に見えた。

 緻密に作られた獅子面が、いまにも吠えたてんばかりの形相で、かがり火の中に浮かび上がっている。その虚ろにくぼんだ眼窩の向こうには、胡乱な光をはらんだ青い瞳が見えた。

 二人の主従は、その光に激しい敵意を刺激されながらも、己の中に在る感情を一時でも抑えるべく、それぞれの理性をよく働かせなければならなかった。




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