岐路
最果てへとひたすらに、川を辿ってゆく旅はなかなか進まなかった。枝分かれした先を三日かけて追って見失ったり、雨で水かさが増えて近づけなくなったり、そんなことの繰り返しだ。
それでも、伊織から離れていくことに違いはなかった。時に立ち寄った里でしばらく世話になったり、必要なものを仕入れたりしながら、ふたりは少しずつ旅を続けた。あかるこが摘んだ薬草や占いはどの里でもありがたがられ、ナギとともにいつまでもいてくれないかと請われたことは一度や二度ではなかったが、どんなに長居した里にも最後には必ず別れを告げた。
そのうちに、人目につきやすいあかるこの装いは、だんだんと普通の娘のような身軽なものになっていった。
「ずいぶんたくさん換えてくれましたよ」
とある里で食べものを都合しに行っていたナギが、瓜やら干した魚やら豆やらを抱えて戻ってきた。どこかに少し立ち寄るだけのときは、ナギが様子を見に行くことになっていた。首飾りに三つついていた黒い玉の鏃が、ひとつだけになっていた。
「ヒスイと換えてくれないかと頼んだら、黒い玉の方がいいと言われました。この辺はヒスイは手に入るけれども鏃の黒玉が取れないし、持つ人もあまり来ないとか。よく磨いてあって食べるものだけではもったいないからと――」
ナギはあかるこの掌に色とりどりの玉の粒をいくつも乗せた。柔和な形に磨かれている。
「ヒスイもいただきました。これで飾りを作りましょう」
ナギはあかるこに首飾りを千切らせてしまったことを気に病んでいたらしい。飾りの体でみな身につけているが、鈴や美しい玉は魔除けになるのだ。追手のある身で何も守りがないのは心許なかった。
元の飾りを千切ったとき、一番大きな青い玉や小さな勾玉や、赤い管玉のいくつかが衣へ入って残っていた。ヒスイと混ぜれば、急ごしらえにはふさわしくない美しいものができる。ナギは一方のみずらを解き、結い紐を糸として、あっという間に一連の飾りにした。
「よく似合います」
ナギは青い玉の飾りをあかるこの首に飾ってみて満足そうに見ながら、自分は半端なみずらをやめて髪を一括りにした。ナギが頓着しないせいか随分雑な手つきと思えたが、面持ちが優しいためにどんな結い方だろうが見映えがした。
「直してあげればよかった」
あかるこが呟くと、ナギもしまったという顔をして手を止めた。だが、ほほえみはすぐに戻った。
「明日直してください」
明日を約せるのは幸せだ。傍らから想いあうのと同じように。
「見て、アケビもヤマモモもこんなに」
ナギのいない間に、鈴なりに実っているところを見つけたのだ。あかるこは袖を開いて赤い実を見せようとした。
「しっ」
ナギが言い、木立ちの向こうを一瞥した。
「つかまって」
こう言われたときどうするかは決まっていた。あかるこはナギの首に片腕を回し、背におぶさった。
誰かが近づいてくる。ナギは木立ちを警戒しながら近くの木の窪に足をかけ、ひょいと苦もなく上の方の枝へ上がった。ナギのような背の高い人間は、木の上ではいかにも不便そうに思える。追手はナギのことをよく知っている衛士たちだったから、今まで気づかれたことはなかった。むしろ、地元の子どもらに見つかり、遊び相手にされることの方が多かったくらいだ。
伊織の衛士たちがやってきた。ふたりとも衣の丈が少し長くて、秋を迎えるために母や姉妹が新しく仕立てたものを身につけてきたのだと分かった。どちらも妻などまだまだという、若い顔だった。
「ああ」
まさか聞いているものがいるなどとは夢にも思わないのだろう、一方が言った。
「こんな遠くまで来ることになるなんて、思わなかった。早く里へ帰りたいよ。今頃みんなして稲を刈るんだ」
「うちだってそうさ。米がいいなんて言わないから、母ちゃんの飯が食べたい……」
ふたりはあかることナギが息を殺している木の下を通り過ぎたが、ふと声を弾ませて立ち止まった。
「アケビがこんなになってら。みんな喜ぶぞ」
「おまえの虫が食ってるぜ」
「オタカさま、怒るだろうか」
「構やしないさ。いつ死ぬか分からないんだ、アケビくらい食べたって」
ひとりがよく太った実をもぎ、呟いた。
「今は、死んでも巫女さまに弔ってもらえないからな」
急に自分の話が出たことに驚いて、あかるこは袖からヤマモモをひとつ取りこぼした。声も立てられず、柔らかで潰れやすい実を捕まえようともがいたが、結局ナギが掌で受けとめ、あかるこの口へ入れた。
樹下のふたりはアケビに夢中になっていて、上を見ようともしない。話はどうやら、巫女の周りからまだ離れてはいなかった。
「よせよ。今度はおれたちが腕を茹でられてしまう」
上からアケビの白い肉が見える。摘んだ茎の跡から人がいることを悟られなければいいけれど、とあかるこは身を縮めた。
「初音さまさ、相当頭にきていたみたいだ」
「そりゃあそうさ。ガマ爺、媛さまを悪者にしようとしたんだもの。で、衛士を疑ってみたり、媛さまを追わせてみたり――いい加減誰でも分かるよな、あそこまでやっちゃあ」
「だけど誰も逆らえないもんな」
「まあ高嶋さまは仕方ないにしたって、オタカさまは可哀相だったな。大水葵さまに追いつけなかったからって、大火傷だもの」
「可哀相なもんか、あの人おっかねえよ。しばらく怪我しててほしいな」
衛士たちは遠慮なくものを言い、座り込んでアケビを食べている。ナギはあかるこを導き、そろそろと木の上を渡りはじめた。多少の物音は、葉が擦れ合う音に紛れる。
「そうだ、高嶋さまの腕の話、聞いたか? ひとりだけ、やけに治りが早かったって」
「誰か手当てしてくれる人がいたんだろう。近頃、通っていく人ができたらしいよ」
相手は途端に黒い種を噴き出した。
「高嶋さまはいつでもどっかにいい人がいるじゃないか。人当たりがいいからもてるんだろうなあ」
「けどさ――」
声が緩みはじめた。ふたりとも、うつらうつらしているのである。
「里を捨ててさ、疑われてさ、それでも構わないほどひとりに惚れるのって、どんな気持ちなんだろうか」
あかるこは思わず足を止めた。枝葉を透かして下を覗いたが、ふたりは眠ってしまったあとだった。
「あかるこ」
囁き呼ぶ声に振り向くと、思いがけない近さでまなざしが交わった。降りましょう、掴まってと言われたのを幸いに、あかるこはナギの肩口へじりじりと頬を押しつけた。ちょうどその辺りを、さっと熱が走ったのだ。どうしてか、顔を見られたくなかった。
ナギはあかるこを抱えて衛士たちのいる方とは逆側に飛び降りたが、そのまましばらくあかるこを離さなかった。
そんなことも許されるようになった。
「ナギったら、お猿みたい」
ナギの胸にしがみついたままで言うと、背を離れた手が頭を抱いた。
「あなたの言い方には毒がありませんね」
つむじの辺りに、唇が寄っているらしい。
ひとりでに割れた紫のアケビの実は、とろりとして甘かった。
※
この頃は、朝と晩がひどく冷え込む。
夕刻見つけた小さな洞には、火の熱は長くは溜まらない。ナギは火の温もりを背にしてこちら向きに寝ているあかるこをわずかに抱き寄せ、鋭い川辺の風から白い手足を守った。
洞は、近くの村のものたちが神庫として使っているらしい。つるりとした丸い岩に、玉飾りと鈴が連なってかかっている。中に灯りが見えても、疑われることはないだろう――夜通し祈りを捧げる人もあるというから。夜半の灯りが祈りの火だというのなら、わたしたちの火はまさにそれだとナギは思う。
一日一日を青ざめて、縋るようにして生きてきた。人の身の内の願いも、そうしているうちに変わっていく。長い間の片恋はどうやら叶ったけれど、今は日の下の人目が怖い。捨ててきたもののことを考えるのはもっと怖い。
だが、ようやく手に入れたたったひとつの恋情は、何にも勝る幸いだと思っている。
あかるこはナギの背を抱きしめて眠っている。体が温まって、憂いの影もない。安らかに眠っているだけの人の顔がこんなにも美しいということを、ナギは知らなかった。どうしてこの媛を害そうなどという考えを心に抱くものがいるのか、どうしても分からなかった。
目の前の額に額をすり寄せた。手を握ることさえためらわれた昔を思えば、それは限りなく尊い行いに思えた。
この人はわたしの妻なのだ。夢も思い出もどこにでも忍んでくるけれど、囚われてはいけない。
肩を引き寄せて口づけした。
わたしたちは、生きねばならないのだ。
※
晴山の里は、伊織よりも狭かった。
本当は伊織よりも賑わっていて、道に市が立ち、人が満ちている。そのせいで狭く見えるというだけで、土地は伊織よりもずっと広いのだろう、と双葉はぶすくれた。
「どうだ」
晴山は肩に乗せた鹿を揺すり上げて、双葉に言った。
「大きかろうが」
「どうして誰もあんたに挨拶しないんだ? 」
魚を売っている男子も布を売っている女人も、道で遊んでいる童たちも、晴山の姿を認めても額づくものはひとりもない。朗らかに頭を下げるのがせいぜいだ。それだって、双葉にはちょっと頭を傾けたのと変わらなく見えた。
晴山は狩人のような泥だらけの衣を誇って胸を張った。
「わたしは今、王の格好をしていないからさ。そのようにしてくれと言ってある。王も昔々は、民のひとりだったはずなのだ。民という言い方もなかった頃はな……。少し出歩いたぐらいで頭を下げられるのは性に合わん」
「いい里だな」
と双葉は認めた。
「だろう? 」
晴山の髭面がいかにも嬉しそうに寄ってきた。双葉は腕を振り上げて晴山を追い払った。
「道が整っているっていうだけさ。そこを褒めたんだ」
晴山の宮は壮大だった。木造の屋形が連なっているのは伊織も同じだが、最奥の屋形の屋根を葺いている、きらきら光る青い板が双葉の目を釘付けにした。
「なんだあれ」
双葉は思わず立ち止まり、そばを通った女官たちに笑われた。王宮の広い庭を見知らぬ顔が王とともに歩いているというので、宮の内で騒ぎになっているのである。もっと目を引くであろうヒノクマたちや他の衛士たちはひそかに伊織へ戻っていて、山辺彦とふたり晴山の後に従う双葉は、若い上に仕草が素直でなおのこと目立った。
「珍しい技じゃ。美しいのう」
山辺彦が褒めた。晴山は分かるか、と頷いた。
「この間里に来たものが、妙な風体の男でな。どこのものかと聞くと、あれで家を葺いているところから来たという。瓦というらしいよ。東の海まで行くつもりだと言っていた」
「魚の鱗みたいだ」
双葉としては、けなしどころのあまりない物珍しい技に精一杯の憎まれ口を叩いたつもりだった。
晴山は気を悪くするどこらか、かえって機嫌をよくした。
「わたしもそう思うぞ。あの男、海の神の使いだったのやもしれぬ。屋根をみんなあれで葺いたら、瑠璃の里になるのう。なあ双葉、竜宮のようだと思わぬか」
双葉は晴山をまじまじと見た。
晴山は、大武棘のやっと半分の齢というくらいの若い王だ。若いといっても王だから、道中幾度も厳かな顔を見てきた。おどけた顔は偽りではないが、すべてではない。
その晴山が、知らない国の話をするとき兄ほどにも若やいで見えたので驚いたのである。
だが大水葵とは重ならない……双葉は兄のことを遠く考えた。年相応に見えることの少ない兄だった。
弟にさえ、望みを悟らせない兄だった。これがいいという希望からこれでは嫌だという不満まで、あらゆる望みを心へひそかに浮かべ、滅多なことでは口外しないのだ。それで、歳が長けて見えることもあった。
そんな遠慮がちな兄が人並み以上に執心したのが、義姉のことだった。
止める間もなく燃えさかる火の宮へ飛び込んでいった背には、誰の声も届いていなかったろうと思う。あの日、衛士たちの列を抜け、北の山で落ち延びてくるはずのふたりを待つ間に、双葉はおよそ若者らしくない、少し熱の欠けがちな兄を思っていた。
あの人も、やはり人間なのだと思った。人より情が細やかだから、見えにくかっただけなのだ。
義姉はそれを分かっていた。ろくに寄り添ってもいないくせに不仲と見えなかったのはそれが理由だ。
だからあの岩屋で、この期に及んで弟を案じる兄を怒鳴りつけたのだ。
海は広いぞ、と晴山は笑った。このとき双葉はふと、兄が義姉を導いていくとすれば、海を目指すのではないかと思った。
「王、お戻りですか」
宮の階から降りてきた青年が、晴山の足元で叩頭した。双葉の見た限り、初めて晴山は王と呼ばれたのだった。
晴山はおうと答えたが、双葉と山辺彦に向かってこっそりと肩をすくめた。宮を空けるとうるさいと晴山がぼやいたのは、どうやらこの人のことらしいと双葉は思った。
青年は王の後ろに突っ立っている双葉と山辺彦を見て、実に分かりにくかったが、かすかに眉を寄せた。
「巫女さまと衛士殿を探しに行かれたのでは? 」
「うん、まあ、事は必ずしも思った通りには運ばぬよ。彼らは巫女王の叔父上と、衛士殿の弟君だ」
よろしく頼む、というところまでふたりの代わりに言って、晴山は頭を掻いた。
「山辺彦殿、双葉、これなるはトトリ。我が里の衛士頭だ」
「トトリ? 」
山辺彦が聞き返した。
トトリは眉を上げたが、特に何も言わなかった。
「宴の仕度が済んでおります。王と、おふたりも、どうぞ宮へ」
「鹿の肉も今からさばくよう、厨のものに頼んでくれ」
晴山が言った。トトリは頷き、鹿を受け取ろうとしたが、晴山は穏やかな声音で拒んだ。
「よいよい、届けにゆく。そなたには少し重いぞ」
「トトリか……」
厨へ向かう背を見送りながら、山辺彦が呟いた。叔父がしきりとトトリを気にするので、双葉は後ろ姿から何か探れるところはあるまいかと気を張った。
「別にどこも変わったふうには見えませんが……」
「いや、なに。昔トトリという娘が東の山に住んでいてな。山崩れのあったあとから姿が見えなくなってしもうて」
「なに。例の、巫女殿が夢に見た山崩れか? 」
晴山が覗き込んだ。ふたりより体が大きいので、少しかがんでやっとうまく話が通じるのだった。
晴山はふうん、とトトリの去った方を見た。
「あのトトリがこの里へ来たのが、ちょうどその頃だよ。まだ小さな娘だった。だがな、どこから来たのか、どうして来たのか、尋ねても答えてくれなかった。今もだ」
「あの人、女なのか」
双葉はひとりごちた。確かに、衛士のような姿をしてはいたが、随分まろやかな頬をしていた。
小声で呟くに留めたのは、青年のような装いに惑わされて判断を誤ったことなど恥ずべきことだからだ。
「わたしはまだ王子だったのだが、狩りに出た帰りにあれを拾ったのだ。まあ、行くあてがないのならと思って何となくそばに置いていたら、いつの間にかその辺の男子では太剣打ちできないような女人になってなあ」
やれやれと晴山が言うその声は、あまり困っているとも思えなかった。
「おまえたちの里にいたトトリという娘のことは、わたしには分からん。関わりがあると思うなら好きに聞いてみるがいい。ただ……」
晴山はこれは伏せろよ、と前置きしておいてから言った。
「伊織の巫女王を里に迎えたいと話したとき、トトリは反対しなかったよ。その類の話でトトリが反対しないというのは、大賛成ということなのだ。あの娘は人の好き嫌いがはっきりしている上に、ひどい人見知りでな。珍しいこともあるものだと思ったが」
※
声を立てずに、忍んでいった。
だが小屋の主は暗がりに構わずおれを見透かす。
「高嶋さま」
千曲が嬉しげに呼んだ。白い指がいじらしい。あの指が触れてゆくたび、腕の火傷も癒えていった。
高嶋は腕を広げた。そうすると、飛び込んでくる女と、ためらう女とがいる。あまり勇んで抱きつかれるよりも、もじもじと要領を得ず、頬を染めて立っていられる方が好みだ。
もちろんそんなことを口に出しはしなかったが、初めて訪ねたときの千曲の振る舞いは、高嶋の勝手な好みをすべて叶えた。叶えた上で、こちらがたまらなくなるような、優しい仕草で寄り添ってくるのだ。
ほら見ろ、と今や里から追われる身となった友人に向かって勝ち誇った。
おれの言った通りの、美しい女人だろうが。
「王子さまのところへ行かれなくて、よいのですか? 」
腕の中へ来て、千曲が囁いた。高嶋は胸を張った。
「よいのだ。今は休みをいただいている」
盟神探湯では二心のないものは火傷をしないことになっていたが、湯に腕を通した衛士たちの中には剣もまともに持っていられないものもいて、みなが順に休みをもらうことになった。
休みを出したのは小棘だった。腕を治してから戻れと高嶋たちに言った。大武棘と違って、本当の意味で盟神探湯など信じてはいないのだ。
――それなら、止めてくれればよかったのだ。
煮えた湯の前に立ったときの、小棘の顔を思い出す。小棘の方は、高嶋がいつ何をしたか覚えていないだろう。小棘は一度も、高嶋の方を見なかったのだから。
「小棘さまにも、ご事情がおありだったのですわ」
と千曲が小棘を庇った。
「せっかく、里の平安が結ばれようというときだったのですもの。高嶋さまなら、それをお分かりになると思われたのでしょう」
「そうだな。分かっている」
高嶋は千曲を抱きしめた。
友人は里に背いて巫女とともに姿を消した。まさか、そんなことになるとは思わなかった。その咎が回ってきたとき、主君はこちらを見てもくれなかった。あげく、治るまで来るなという。
衛士を気遣ってのことだと、分かっているのだ。だが、高嶋にはただ突き放されたように思えた。主の無愛想は、いつものことだというのに。
「もう信じられるものはそなたの他にいないのだ……」
「高嶋さま」
わたくしも、という声が聞こえた気がした。
「いつまでもこうして、安らかでいとうございます――」
千曲の声にそうだな、と答えながら、一方でそれはできまい、という自分の声がする。
ウカミはあの晩、巫女王を捕えてしまうつもりであったに違いない。里人をいたずらに混乱させたといって罪を作ってもいいし、気が立っている里人たちから守るためにと、保護を理由にしてもいい。里人の放火が思いがけないことだったとしても、すぐさま衛士たちに命を出し、見事な動きだった。
もともと巫女の宮を男王に従わせるために動いていたようだから、捕えた上で命を救ってみせるとか、幽閉しておいて里人にさらに噂を吹き込むとか、使いようはいくらでもあったはずだ。恐らく、はじめからいつかそうなるように備えをしていたに違いない。そこへ、たまたま葵の縁談や、東の山の祟りの話が転がり込んだ。ウカミにとっては、これ以上ない好機だったのだ。
大水葵や双葉が葵につくことまで、考えにあった。それでも勝てると踏んでいた。
ウカミは考えを誤ったのだ。ウカミより上手の誰かに敗れ、名高い巫女と伊織一腕の立つ衛士の兄弟を外へ逃がしてしまった。今のウカミは、身を穢したあげく里を捨てた巫女とその巫女を守った衛士という罪人の皮を三人にかぶせ、衛士たちに追わせることしかできないのだ。よその里から三人に誘いの手がいくらも伸びるだろうことは想像に難くない。
どんなに〈ふしだらな巫女〉を仕立て上げたところで、里人の目をいつまでもごまかしておけるわけではない。大武棘が政を独占し、巫女のいなくなった里に愛想を尽かした里人が伊織を出ていくようなことにもなりかねず、そうなれば責を問われるのはウカミ自身だ。どう考えても、葵がいなくなったあとの方が暮らしがよくなるとは到底思えなかった。託宣だのなんだのでうるさく言ってくる巫女がいなくなってからというもの、大武棘は里人により重い税を課そうとしているらしい。
ウカミの首がまだ繋がっているのは、大武棘が巫女に関心がないからだ。王は目先の財が増えたことを喜ぶことに忙しい。
他の里へ入られるより早く、三人のいずれかひとりでもウカミの目の前へ引きずり出さない限り、戦でもないのに外へ出され続けるだろう。内心では彼らを捕らえたいと思っているものなど誰ひとりいないのに。
里へ戻ってこないまま、師も野辺で死んだという報せが来た。息苦しい里になってゆくな、と誰かが言っていた。
「衛士になぞ、ならなければよかったな……」
元々、大して腕が立つわけではなかった。あのまじめな友のように、早くから見つめる先があったわけでもなかった。
石上高嶋は、歌を歌うのが好きな男子だった。少年たちに混じっての剣の鍛練が済んだなら、大声で歌いながら田の世話をして暮らしてゆくものとばかり思っていたのだ。
それが、兄水葵と小棘の一件のあと、高嶋だけが小棘に仕えるように命じられた。兄水葵に嫌がらせをしたいのだと、そのときに思った。
おれはそれだけの人間だ。
「千曲、何か奏でるものはないか」
「祖母の使っていた琴がございますよ。どうなさいますの? 」
「弾いてくれないか。歌を歌いたいのだ」
千曲が琴を取りに立ち上がりかけ、ふと高嶋の頬を撫でた。
「悲しいことが? 」
「何も」
千曲は高嶋を見つめていたが、小さな琴を取ってきて下へ置き、二、三音爪弾いた。
「すまない」
高嶋は顔を伏せた。声が鼻で詰まり、うまく出ない。
「やはり、少し待っていてくれ……」
「いいえ」
千曲は目を伏せた。
「それも、あなたのお声ですもの」
千曲は琴を弾いた。
高嶋は声を上げて泣いた。
おれがもし、里の外で彼と出会ったなら。
大水葵は、おれを斬るだろうか。