偽りあるもの
いつの間にか、どこかへ迷い込んでいたようだ。ナギは辺りを見回した。夏の日の香り。青臭く甘やかで、いつまでもまつわる。すぐそばを細い流れが、白く煙りながら下っていく。
そこはあのドクダミの畑だった。
どうしてこんなところにひとりきりでいるのだろう、とは思わなかった。霧が立ちこめたような山の気配も、夢だと思った。ナギはもう二度と、この山に立ち入るまいと決めていたのだ。
強いて言うなら、葵の姿が見えないということだけがナギは不安だった。もしや、気づかぬうちに東の山へ分け入り、はぐれてしまったのではとばかり案じた。
この山は危うい。清冽だが、歪んでいる――。
「葵さま」
呼んでみて、すぐにそうではなかったと思い直した。
「あかるこさま」
人知れず、胸のうちではとうにそう呼んでいたから、唇にもすぐに馴染んだ。うんと頷いてくれた、あの瞳が忘れられない。
ここが夢だとしたら自分は本当は眠っているのだろうに、頭は案外確からしいと、ナギは笑った。
「あかるこ」
もやもやとした世界の中を振り向いた瞬間、霧が固まって形を成したような白い塊が目の前に噴き出してきた。
ナギは飛びのいた。足下に白い蛇がばさりと落ちて、赤い目でナギを見上げている。眼の奥から血のような涙が垂れていた。祟りをもたらした蛇と同じ姿だった。
衛士になってこのかた、辛くとも助けを求めたことはない。だが今、ナギは何を置いても叫びだしたかった。血まみれの白い小さな蛇は、棲み家に踏み込まれたゆえに怒りを向けているわけではない。それだけは分かった。たとえば戦に出ていて、本当に危ういとき、心に忍んでくるものを感じた――恐怖。
ナギは祟りの正体について必死に頭を巡らせた。許しを得ずに霊域に入り込んだものへの罰ではないとすれば、一体何が……。
蛇が足首に絡みついた。振りほどくことはできなかった。身動きひとつ許されないのだ。
「大水葵」
蛇はかぼそく口をきいた。
「大水葵さま……」
これは夢だ。
蛇の思念か、ナギ自身の考えなのか。ナギは夢、夢、と幾度も胸のうちに呟いた。
ということは、どんなに素晴らしい剣を持っていたとて、わたしはまったく無力ではないか――。
蛇は赤い目でナギの双眸を覗き込んだ。ナギはふと、この蛇に性があるとすれば〈女〉ではないかと思った。
「お恨み申します」
蛇は囁きながら、冷たい腹でナギの首を締めはじめた。
「なぜ……」
「なぜ、ですって」
ナギが問うと、蛇の腹が急に鋭く首を締め上げた。
「本当にあなたを好いているかも分からない女のために、命を懸けるなんて――里を出ていくだなんて、愚かなことを」
わたしはあの女よりもずっと前から、と囁く声が、耳から注がれる。
首の骨が痛む。夢の中で死んだら、どうなるのだろう。
目が覚めて終わるのだろうか? 本当に?
「あなたを愛しているのに――」
ナギは戦慄した。このまま縊られたら、二度と目が覚めない。死ぬわけでもない。恐ろしい夢の中に閉じ込められたまま、蛇の形をした女に魂を抱かれ続けるのだ。
それがこの女の愛だ。
「大水葵さま……」
蛇はいよいよナギに擦り寄ったが、突然、鈍い音とともに首を刎ね飛ばされた。
蛇の体だったものがふわりと緩んで、ナギの足元まで長く垂れ下がった。あかるこの領巾だった。いつの間にかあかるこがそばにいて、刎ね飛んだ蛇の頭からナギをかばうように立った。
「くやしい」
蛇の首がきょろりとこちらを睨んだ。
「力が足りない。勝てない」
霧が溶けるように晴れた。
そこまでが夢だった。
※
頭ががくりと傾いで、ナギは目を覚ました。そばで小さな火が燃えている。獣除けにと点けたものだ。
あかるこが昼過ぎに目覚めたあと、岩屋を出て歩き通した。といっても追っ手をやり過ごしながらのことで、ろくに進んだわけではない。日暮れ前に岩陰を求め、申し訳程度に火を焚いた。剣を抱えて一晩起きているつもりでいたのだが、さすがに疲れていたらしい。
「ナギ」
あかるこは起きていて、ナギの肩を掴んでいた。自分の後ろに人を庇おうとするときの仕草だった。もう一方の手で領巾を掴み、剣子を持つように構えている。
炎のそばだというのに、瞳が大きく開いていた。
「危なかったね」
あかるこは呟き、ナギと領巾を離した。
「夢に忍んでこられたんだよ」
「……ではあの夢は――」
夢ではなく、と言おうとした唇は、震えていて動かなかった。あの蛇は、東の山の祟り蛇によく似ていた――いったいわたしは、何の関心を買ってしまったのだろう。
あかるこはナギの背を優しくなでた。
「大丈夫。あの蛇は、わたしには勝てないから……呪う力は、守る力には勝てない」
「あれは……あの蛇は、何が……? 」
「あれは人間……わたしと同じような。でも、人間の形を留められていない。誰だか分からないけど、もうこんなことはやめた方がいい」
「あかるこは、どうやってわたしの夢に入って来られたのですか? 」
ナギが尋ねると、あかるこはあっけらかんと言った。
「だって、あなたが呼んだから」
月が隠れている辺りの雲が、淡く光を含んでいる。まだ夜中だと知れた。
遠くを、点のような赤い火が連なってばらばらに動いている。伊織の衛士たちの松明だと、ナギは思った。
「もう少し休んでいきましょう。朝はまだ遠い」
ナギは足下の火を吹き消した。あれだけ火があれば、獣は出てこない。
あかるこは動かない。闇に慣れない目が不自由だったが、あかるこがこちらを見ていることはよく分かった。
「わたしももうしばらく起きてる」
「ええ? 」
ナギに拒む気持ちのあることを感じたのか、あかるこはかえって意固地に口を尖らせた。
「今夜だけ。また変なものが来るといけないから」
あかるこは領巾で自分とナギの肩を覆いながら言った。
「陽のない間は、巫女の方がよくものが見えたりするから」
「……それは恐ろしい」
ナギは剣を頬に押し当てた。あの夢の中では、剣を抜くこともできなかった。あかるこが現れなかったら、今頃――。
火が動いている方から怒鳴り声が聞こえる。見晴らしのいい平野では、ふたりのところへ届くまでに声が散らばり、男たちの声は最後は虫の声に消されてしまうのだった。
「どこへ行こうか、わたしたち……」
ナギに問うたというより、考えていたことがつい口をついたというふうに、あかるこが呟いた。ナギがそちらを見ると、あかるこはわずかに開いた目で衛士たちの火を追っているらしかった。
「どこかの里に、入れてもらえるかな……」
「海の方へ出てみませんか」
ナギは温めていた考えを口に出してみた。
山に囲まれた暮らしの中で、秘かに抱いていた望みでもあった。どうせ伊織へ戻れないのならば、いっそ慣れない棲み家でも、誰も知らない地の果てへでも行って、ふたりで安らかに暮らしたい。
それだけの平和を望むくらい、何の罪になるだろう。
「海? ……」
あかるこの首がこくりと頷いた。賛成したのではなく、辛うじて眠気を耐えているのだ。
「水がいっぱいに湛えられているそうです。湖とも、また違うそうで……」
ナギの方でも、海がどんなものか承知しているわけではなかったから、これは何となく伊織に伝わっているだけの知識だった。山に囲まれた伊織に生まれたものは、海を見たことなどない。あかるこは、もしかしたら夢に見たことがあるかもしれないが――。
あかるこは眠りかけていて、深くは尋ねず素直に受け入れた。
「そうなの……」
「大きな魚が獲れますよ」
尻すぼみに小さくなっていく声に笑いながら、ナギは投げ出されたきりのあかるこの手に自分の手を滑り込ませた。すると、あかるこは気だるげに首を傾げ、眉根を寄せてささやかに抗う意思を見せた。
「傷だらけ……」
「そうですね、少し」
あかるこが手の傷のことを口にするのを、ナギは待ちわびていた。寝入る前によく温まった柔らかな手を、親指の腹で何度も撫でた。
「――愛しい」
その声が、聞こえたかどうか。
あかるこは手を引くことも忘れて眠ってしまった。
ナギは幸せだった。触れたところから少しずつ同じになっていく温もりが、まるで自分たちのようではないか。握ったときの体温は、いつだってナギの方が少し熱いのだけれど――。
健やかな眠りが訪れた。くっきりとした陽とともに目を覚ましたとき、ナギはあの蛇の夢をひとかけらも覚えていなかった。
一晩外に出ていた衛士たちは、朝方ようやく交代を許された。罰のような仕事の与え方だと、誰もが思っている。頑固に背筋を伸ばしているのはオタカだけだった。
ウカミは、衛士たちを疑っている。あの日、ナギと双葉を除く、里中の衛士たちがあらゆるところへ入って巫女を探した。以来、里の中ばかりでなく、里の外にも人を遣って日夜を問わず探しているのだ。にもかかわらず、三人のうちのたったひとりさえ捕えられないばかりか、オタカがナギを追ったのを最後に姿を見たものさえいないというのは、誰か手引きをしたものがいるに違いないというのだ。
巫女が里の外へ出てしまったのはもはや明らかだった。これは、伊織にとって大きな損害であり、伊織の神への重大な背信だ。騒ぎを起こした里人を抑えきれず、あろうことか巫女宮に火を放つことを許し、今こうして巫女を里から失うことになったのは、すべて衛士の中にいる裏切り者のせいだ、とウカミは言った。
大水葵や双葉と親しかった幾人かは特に玉座の前へ呼ばれ、大武棘への忠心に偽りのないことを明らかにさせられた。煮立った湯の中へ手を入れさせるのだ。そうして、裁かれるものの真を神意に問う。これを盟神探湯という。偽りや二心さえなければ火傷はしないはずというのが、湯を用意した初音の言い分だった。
大武棘はぶすくれた顔で衛士たちを見ている。信じてもいない神意を問うというようなやり方には大いに不満があるのだ。衛士たちが火傷をして痛がったら立つ瀬がない。そして、熱湯に手を突っ込んで無傷で済む人間などこの世にはいない。何にせよ、大武棘としてはひとりずつ前に呼んで、剣でも突きつけた方がよほどましなのだった。
だがウカミが、どうしてもと譲らなかった。あかるこを失った巫女の宮を、うまく従えてしまうなら今だと進言したのだ。大武棘は、かねがね里の力をすべて自分に集中させたいと思っていた。男王ひとりが神に近しい形で君臨する政を望んできた。そういう意味では、ウカミの案はおもしろくはないが、うま味があった。
衛士たちの心を試す方法を巫女の宮に用意させ、里人に対する権威を保証する。代わりに、米蔵や布、玉などの財を統一し、大武棘が支配することに決めた。巫女の宮の衛士は減らされた。誰しもが、里の長は大武棘であることを認めざるを得なくなった。
初音がウカミの言を蹴らなかったのは、代償がなんであれ男王の宮と巫女の宮の対立を避けたい一心からだった。何十人もの采女を抱える身としては、他に答えなど出せなかったのだ。
そのせめてもの腹いせというか、腹立ちまぎれの八つ当たりこそ、今度の盟神探湯ではないかと、高嶋は思った。湯の前に采女ふたりを従えて座り、榊の葉の束で清めをしている初音は、先ほどからにこりともしない。
「どうぞ」
初音が促し、衛士たちは湯の周りに集まった。底の方で、小さな羽虫が死んでいた。
「さあ、どうぞ」
初音が衛士たちを睨みつけた。高嶋はこれまで初音が本当は男王の側の人間なのではと思うこともあったが、どうやらそれは誤りだったらしい。
高嶋は、大水葵という青年をよく知っている。宮へ忍んでいったというのは、警護のつもりで歩いているところへ巫女が出てきたとか、どうせそんなことだろう。あの友は、気がつけばたったひとりの娘のことばかり心に秘めていた。報われなくとも構わない、あの方はわたしの心の支えなのだから、などと言って。
思いもかけずに巫女の形だけの夫となり、誰よりもそば近くに仕えるという高嶋にすれば幸運だか不運だか分からない役に任じられたあとも、姿を見られるだけで幸せなのだなどと子どものようなことを言っていたあいつが巫女王に里を裏切らせるようなことをするわけがないではないかと、高嶋は初音の怖い顔を見つめた。
里を裏切ったものなどいはしない。それなのに、なぜ手を茹でるような真似をしなくてはならないのだ。
「わたしがやろう」
オタカがずいと進み出て、腕をまくった。オタカは疑いようがないくらいに里に忠実だ。本心はさておき、その点に融通がきかないのは間違いない。
ただ、ナギの背を最後まで追わなかったという理由で、ここへ呼ばれていた。
「……む」
ざぶりと湯に入れたが、すぐに引き上げた。腕は斑に赤く腫れ、見るからに爛れている。だがオタカは賢明に、初めに一声唸った他は声を立てなかった。
ウカミはオタカの腕をじろじろ見て鼻を鳴らした。
「ふん、まあよかろう。少し短かったようだがな」
次、という声とともに、誰かが高嶋の背を押した。
「早く済ましてしまえ」
高嶋の横を素早く行き過ぎながら、オタカが囁いた。
「お主は疑われているのだ」
高嶋は衣をゆっくりと折り上げた。湯がふつふつと煮えている。
玉座の脇に控えている、王子や大臣たちの列を見上げると、小棘は盟神探湯になぞ心が動かされないようすで、いつもの退屈そうな顔でそっぽを向いていた。
結局、あそこで腕を茹でたからといって、何が分かったわけでもない。高嶋は川から爛れた腕を引き上げ、また川へ戻した。水から少しでも離すと、肉の内側が燃えるように熱い。痛みで指の筋が強張り、満足に動かすこともできない。
あれだけ大勢、衛士の手を潰して、どうなるというのだ。何ともない方の手で火傷を押さえると、指がはちきれそうに脈打つ。いつよくなるのか、本当に治るのか、高嶋には分からない。
夕陽のせいで、流れは火の川のようだ。いや、おれの血の色かも知れないと、高嶋は笑った。
「もし、衛士の方」
後ろから遠慮がちに声がかかった。
老いた女人だ。皺だらけの顔でこちらを案じている。陽の加減のためか、その瞳は妙に赤く光って見えた。
「おれかな? 」
「あなたですよ。まったく、馬鹿なことをしたものです。神意は、八つ当たりのために問うものではないというのに――。今日は、あなたと同じことをしている衛士さまが多うございます」
高嶋は少しむっとして黙った。誰が見ても無意味だと分かる儀式にうかうか参加した(とはいえ、参加しなければ問答無用で首が飛んでいたろうが)己に我ながら呆れていた分、その場を見てもいない老婆に馬鹿だと言われたのが面白くなかった。
第一、痛いなどとは口が裂けても言えない。二心がなければ火傷もしないという約束の盟神探湯だったから、痛がっただけでも玉座の前に戻されかねない。
高嶋はできる限り胸を張り、わざと腫れている方の手で老婆を追い払おうとした。
「構わないでくれ、ご婦人。おれは今、ひとりになりたい」
「さっき会うた方も同じようにおっしゃいましたとも。手をぱんぱんにしてね」
老婆は立ち去り際に肩をすくめた。
「あれは確か、オタカさまとおっしゃる方。痛むようなら千曲のところへお行きなさいと、申し上げただけなのに」
「なに、千曲? 」
目の前に、透き通るような肌の娘が浮かんだ。
大水葵に話を振ったのは高嶋だったが、高嶋自身はまだ一度も千曲を訪ねたことはない。他の娘の話に紛らしたのがせめてもの照れ隠しだった。
月の光を負って立ったような光り輝く娘は、オタカを見ている。
「オタカに言って、どうした? 」
老婆は悲しそうに振り向いた。
「どうもしませんわ。あの方は痛くなぞない、痛みがあったとしても、女人の手は借りぬと。もう少し、大きな方のように思えましたが」
「オタカは小さい男だと? 」
「つまらぬ意地を張る暇があったら素直に腕を治して、里を守るのが真の衛士でありましょう」
「それもそうだ……」
高嶋は思わず頷き、慌てて首を振った。
「いや、痛いのではないが、確かにその通りだ」
老婆はにんまり口を開けた。歯は一本もなかった。
「こんな婆あの戯言ひとつ、聞いたところで誰も信じやしませぬ」
「そうか……」
高嶋が呟いたその瞬間、千曲はこちらへにっこりとほほえみを向けた。
甘い草の香りがした。