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別離

 「あの、あんたさ……」


 双葉は口に出してから、これはまずかったと思った。振り向いたトトリの顔は険しかった。人見知りだというその性からか、双葉が無礼だったからか、それは読めない。


 「巫女さまの衛士殿の弟君、何か」


 トトリがあんまり素気なく言うので、双葉は意地になった。


 「双葉ってんだ。人の名前くらい――」


 これもまずかった。トトリは嫌味なくらいゆったりとした仕草で頷いた。


 「ええ、そうですね。わたしはトトリと申します」


 言いながらこちらを見る姿はやはり凛々しい青年のようだったが、本当は義姉よりも歳の長けた女人なのだと双葉は思った。


 別に女であることを隠そうというわけではないらしく、袖や裾から、男より小さな作りの手足が出ている。初めて見たときどうして気がつかなかったのだろうと双葉は自問した。


 トトリは立ち去らずにこちらを見ている。自分が話すのを待っているのだと、双葉は気がついた。


 「トトリさん。前に伊織の里に、あなたと同じ名前の女の子がいたんだ」


 トトリは何も答えず、続きを促すようにわずかに頷いた。


 「山崩れがあったとき――おれは覚えていないけど――叔父上が東の山の人たちを屋形へ連れてきたんだって。そのときは確かにその子もいたのに……」

 「朝みなが起き出したら、その子だけいなかった」


 トトリが結末を先に口にした。固い声だった。


 「そう、それで――」


 双葉はトトリにまだ話を続ける気持ちがあるか確かめたくて、上目遣いにトトリの顔を窺った。トトリは黙って聞いている。


 「――叔父上は、ずっと心配しているんだ」

 「そうですか」


 トトリは溜め息のように言いざま髪を掻き上げた。


 「あなたになら、話しても構わないでしょう。……確かにわたしは、山崩れのあと行方知れずになった伊織のトトリです」


 男のような姿をして生活しているわりに、トトリは素性をあっさりと告白した。嘘は嫌いだと、目が言っていた。


 「黙って出ていったことは、申し訳なく思っております。巫女さまや山辺彦さまに、一言でもお礼を申し上げたかった。長いこと悔いていました」

 「あの……」


 尋ねてもよいことかどうか、双葉は迷った。


 「どうして伊織を出てきたんですか」


 果たして、トトリは口を噤んだ。だがそれは束の間のことで、話してしまおうと覚悟を決めたらしく、また口を開いた。


 「山へ戻るのが恐ろしかったのです」

 「東の山へ? そりゃあ、また崩れるかも分からないけど……」


 双葉は押し黙った。思いがけないことに、トトリが笑ったのだ。


 「それだけの理由ならどんなによかったか」


 トトリの目がふいに遠くを見つめた。


 「わたしはにえに出されるところだったのです。地祇の怒りのために」

 「……贄? 捧げものにされそうになったってこと? 」

 「そう。あの山には、葵さまから数えて五代前に巫女をしていた人が住んでいました。わたしは小さな時分から父も母もなく、その人に引き取られました。一度は巫女王にもなったものが、里人を放っておけるものかと」

 「巫女をしていた人……」


 双葉は東の山の住人を覚えている限り思い浮かべたが、当てはまるような女人はいないように思えた。


 「義姉上と、ヤエナミさまと、そのもうふたり前だから、もう結構な歳のはずだろう」

 「ええ。わたしが引き取られたとき、わたしより小さな孫娘がいましたよ。知りませんか、千曲という人を」

 「ああ……」


 双葉は頷いたが、はっきりした姿が浮かんだわけではない。人を悪く言うことのない兄が珍しく苦手らしい相手なので、それだけの興味に尽きる。


 込み入ったわけがあると見えて、トトリの話はさっぱり先が掴めなかった。双葉はせっかちに尋ねた。


 「その巫女さまがどうかしたのか? 」

 「五代前の巫女――ハヤメという人でしたが、巫女をおやめになってからも占いをしたり草を煎じたりすることの多い人でした。根っからの巫女だったのでしょうね。そこまではよかったのですが、あるときから東の山のドクダミをどちらの宮にも届けなくなったのです。道を塞ぎ、自分を通さない限り誰の手にも渡らないようにしてしまった」

 「どうしてそんなことを」

 「さあ、分かりません。でも、薬草は大切な品です。それで巫女の宮から注意を受けたとき、ハヤメさまはあろうことか、巫女宮と伊織の神を呪いはじめた。それが神の怒りを買ったのです。巫女さまが宮にいらっしゃればそんなことにはならなかったかも知れませんが、ヤエナミさまが亡くなり、次の巫女が現れるのを待っているというときでしたからね」

 「そんな」


 双葉は不信心ではなかった。よりによって、神にもっとも近しいはずの巫女が神を呪ったということの、言い知れぬ薄暗さにぞっとした。


 トトリは身をすくめた双葉をじっと見ていた。


 「伊織としてひとつになる前、あの辺りにはいくつかムラが集まっていたそうです。山辺のムラ、川辺のムラ……そのうちのひとつが東の山にもありましてね。ハヤメさまの一族は代々、そのムラで巫女をしてきたのだといいます。伊織で祀られている神とは、違う神がいたのでしょうから」

 「それじゃあ、自分の本当の神さまじゃないから呪ったってことかよ。山の草のために」


 巫女さまだったくせに、と双葉が呟くと、トトリは目を光らせた。


 「薬草はときに人の命に繋がるものであるはず。軽んじてよいものではありません。――とはいえ、あなたになら分かるのではありませんか。ハヤメさまの気持ちが」

 「どうして? 」

 「帰れぬもののために忠心を捨てず、新たに受け入れるべきを拒む。晴山さまを敬わない、あなたと同じ」


 双葉は息を飲んだ。トトリは構わずに続けた。


 「忠実であることは悪いことではありません。しかしハヤメさまの過ちのために空は荒れ、大雨が降りだした。いえ、見方を変えると、あの晩の空こそハヤメさまの心模様そのものだったとも言えます。いずれにせよ、ハヤメさまはみずから災いを呼び込んだのです」


 恐ろしい晩でした、とトトリは呟いた。


 「ハヤメさまはそうなってようやく身の程を過ぎた過ちを悟り、里の神に許しを請うたのです。でも、それではもう遅かった」


 真っ黒の雲で、宵空は星ひとつ見えない。時折その隙を縫うように白い雷が走り、東の集落へ落ちては岩を砕く。木を焼く。小さな小屋は今にも嵐で飛びそうだ。けれど、中にいる人間を弄ぶかのように、雷はたやすくそこを撃ちはしない。


 老婆は髪を振り乱して天を仰ぎ、手を擦り合わせるが、それが通じないと分かると隅に縮こまっていたふたりの子のうちのひとりを鬼のような形相で引っ掴んだ。


 それがトトリだった。


 身の危険を悟り、泣いて嫌がるトトリを、養い親が押さえつけようとする。それでも逃げ出そうとする背を、普段からは考えもつかない力で千曲が突き飛ばした。……


 「ハヤメさまが、どうしてわたしを養ってくださったかは分かりません。里人を放っておけないというのも、嘘かもしれない。刀子を振り上げられたあと、どうやって逃げ出したかは覚えていません。気がついたら山辺彦さまの馬に乗せられ、屋形へ入れられていまました。あの小屋は外から見えにくいところにありましたから、助けていただいたのはわたしが最後のようでした。けれどわたしは、あのふたりがただ死ぬはずはないと思いました。山へ帰るのが恐ろしく、その夜里を抜け出し、さまよい歩いているところを晴山さまに拾っていただいたのです」


 だんだんと人のことを語るような口ぶりになっていく。声が淡いのだと双葉は思った。


 トトリは虚ろな目で双葉を見た。多分それは、晴山に拾われたときのトトリのまなざしと同じであったろうと思われた。


 「千曲は生きているのでしょう? 」

 「……ああ。山崩れのとき、あの小屋だけ土をかぶらなかったらしい。でもその、ハヤメさんは行方が分からなくて……」


 ようやく解けたトトリの謎と、東の山にまつわる兄たちの不幸を思い、双葉は言葉少なになっている自分を感じた。


 「東の山のドクダミの畑には、ついこの間まで祟りがあったんだ」

 「祟り? 」


 トトリが顔を上げた。


 「薬草が生えているのに、蛇やなんかのせいで誰も入れなくてさ。義姉上が呼ばれていって、祓いをしたらしいんだ。だけどそのとき何人も人死にが出て」


 思えばあの祓いを境に、義姉と兄は噂の渦中に引きずり込まれていったように思う。偶然をウカミがうまく利用しただけにせよ、双葉とて何かのせいにしなければやりきれなかった。


 「ふたりとも、いつの間にかみんなから背かれるようになっちまってさ。……ハヤメさんも、もしかしたらその祟りでおかしくなっちまったんじゃ……」

 「どんな祟りでした? 姿は? 」

 「姿? 」


 トトリがあまり熱心なようすを見せたので、双葉はたじろいだ。


 「さあ、おれ、一緒にいたわけじゃないから――。兄上は、白い蛇だったって」

 「千曲はハヤメさまの力を継いでいます」


 トトリはまた、不思議な繋げ方で話を続けた。だが今度は、双葉に急かす暇はなかった。


 「巫女なのです。人の身を超えた力を持っている。……そう、ハヤメさまが本当に心を尽くしていたムラの神は、蛇の姿をしていたそうですよ。血も通っていないような、真っ白のね。人から忘れられ、呪うことに慣れすぎた魂を神と呼べるかは分かりませんが――」


 わたし、好きな方がいるの。


 まだふたりの娘のひとりとして、ひとつの小屋に住んでいたころ。千曲は肉の薄い、痩せっぽちの指を唇に当てながら、トトリに囁いた。


 転んで膝を擦りむいたとき、聞いてくださったの。痛いか、って……。痛くはございませんと答えたわ。そうしたら、そなたは泣かないで立派だっておっしゃったの。


 彼は、彼が恋うる娘の真似をしたのだとは気がつきもしないで、千曲は釘を刺した。


 わたしが好きなのよ、あとから好きになったりしないでよ。きっとよ。でも、誰があの方を好きだって、負けやしないわ。


 一番に兄水葵さまを好きなのは、わたしだもの。



 水は、日に日に冷たくなっていく。


 下腹を丸く追い越してゆく川へ、あかるこはざぶりと沈んだ。遠くの方を、銀色の小魚が雪の舞うように泳いでいる。あかるこが手を伸ばすと、一斉に向きを変えて逃げ去っていった。


 指で髪を梳き、上がろうとしたが、あまり寒くてためらった。まだ秋の半ばだというのに、川から上がるともう冬に近いような気配すら感じる。


 海というところは暖かいのだろうかと、あかるこは衣を手繰り寄せながら考えた。追っていた川の向きがどうやら違うということで、また少し戻ってきたところだ。だが行きつ、戻りつ、ときにひとつところへ留まりながらも、伊織より北へ進んでいることは分かる。それに、旅そのものの進み具合は思わしくなかったが、そのうちに双葉が追いついてくるかもしれないという儚い望みを、あかるこもナギもまだ捨てていなかった。


 伊織は雪深い里だった。土に染みた雪が氷になり、土の色を吸って鏃の黒玉になるのだと、山辺彦があかるこに戯れたことがある。


 それならヒスイの出る里は、雪がそのまま固まって埋もれるのか、草木を透いて滴るうちに、氷に色が入るのか。大きな声でおどける叔父が、懐かしかった。


 だんだんと体になじんで温んできた川からようやく上がると、向こうを向いて番をしていたナギが振り向いたが、まなざしを投げておいて途端によそへ逸らした。


 衣の袷目から、肌が覗いたらしい。かえってあかるこより恥じらいを感じているようすで、ナギは厚い衣をあかるこに着せかけた。


 妻の肌を見ることに罪があるだろうかとあかるこは思うが、ナギには一律の敬意による線引きがあるらしい。それとも、女人の見せた隙につけ込むのを嫌ってのことかもしれない。いずれにせよ、ナギはしばらく顔を上げなかった。


 「寒くはないですか」


 ナギが尋ねた、ナギの方でも厚い布地の衣を着ているので、擦り寄ると肌の当たりが柔らかだ。


 「少し……」

 「じゃあ、もう少しこちらにおいでなさい」


 ナギは簡単にしぼっただけのあかるこの髪からまだ少し滴が垂れてくるのも構わずにあかるこを抱き寄せ、自分も少し妻の側へ寄った。今朝あかるこが結いそこなった髪が一房、ナギの肩からこぼれてあかるこの頬を撫でる。みずらのような凝った形に結わずにいると、ナギの髪も存外長いのだと、あかるこは近頃そんなことばかり考える。


 川辺に並んで黙っていると、鼓動がふたつ、聞こえる気がする。


 こうして旅するうちにどこかの里に辿りつき、十年も二十年も生きたあとこの頃のことを思い出すなら、ひとつの恋に縋って忍び続けた、あれは大変だったと思うかもしれない。


 けれど恋には山ほど形があって、幾通りもの愛情の中のひとつが自分たちの間にもあるのだと思うと、あかるこは追われることの苦労や、寄る辺ない身の上の寂しさをいつまでも忘れていられるような気がした。


 それがあかるこにとっての恋だった。


 「――あれは」


 肩にかけられたナギの手に、少し力がこもった。


 馬に乗った人影が、川上からゆらゆらと近づいてくる。色味を抑えた衣を着て、急いでいるふうでもない。だが、馬を持てる人間は限られていた。


 たやすい相手ではなさそうだという警戒と、いかにものんびり歩いてくるようすの不気味さで、ふたりは身を強張らせた。ずいぶん遠くまで来たとはいえ、まだ伊織のものたちをまったく振り切ったというわけではない。


 しかし、


 「高嶋? 」


 目を細め、そちらをじっと窺っていたナギの口から切望するような声がこぼれたのを、あかるこは聞いた。


 石上高嶋は、ナギの親友だ。ふたりにどんな友情があるのかあかるこは知らないが、里とともに振り捨てたものが目の前に現れて、ナギの心がそちらに傾いたのを痛いほど感じた。


 ナギはどうしたものか迷っているらしかった。先んじて高嶋の前へ出てゆくことも、身を潜めようとして動くこともせず、まだこちらに気づいていないらしい高嶋が近づいてくるのをただ見守っていた。


 あかるこはその背を押した。


 「行こう」

 「あかるこ? 」

 「会いたいんでしょう? 」

 「しかし……」


 ナギはそこから本心が漏れるのを恐れるように口元に手をやった。別れを告げる間などなかったのだろうし、暇があったとしても、ナギの性格ならば高嶋に累が及ぶのを案じて挨拶もなしに別れてきたに違いないとあかるこは思った。


 「行こう」


 あかるこが草を分けて進んでいくと、ナギが慌てて追ってきた。ふたりは勢い丈高の草を踏み倒して高嶋の前に出た。高嶋は思いがけないところから思いがけないものたちが飛び出してきたので、馬上で許される限りにぎょっとのけぞった。


 「……大水葵! 葵さま」 

 「高嶋」


 高嶋は呆然としすぎて馬から降りるのも忘れているようだった。上から友人を見下ろしたまま、口ごもって言った。


 「本当に会うとは思わなかったな」


 それからはっとして、


 「何をしているんだ。他に人がいたらどうするつもりだった」

 「考えになかった」


 ナギは友の背を抱擁しそうに見えたが、高嶋が同じ目の高さに降りてこないので少し歩み寄っただけで終わった。


 「君に会いたかったんだ――」

 「そうか……」


 高嶋はようやく馬から降りて、ナギをしげしげと見つめた。よく見れば、弓矢を持っているのだった。


 「おれは狩りをしに出てきたんだ。しばらく休みをもらっているが、衛士たちと一緒に遣わされているからな。伊織には、このところ戻っていない。……おまえたち、まだこんなところにいたのか」

 「毎日前に進んでいるわけではないからな」


 とナギは言った。


 「君こそ、よく供もつけずにこんなところまで来たな」

 「おまえたちが川に沿うているのではないかと言った人がいてな。本当に会えるかどうか、確かめるつもりだった」


 言ってから、高嶋は首を振った。


 「いや、信用の置ける女人の言だ、案ずるな」

 「君は変わらないな」


 ナギは胸に迫ったものがあるようだった。声が潤んだ。


 「何を爺くさいことを……」


 高嶋は少しやけ気味に笑った。


 「ところで、どうやって里を出たんだ? あの晩は里中の衛士が巫女の宮の周りに集められていたんだぞ。こっちは生きた心地もしなかった」

 「手を貸してくださった方がいて――」


 ナギはそこで言葉を切りかけたが、


 「小棘さまが」


 とつけ足した。別れてゆく友にくらい、本当のことを明かしておきたかったのだろうとあかるこは思った。


 「小棘さまが? ……」


 高嶋の眉が何か言いたげに寄った。だが何も言わなかった。


 「双葉のことを知らない? 」


 あかるこは尋ねてみた。小棘のすぐ傍らに仕えている高嶋なら、何か聞いているかもしれないと思ったのだ。


 「双葉? 一緒ではないのですか? 」


 高嶋は首を傾げた。ナギが続けた。


 「伊織の里山の岩屋で別れてきたんだ」

 「伊織にはいないと思うぞ」


 高嶋は考え考え言った。


 「おれが伊織を出てくるときには見かけなかったから、おまえたちを追って里の外に出たのではないかな」

 「そうか」


 そのときあかるこはナギの目に、力が一遍に抜けたような快い安堵が現れるのを見た。里中の岩屋は調べつくされているはずだ。小棘は双葉を助け、そのことを口外しなかったのに違いない。傍らの、高嶋にさえも――そういう目だったが、やはりそれだけではなかった。


 どうやら無事らしいという安堵、しかし行方の分からない不安、……そんな情の中に、抜け切らない憂い。あかるこの瞳に明るみが絶えないように、ナギの目には悩みが絶えないらしい……。


 「双葉はいないのか」


 高嶋は誰に向かって話すふうでもなく、隅に向かって呟いた。


 「なら、もっと用心した方がいいんじゃないか」

 「わたしたちは海へ出る」


 ナギがあかるこの腰を抱き寄せた。


 「最後に会えてよかった」

 「待て! 」


 急に大声を出したので、高嶋の馬が怯えて首を振った。


 高嶋はそんな大声を出しておいて、ぼそぼそと後を続けた。ふたりの方を一度も見なかった。


 「明日、もう一度会えないか。きちんと見送りをしたい」


 高嶋は馬に乗り、早駆けに去って行った。


 あっという間に草地へ消えていく背を見つめながら、ナギはいつまでもあかるこを離さずにいた。



 よく晴れた日だった。


 あかるこは空に手を翳した。高く澄んだ天に柔らかく黄色味が差し、爪の先にきらきらと縁取りができる。


後ろからナギの手が添い、指を握りこんだ。ナギはそういう、他愛ないふれあいが好きらしい。


 「何を考えているんです」


 頭の後ろに、広い肩がある。


 「何も」


 あかるこの手についた傷の、一番長いのをナギの親指がすっと撫でていく。気にしようとすまいと、擦り込む油もないその日暮らしに傷は増え続け、若い肌を隠すように、いつまでも居残る。


 そんな手でも、ナギは愛しいと言った。


 一度だけだったが、確かに聞いた。


 みなに背いて生きることは、決して過ちのためではないと言っていた――。


 「高嶋、遅いね」


 言うと、ナギの手が指の名残りを残しながらゆっくりと別れた。そうしておいて、小さな声で言った。


 「見送りを許してくださってありがとうございます」

 「ううん」


 あかるこは草地に熱心に人の姿を探すふりをした。今、ナギはナギを見てほしくないのではないかと思ったのだ。


 「これが最後です……」


 ナギの指が首筋まで上がってきて、あかるこは思わず振り向いた。ナギは意外にすっきりした顔つきであかるこを見つめていた。悩み惑う色が、少し薄いように見えた。


 「わたしはあなたと生きる」


 明るい陽が差していた。


 ナギの目の、とても深いところまでが一遍に光を通し、一枚の隔たりもなく見えた。


 「綺麗」


 何をするつもりでもなく、何気ない振る舞いのうちに、あかるこはナギの頬に手を伸ばした。何ですか、というように、ナギが首を傾げた。


 ――草地が風もなく音を立てた。


 ナギはそちらへ目をやり、片腕であかるこを抱き寄せた。もう片方の手の指が、剣の柄の先に少し触っている。本気で抜く構えではないと見て、あかるこは草の間へ呼びかけた。


 「高嶋? 」


 返事はない。


 「高嶋、来てくれたの? 」


 誰も答えない。気のせいだったのか、と草地を窺おうとしたあかるこの肩へ、ナギが手をかけた。


 「下がって」


 柄を握っている。白い刃がきらりと覗いた。


 「誰だ」


 誰何すいかし、八方を睨み渡すより早く、草の陰から刃が二本飛び出した。伊織の衛士たちだ。綴りあわせの鎧を身につけている。突きの切っ先は油断なく、ナギは辛うじて一方を弾き、一方を受けた。


 「伊織のものだな」


 聞けば違うと言ってくれるかもしれないという、ナギの心が見えるようだった。ナギと刃を合わせて押し合っている衛士は、何も答えずに飛びすさった。ナギは不意打ちを与えにきたふたりを見据えた。


 「声もかけずに斬りかかるのが里の礼儀か」

 「こちらとて無用な犠牲は出したくないのでな」


 衛士たちの後ろから、もうひとり男が顔を出した。長いこと山辺彦の下で衛士頭の務めを助けてきた、ヤスオという男だ。かつてはよく屋形を訪ねてきてあかるこに戯れ、笑わせた男だ――。


 ヤスオは衛士たちを下がらせた。


 「そこにおれ。大水葵とはまともに打ち合ってはならん」

 「ヤスオさま」


 ナギも、思わず切っ先を下げた。ヤスオはあかることナギに順に目をやり、苦い顔に無理にほほえみを貼りつけた。


 「久しいのう」

 「これは一体どういうことです」


 ヤスオはたちまちほほえみを消した。


 「どういうこととは、どういう意味かな」


 高嶋の名を出すことははばかられ、ナギは答えに詰まり、あかるこは黙り込んだ。ヤスオは険しい声で言った。


 「我々は衛士だ。命じられたら捕えねばならん。追われるかもしれぬとは、思わなんだか? そのような心づもりで、巫女王をかどわかし、里を抜け出したのか。若さゆえとは片づけられぬ青さよな」


 野辺に果てる覚悟もなかったのか、とその声は問うていた。


 ナギがあかるこをかどわかした? あかるこを救い出すために燃え盛る炎の中に飛び込み、里を出てからもずっと守り続けてくれたナギが? 


「里を出てからずっと」


あかるこは黙っていられずに言った。


 「覚悟が必要だったのは、生きることの方にだったよ――生きていく方が、勇気がいるんだ」

 「それはその通りかもしれんが……」


 ヤスオは身を引き、認めた。だが、


 「葵さまの叔父上にも、そう言ってやってほしかったのう」


 ようやく里へ戻った若い衛士から報が入った、とヤスオは澱みなく言った。


 「山辺彦さまは亡くなられた。盗人たちから衛士たちを守るためにひとり剣を取り、最後は斬られてしもうたそうじゃ。……大人しく捕らわれてはもらえんか。そなたらを庇えるものは、もう里にはおらんのだ」


 あかるこはのろのろとナギの顔を窺った。ナギは一切の情の抜け落ちたまっさらな顔をして、ヤスオの肩の辺りを眺めているらしい。


 口元が緩み、かえって半笑いみたいにうつけていた。


 「信じません。あの方は、盗人になど倒されない」


 ナギは切っ先を上げた。


 「惑わされはしない」

 「少しでも罪を軽くしてやりたかったのだが……やることなすこと、すべてが罪と言われてしまうからな」


 ヤスオが剣を抜いた。


 「そなたを斬るつもりはないが、剣を抜かれたら応じぬわけにはいかん。好きにするがいい。そなたらには、どうしても王の前へ出てもらう」


 ナギは引かなかった。いかな剣撃にも臆することなく、ヤスオよりも若いという一点に賭けて、受けた倍斬り込んでいるように見えた。


 ……だがじきに、刃など持ったこともないあかるこにさえ、ヤスオの剣の質が分かってきた。と同時に、ナギの不利を悟らずにはいられなかった。


 ヤスオは巧みだった。ナギと比べれば緩やかとも見える足運びで、悠々と歩を進めてくる。ナギの刃をかわしながら、わざとナギが斬りやすいところへひょいと身を入れたりする。ナギが斬ろうとしているのか、ヤスオがそう仕向けているのか、あかるこには分からなかった。


 「そなたの師の剣じゃ」


 とヤスオが呟いた。


 「それでもあの方は負けた」


 答えようとしたのか、荒い息をしようとしたのか、ナギの唇が開きかけたが、そのときヤスオが無理に鍔迫り合いを仕掛け、太く骨張った肩でナギを突き飛ばした。ナギは押された力を使って後ろ向きに転がったが、片手を尖った石の上につき、左の大指の肉を削がれた。


 「剣を放らなかったのは褒めてもよい」


 ヤスオはナギの左手が血塗れになっていくのを見て少し気の毒そうな顔をしながらも、間を詰めることを忘れなかった。


 「だが、運もまた才のうちじゃ」


 ナギは右腕だけで剣を持ち上げた。刃先が震えている。ヤスオは溜め息をついた。


 「振るのは無理だ。手首をひねるぞ」

 「あなたの足を狙うことくらいはできる」

 「そうか」


 ヤスオは本当に気の毒そうな顔をして、剣を構えた。相手に向かってくる意思がある限り、彼は剣を向けなくてはならないのだ。それは、ヤスオなりの敬意の表れでもあった。


 「惜しいのう……」

 「ナギ」


 あかるこはたまらず前へ出ようとしたが、


 「あかるこ! 」


 ナギが一喝した。初めて見る剣幕だった。


 「なぜお逃げにならなんだ」


 ヤスオがあかるこに聞いた。


 「大水葵は、まだあなたを逃すつもりのようだが」

 「わたしひとりが相手なら、見逃す気になるの? 」

 「……我ながら愚問であったな」


 今さら離れてどうなる、とあかるこは思った。ヤスオは目を細めた。だが何も言わずに、ナギに剣を向けた。……


 ――ヤスオが急につんのめり、剣の切っ先がナギから外れた。ナギが唖然としている、それを認めるか認めないかというところで、あかるこは乱暴に押し倒された。腹の上に、衛士のひとりが乗っている。ヤスオは彼に突き飛ばされたのだ。


 首に剣だこだらけの指が食い込んだ。棒のようになったままの脚で抗うことも忘れ、あかるこは喉を震わせた。息が通らず、声も出ない。


 「何をしておるのだ! 」


 ヤスオが衛士に叫んだが、衛士はびくともせずあかるこの首にかけた指に力を込めた。聞こえていないのかもしれない、何も――。あかるこを押さえつけている力の主とは思えないほど沈んだまなざしは、死人のように虚ろだった。


 「命に背くつもりか! 」


 ヤスオが駆けてくるらしい……。


 目の端に小さな輝きが走り、衛士があかるこの脇に崩れた。ナギの刀子が首に刺さっている。傷口から血が一滴、雨だれのように頬に落ちた。


 突然息が通い、あかるこは背を丸めて咳込んだ。絡んだままの脚を引き抜いて後ずさると、衛士の片目がこちらを向いているのが見えた。あかるこの首を絞めているとき見えた目と少しも変わらない。彼の命がいつ絶えたのか、分からない。


 「刀子を投げるとは」


 ヤスオは衛士の体に向かって拝礼しながら呟いた。後ろで控えていたもうひとりは凍りついたように立ちすくんでいたが、死者に礼を示すため、はっとして額を土に擦りつけた。ナギは刀子を投げた格好のまま、呆然としてこちらを見ていた。


 ヤスオは衛士の胸から首飾りを外した。力ない仕草だった。


 「なぜ急にあんなことをしたのか……」

 「まだナギを斬るつもり? 」


 あかるこはヤスオに問うた。ヤスオはぼんやりした目であかるこを見返した。何が起こったのか、よく分かっていないのだ。殺されかけたあかるこにも、急に部下を失ったヤスオにも、刀子を投げたナギにさえ。


 「出直そう。送の場で血を流すことはできぬ」


 ヤスオは残った衛士を従えて背を向けた。草の根の、少しの盛り上がりにふらつきながら。


 「ナホワカというものじゃ。弔ってやってくだされ」


 ナギがそばへ来て、ナホワカの目を閉じてやった。ナギはナホワカの首から刀子を抜き、自分の衣の端で拭ってから、ナホワカの胸に置いた。刃は、死者を悪霊から守る。別の刀子を置きたくても、まったく使っていない刃の持ち合わせなどなかった。


 高嶋が、ヤスオたちに言い告げたのは間違いなかった。進んで告げたのか、密会が知られて吐かされたのかは定かではないが……。


 明日を約すとき、高嶋はふたりの目を見ようとしなかった。ナギは言葉少なだった。


 「あかるこ」


 ナギは一言呼び、あかるこの頬に手をやって、袖でナホワカの血を擦った。


 「無事でよかった」


 手はそのまま下ろされた。


 互いに黙り込み、触れ合わずにいると、余計にやるせなかった。あかるこは試みに、ナギの左手を求めた。ナギは万事、あかるこの好きにさせていた。


 ナギの左手の大指には、石の裂いた痕が赤く開いていた。袖口を真っ赤にしたきりで血は止まりかけている。


 「痛い? 」


 あかるこが聞くと、ナギは西日に溶けてゆきそうなほほえみを浮かべた。


 「……はい」


 兄水葵と呼ばれ、痛くはないと意地を張れた頃とは、何もかもが変わってしまったのだと、そのほほえみは言っていた。里も、友も、師も。


 あかるこは大指の傷口から毒を吸い出し、領巾を千切って巻きつけた。どんなに痛くても、辛くても、ナギは生きているのだ。


 東の山で、祟りに食い殺された若者たちの目。あかるこを襲い、死んだナホワカの目。野辺に倒れたという叔父の目も、もしかしたら彼らのように空しさと寂しさとに満ちていたろうか……。


 痛ましい幻想を抱きながらも、このときあかるこが感じていたのは恐怖でも、嫌悪でも、悲しみですらなかった。あかるこは、ナギの目が死者たちのそれと同じにならなかったことに、ただ安堵を感じていた。


 「あかるこ」


 あかるこはナギを抱きしめた。ナギは少しかすれて上擦った声で止め立てしようとした。


 「血がつきます……」


 それでも、声と裏腹に両の手は持ち上がり、あかるこの肩にそっと触れ、やがて背を包み込んだ。ナホワカに刀子を投げたあとで、ナギは思いがけない己の暴力に怯えているのかもしれなかった。剣を取れば誰よりも強いが、もともと誰よりも優しい青年だから。


 胸の奥が静かに鳴っている。ふたりが温めあうには長くかかった。ナギも少し泣きたかったのかもしれない……。


 ナギの傷ついた左手の陰に、ナホワカが寝かされているのがあかるこから見えた……その目蓋が震えて、ぱくりと開いた。


 ――夢中でナギを突き飛ばしたが、ナギは大してよろけもしなかった。あかるこ、と訝しむ口は、最後まで言い切らなかった。


 あかるこは刀子に刺されて倒れた。刀子を投げたナホワカは、ナギの方を一瞥して元の通りに死んだ。


 何も聞こえなかったけれど、ナギの口が開いている。


 悲鳴かもしれない、とあかるこは思った。

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