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龍の一族  作者: 鱈野 房
解纜の火
1/12

解纜の火・1

  黄昏すらもが、終りかけていた。


 はるかに見渡す水平線の向こうには、穏やかに揺れる波浪とともに、ゆっくりと夜へ沈みゆく太陽が、ほんのりとしたオレンジの光を湛えながら、その身をくゆらせている。そのとろけるような陽の光が、断崖に囲まれた小さな入り江と、ひとりの女を世界に浮かび上がらせた。


 その顔に幼さを残して、いまだ少女と呼ぶべき彼女の視線の先では、二つの小さな影が海の彼方へと進んでいた。それは、今日の終わりを告げる夕べの世界に漕ぎ出でて、どことも知れぬ明日へと向かうために送り出された、最後の船たちだった。

 彼女にはもう、こうして、いずこともしれぬ海の向こうに落ちていく同朋たちを見送ることしかできなかった。自らが庇護することができなくなった申し訳なさに、その特徴的な色をした蒼紫の瞳が、憂いを含んではわずかに潤み、揺れた。

 だが、まだしなくてはならないことも残っている。見送って終わりではないのだ。柳をえがく眉宇は穏やかなままだったが、筋の通った鼻梁の下では、豊かなふくらみに明るい朱のさす唇が、あらためて強く引き結ばれた。

 ここにみんなで残るという選択肢はなかった。そこで待っているのは、『族滅』という未来だけ。

 自らという小を殺してでも、大を生かす道は、海の上にしかなかったのだ。

 どちらが過酷な判断なのかは、わからない。なぜなら、少女だけではなく、一族の誰もが、海を渡るということを知らなかったらだ。

 太陽の沈みゆくより、より速く。見る間に小さくなっていくあの二つの船に乗ることを選ばなかった少女――フィロ・ブロツワフは、海の向こうを何も知らない。誰も知らないから、彼女も知らなかった。なら、ここに残って無為に死ぬよりは、海の向こうに一縷の望みを賭けた方がマシだと思う。

 すくなくとも、ここに残るよりは――はるかに()()だ。

 最近覚えたそんな言い回しが、すんなりと頭に浮かんだ。

 毒されているような気もしたが、悪い気はしなかった。

 彼女が船を見送るのに選んだここは、すこし北にある港から出て海上を西に向かう船を隠れて見送るのにはちょうど良く、誰かを誘いだすのにもうってつけだった。そんな場所はないかと地元の人間に尋ねた時に、ココしかないと太鼓判を押された場所だ。

 あまり広くない、というくらいのサイズであることがよかった。砂礫の浜にこうして立てば、海に向かっては他に遮るものもなく、どこまでも沖へと進んでいく船を、いつまでも見ていられる。それでいて、ごつごつと切り立った岩の断崖に囲まれているので、陸の方にいる誰かの視線からは完全に隠れられるという、便利な場所だ。地元の人々には、男女の逢瀬に使われるらしい。尋ねた時には、誰か意中の人を誘うのかと、下卑た詮索がされたのだろうが、まさか一族の別離と韜晦につかわれるとは、思いもよらないことだろう。

 世が世であれば、教えてくれた人たちには篤く報いたいところだが、すでに報いる手立ては失われていた。埒もないことを考えたフィロの頬を、少しだけ強く海風が撫でていく。

 季節はすでに、深秋に差し掛かった頃で、その頃には、いくらおだやかといっても、海から吹いてくる風も冷たい。真冬を意識するにはまだ早い時期だったが、海というのは風が吹くものだからと、グズムンディーナが強く勧めてくれた厚手のケープの袂を引き寄せながら、フィオは有能な侍女の忠言に感謝した。

 首都トートの宮廷も、この季節であれば寒いことは寒かったが、建物の中では暖炉が使われ始める時期でもある。この身を風に吹きさらし、遮るもののない海という自然と対面するのとは、大きな違いがある。外の世界には、フィロの知らない厳しさがまだまだあった。

 船で行く彼らもきっと味わうのだろう。きっと私が味わっている以上の自然の猛威と、航海の苦難を。 

 だからこそ、彼らにこれ以上の苦難の種を近づけさせてはいけないのだ。

 あらためて自分自身にそう言い聞かせるフィオの顔に、落ちてきた夕陽が差し込んだ。それだけでただ美しかったが、さらに、腰まで垂れた長の黒髪に夕陽が照り映えると、それはまるで、深まっていく秋に顕現した季節神のようにフィロ自身を輝かせた。

 追手がかかっていれば、何としてでもあきらめさせる。そう思いながら目を凝らす。フィロは目がいい方とはいえなかったが、ぐるりと見渡せる範囲には、後を追うような船がいるように見えない。橙に染まる夕暮れの海は、凪ぐでもなく、荒れるでもなく、ただおだやかに揺蕩っている。

 

 あの人たちは、沖に出てまで、彼らを追うだろうか――。


 古代、空から降りてきたと言われるトートルプスカの人々は、海に出ない。

 だから、そこから逃げ出す人たちは、海に出る。

 長い王国の歴史の中で、大勢の人々がそうしてきたことを知識として知っていたフィロは、おとぎ話に聞くその結末が、自分に――自分たち一族に待っているとは、つい数か月前まで、露ほども思っていなかった。

 そもそも、『麓の世界』と言われる場所に足を向けることさえ想像だにしていなかった身においては、『海』という場所が何であるのかも知らなかった。山上の世界から見下ろす大地は、その裾野をどこまでも広げ、フィロ達の一族は、人々が王と戴く存在に仕えて生きてきた。それゆえに、この暗く澱んだ液体の満ちる光景は、彼らの興味の外にあった。

 だからこそ、今目の前に広がるこの海というものは、あまりにも不可解だった。何を理由にして、このようなものがあるのだろう。その答えをくれる人間と出会うことは、ついぞなかった。

 だがそれ故に、この海にさえ、その沖にさえ出てしまえば、トートルプスの貴族たちはもう、それらに興味を失ってしまう。この海の先には、なにもない。どこからか来た人もいなければ、出て行って帰ってきた人もいないからだ。

 海に出た時点で、それらは死んだことになる。

 つまり、私たちの一族は、滅んだのだ。

 だから、もう彼らが追われる心配だけは、しなくていいはずなのだが。

 フィロが、この事態を招いた人物の執念を侮ることは、絶対にない。

 あの日、ブロツワフ一族に『族滅』の裁定が下ったことを報せに来たあの人の目を、フィロはまだありありと思い出すことができる。自分と同じ、青紫色をした瞳の男――その眼に、復讐の炎を静かに燃え上がらせた男。フィロを、そして自らの一族を討滅することを高らかに告げて、憎悪という名の剣を振りかざした兄の目を。

 それを思い浮かべるたびに、用心をするに越したことはない、と思いなおす。しかし一方で、そのような熱意が、ブロツワフの族滅に賛成した人々全員にあるかといえば、そうではないこともわかっていた。あの人たちは、振りかざした憎悪と功名と権力への欲望と、それらとどこかで折り合いをつける必要がある。そして、その折り合いは、ここに残った。

 追手がかかるかもしれない可能性よりも、追手をかけない理由の方を大きくする。それが、フィロが、この事態がはじまってすぐ、自らに課した務めだった。そうなるように、ここに来るまで、あちこちで手をかけた。逃避行の殿に身を置いた道中では、噂をバラまき、戦いがあればそこで姿を見せてやり、お前の憎む『ブロツワフの長者』がここにいるぞと、おおいに目立ってきたのだ。それをするために、フィロの郎党のほとんどが命を落とした。だから、海に出て、すでに死んだのと同じである彼らには、追手がかかってはならないのだ。


 追ったものはいない。

 と思うほどには、海は穏やかだった。

 目の前の、この海のおだやかさを信じたい。


 船は、もう見えなくなっていた。

よろしくお願いします。

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