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思惑

 「兄上、義姉上はお元気ですか」


 朝方いつもどおり剣を持って出かけようとしたナギに、弟の双葉朗子ふたつばのいらつこが声をかけた。


 葵と妹背になってから、ナギの暮らし向きは急変した。衛士には大きすぎる屋形が与えられ、師の山辺彦がナギに頭を下げるようになった。(「やめてください」とナギが懇願すると、山辺彦はぺろりと舌を出した――「形から入らねばと思ってな」)。


 屋形に侍女か従者をつけようかと言われたが、それもすっかり断って、今は双葉とふたりで新しい屋形に住んでいる。山辺彦の考えることは、ナギにはよく分からない。


 双葉は兄に向ってにやりと笑ってみせた。似た兄弟だと言われたことはあまりなかった。ふたつしか違わないのに、そばかすだらけで色が黒く、ひょうきんな双葉には物静かなナギと比べると少年らしさが色濃く残っていて、みなに山猿のようだとからかわれて愛されていた。


 「小棘さま、悔しいでしょうね」

 「こら、口を慎め」


 ナギは双葉を叱ったが、内心は弟に頷かないわけにはいかなかった。小棘は次の王になるかもと言われるほどの身分にいながら、幼い日の例の事件以来、未だにナギのことが嫌いらしいのだ。腕の立つナギをこれまで大した役目につけず、ナギの親友の石上高嶋いそのかみのたかしまを自分につけたのもそれが原因だろうと、いまひとつ報われない兄を見かねて双葉は言ったものだ。


 実は、山辺彦が姪に夫を求めていると聞いて、真っ先に名乗りを上げたのは小棘だった。王子と妹背になれば一生を安楽に過ごさせてやれるから、形だけのものでも構わないからと、山辺彦を口説いた。山辺彦は笑って断りを入れたらしい。小棘にはもう、ふたりの妃がいた。それを考えれば双葉がおもしろがるのも分かるが、当のナギの気持ちは明るくなかった。


 ただ、ナギのことは嫌いでも山辺彦のことは無二の師と仰いでいるようで、ナギを殴って叱り飛ばされたあとみなの前で拳骨まで落とされたのに、叱った山辺彦の地位は少しも揺らがなかった。その点で、ナギは小棘を認めていた。少しは芯のある男子だと思っている。


 葵の夫にならないかとナギに切り出した山辺彦は、悪いが王子には任せられぬ、と片目をつぶった。たとえ本人が聞いていなかったとしても、小棘に対してこうまで言えるのは山辺彦だけだった。


 「そなたは腕も立つし、まだ妻もおらぬ。誰かに仕えているわけでもない。どうじゃ」

 「わたくしは……」


 ナギは口ごもった。自分のこじらせかけた片恋を知っての案だとすれば、この師も随分厳しいことをおっしゃる、と思いながら。


 「気の長い方ではありませんので……」

 「わたしはあの子に、どんな男子がいいかと聞いたのだ」


 山辺彦は嘆くように言った。本当に嘆いているのか、泣き落としにかかっているのか、ナギには分からなかった。


 「わたしを信じている、とあの子は言うばかりだった。信じられるか? 誰でもいいというのと同じではないか」


 叔父と姪の駆け引きが見えるようだ、とナギは思った。こんな妙な話であるからには、普通の妹背となることを求められているのではないのだろう。しかし、山辺彦が人選を任されたのでなければ、ナギが選ばれることはなかったろう。葵がナギの姿をまともに見たのは、後にも先にもあの幼い日の鍛錬のときだけだろうから。


 片恋なら片恋のまま、放っておいてほしいというのが本音だった。葵が別の男の妻になったとしても、もともと手の届かない存在だったのだからと思うだけだ……いや、そう思わなくてはならない。


山辺彦は溜め息をついた。


 「あの子は父がおらぬし、顔を合わせる男子といったらこの山辺くらいなものじゃ。父がいたとしても、わしの兄なのだがな……娘として扱ってやる前に、巫女の宮へやってしまったのは間違いだったかもしれぬ。選べという方が無理だったのじゃ」

 「はあ、それは……」

 「だから、な、葵が恋初むるのが、あまり頼りがいのない男子では困るのじゃ。この話が持ち上がったときから、そなたに頼むと決めていたのだ。巫女だからではない、姪だから案じている。笑わば笑え」


 葵さまに恋われるなどめっそうもない、とナギは思った。葵の母のヤエナミは、胸を病んで巫女をやめたあとで長く自分に仕えてきた葵の父と結ばれたというが、いきなり夫として現れた見も知らない目付け役に誰が恋などしてくれるものか。


 いや、問題はそこではない。


 「山辺彦さま、葵さまがわたしに恋などなさったら、お困りになるのではありませんか……」


山辺彦はうなだれた。


 「確かに、初音はいい顔をせんだろうなあ。初音は、純潔であらねば霊力が損なわれると思っておるのだろうかのう。あの子の母は、わしの兄と契り交わしたあとでも夢見をしたというぞ。わしはそなたらが恋しあっても構わぬと思うておるのだ……さもなくば、こんな話を持ちかけられようか」

 「しかし……」

 「大水葵、あれは神に仕える娘だが、神女ではない。ただの人間の娘じゃ。いつ任を許されるかも分からぬのにあんな堅苦しいところへ閉じ込めてなどおこうとするから、葵は山へ出たがる。地祇が宮に坐すと思うておるのじゃ、あの初音は」

 「山辺彦さま」


 誰が聞いているか、と声を低めるナギに、山辺彦はさらに言った。今度は、泣き落としではなかった。


 「そなた、本当は剣を持ちたいなどと思っていなかったであろう……才はあるが、なにせ優しい質ゆえな。かつては、修練相手を殴るのさえ嫌で、わざと相手に勝たせていた。違うかね? 」


 ナギは思わずうろたえた。それは確かに覚えのあることだったが、師がそこまで見抜いているとは思っていなかった。


 「わしは、そなたが心配でならなかった。この少年は、いつか戦へ出たとして、相手に命を差し出すようなことをするつもりであろうかとな。だが、今のそなたは違う」


 山辺彦は畳みかけた。


 「いつからか、そなたの修練は明らかに熱を帯びるようになった。それまではあくまでまじめに、すべきことをするという態度だったが、何か目指すべきものを見出したようだった、とでもいうべきか。わしは聞いた――なにがそなたを駆り立てるのだね、と。そなたの答えはこうだった。『わたしはいつか、巫女宮をお守りする衛士になりたいのです』……わしは、このことを思い出したのだよ。巫女のためにみずからを律するほどの熱があるそなたであれば、葵を任せられるとな」


 ナギは沈黙した。それも、確かに覚えがあった。恐らく、葵が巫女になってすぐの頃であったと思う――まだ、今のようなしがらみなど何も感じていなかった頃のことだ。かつての自分の迂闊な素直さが恨めしかった。


 ありとあらゆる手を尽くしてもまだナギがうんと言わないので、山辺彦は溜め息をつきながら最後に言った。


 「小棘さまに、高嶋がついているであろう。男の主君を守るつもりで、引き受けてはもらえんか……恋しあえなどとわしが言うても、そなたがそうできぬことは分かっておるが。叔父として、姪を任せたい」


 無茶だった。小棘に仕えるのと同じようになどとても無理だ。葵の表情とともに輝く、深い色の、星を撒いたような瞳に魅入られると、もうこちらから逸らすことはできない。葵がいくらナギに心を開いても、というより、葵が心を開けば開くほど、ナギは辛かった。葵と恋してもよいと山辺彦は言うが、恋などという美しい呼び名では収まらない情が自分の中にあることをナギは知っていたし、自分の情を恐れていた。正直に、恋うているなどと言うのではなかった――余計に触れ合ってはならない、とナギは念じていた。


 何よりもまず、己の慕情から、葵を守らねばならなかった。


 「おまえも辛いなあ」


 石上高嶋は巫女宮をいっとき辞して修練にやって来た友人の胸中を思いやって腕を組んだ。


 「そのうち媛さまに、好きだと言ったのは嘘なのねとか、誰に心変わりしたのとか、わたしかその剣かどちらかを選んでみなさいとか何とか言われるぞ。手も握ってやらないんじゃ……女人はその辺り、男の心をよく分かっておらんからな」

 「媛さまがそんなことをおっしゃるものか。大体、君は遊びすぎだ」


 ナギが横目で睨むと、高嶋はばれたか、と頭を掻いた。


 高嶋が女の恨み言をひょいと思いつくのは、二股をかけているのが発覚したとき、ふたりの娘から夜通し泣き言を言われ続けたことがあるからである。この青年に、そんなことは珍しくなかった。


 高嶋は反省の色なく言った。


 「東の山のそばに、千曲ちくまという娘がいるだろう。あれもいい女だ。昔はやせっぽちで、何だか夏でも寒々とした娘だったが、とみに美しくなったという話だ」

 「好いた男子でもできたのではないか。君がいつか言っていたろう。恋人のいる女人ほど美しく見えるから困るとか何とか」


 ナギは噂の千曲の白々とした顔を思い浮かべた。物憂げで、寂しそうで、朧月の化身のような娘だったと思う。


 高嶋は儚げな女が好みなのだ。しかしそういう頼りなげに見える娘の方が意外に根が深くて、何度も痛い目に遭っているのにこいつは一向懲りないなと、ナギは呆れた。


 高嶋は慌ててナギの肩を叩いた。


 「おいおい、それが自分だとか言わんだろうな。おまえが相手では勝ち目がないよ」

 「高嶋、そう構ってやるな」


 ひねくれた声が割り込んだ。小棘王子だった。叩頭するふたりを見て、ふんと鼻で笑う。


 「大水葵朗子殿は、巫女王に命を懸けておられるのだ。高嶋、おまえ、友と思って気安く口をきいてはならんぞ」


 小棘は、普段はナギをしつこく兄水葵、兄水葵と呼ぶ。今も胸の内で、心ゆくまで罵っているに違いなかった。


 「他の娘の話などするな。不憫だろう」


 不憫だと! 自分が何を口に出そうとしているか、思い至ったときにはすでに声が出ていた。


 「無礼な! 」


 自分の立場を完全に忘れて、ナギは小棘に詰め寄った。巫女王と妹背になったといっても、みなが名ばかりの、役目のひとつだと知っている。ナギの身分は、小棘に噛みつけるものではなかった。高嶋がぎょっとして、慌ててナギの肩を抑えて下がらせた。


 小棘も、ナギが反撃してくるとは思っていなかったのだろう。ナギが我に返っても、まだ呆然としていた。


 「申し訳ありません」


 ナギは叩頭し、返事も待たずにその場を離れた。あれしき、少し煽られたくらいで、あんなに腹が立つとは思わなかった。


 小棘に八つ当たりしてしまった。ナギは自分で思っているよりも、心を擦り減らしながら葵に仕えているのだった。ナギは葵で心がいっぱいなのだ。ひとを好くあまりに苦しんでいる己を思えば、それが小棘や高嶋には器が小さく見えるのかもしれなかった。


 後からひどい罰が下されるならそれでも構わないとナギは思った。生きているのがこんなにままならないなら、いっそ首でも切ってほしいくらいだ。だが今頃は、口の達者な高嶋が、何とか場を収めているに違いなかった。


 「ナギ」


 葵が宮の階で手を振っている。どこかに出かけようとして、ナギを待っていたのだろう。桃色の裳が眩しいくらい似合っていた。


 悟られないように、あかるこさま、と呟いてみた。


 「お山へ行かれますか、葵さま」


 葵は頷き、ナギの手を取ろうとしたようだったが、今回はすぐに引っ込めた。ナギが困った顔をするからではなく、元からどうも、見ようとしてもふいと隠してしまう。ふたりで川辺に行った日の帰り、思わず胸中を告白してしまったナギの手を慰めるように(本当に慰めようとしていたのだったら、何もしないでいた方がよかったのだが)繋いでくれたが、それ以来ナギは一度も葵の手をまともに見ていなかった。


 傷があるせいだろうか、とナギは思う。それなら、気にしないでいいと教えてやりたかった。むしろ、慈しまれるべきなのだ――葵が手ずから摘んできた薬草のおかげで、里のものは傷を癒されてきたのだから。だが葵が自分でわけを話さないうちからそんなことを言うと、ナギの方でかえって傷のあることを気にしているようで気が引けた。


 本当の夫ならと考えずにはおれなかった。あるいは、ナギ自身がもっと快活な、たとえば双葉や高嶋のような気性であったら。気にするな、と笑い、そなたは健気だなあと抱きしめてやれるだろうに。


 葵はいつも山へ持っていく籐の籠を持っていた。ナギは尋ねた。


 「何をお取りになります」

 「ドクダミを……」


 葵は夢見るような顔つきでナギを見た。


 「見たことのないところに」


 夢見があったのだ、とナギは分かった。葵は夢に、地祇ちぎの神託を受け取ることができる――母のヤエナミも同じ力を持っていた、と聞いた。


 最初にその才が現れたのは、もう十年ばかり前、ナギが葵――そのときは、あかること呼ばれていたのだろうが――と出会ったあとのことだ。あかるこは東の山が崩れると言って夜中に突然火のついたように泣き出し、山辺彦を仰天させたらしい。雨の強い晩で、巫女の子の言うことだからと、山辺彦は東の山の麓に住む里人を屋形に連れてきた。


 そして、あかるこの予言したとおりのことが起こった。東の山が崩れ、雨を含んだ土砂が流れ落ち、里人の家を押し潰したという。今でも削れて形の変わった山肌が里のどこからも見える。


 命を拾った里人たちはあかるこに額づき、涙を流した。


 それから間もなく、あかるこは葵として巫女の宮へ上げられたのだ。


 「どんなところでしたか」


 ナギが聞くと、葵は迷いながら東の山を指した。


 「あの辺りだと思うの。昔山崩れのあったところ。近くに、沢が流れているの」

 「少し遠出になりますね。もう一枚、何か着るものを持っていかれてはいかがです。もし夕刻を過ぎるようなことがあれば、思いがけなく寒くなるかもしれません」

 「わたくしもお連れください」


 と采女がひとり寄ってきた。


 「わたくしは東の山の生まれです。お役に立つこともあろうかと」


 山の麓には山崩れの難を逃れた里人たちが今も住んでいて、葵たちを見るとにこにこしながら駆け寄ってきた。押し流されてしまった里人の家はあの後山辺彦が王の許しを得て新しく建てられ、大事に住まわれていた。


 葵が夢のことを話し、そんな場所を知らないかと尋ねると、みな頷いたが、難しい顔をした。


 「そこはね、危なくて入れんのじゃ」


 と東の山の古老が言った。


 「あの山崩れで道は塞がってしまったし、何が出るか……いや、熊だの猪だのとかいうものでなく、あの辺は、妙なもんがよう出る。草を摘みにゆくと、蛇に祟られるとかいうて……」

 「蛇? 」

 「さよう。この世のものとは思えん、白い蛇だそうな。祟られたものが、あの辺りには近づくな、と言いおいてすぐ死んでしまったとか」

 「媛さま、どうなさいます」


 采女が顔を曇らせて葵を見た。葵が、祟りがあるなら巫女として放っておくわけにはいかないと言い出しはしないかと気をもんでいるのだ。葵は首を傾げた。


 「それを、巫女の宮に届け出たことはある? 」


 里人のひとりが手を挙げて言った。


 「もう随分前に、うちの爺さんが訴えたと言っとりました」

 「巫女は誰だった? 」

 「ヤエナミさまでしたな。じゃが祓い清めをしていただく前に急に巫女をおやめになられて、そのままじゃ」

 「じゃ、母さまに頼んだままなの」


 なぜわたしに言ってこなかったの、と葵が尋ねたが、みな顔をうつむけた。


 「ヤエナミさまが病を得られたのは、我らが祓いを願うたからではないかと思うたから……」


 葵が口を噤むのが、ナギから見えた。


 「今こそ巫女王さまが、山に入られるときなのではありますまいか」


 人々の後ろから、影のような娘がするりと割って入った。ナギは思わず眉を寄せた。ほとんど色らしいもののない、青白い頬のこの娘こそ、高嶋の話していたあの千曲だった。千曲には何の恨みもないが、先に高嶋にからかわれたことを思えばよい気はしなかった。


 千曲の目がナギを捉えた。葵と同じくらい深い瞳だったが、その中に星はなかった。ナギはぞっとした。


 千曲は葵に向かって言った。


 「葵さま、わたくしの祖母も巫女だったことがございます。祟りのことは存じておりましたが、祖母は亡くなり、わたくしひとりでは力が及ばず……」

 「では、日を改めてまた参りましょう」


 ナギは千曲から葵のまなざしを奪い返した。目を合わせていると不吉なものを注ぎ込まれるようで、葵を対峙させておきたくなかったのだ。


 「みなの言うように、得体の知れないものが住んでいるならば――暗くなってからでは危のうございます。然るべき備えをしてからまた伺いましょう」


 采女がそれがいい、と頷いている。やはり千曲が恐ろしいらしく、葵ひとりに目を向けていた。


 里人たちにも、異を唱えるものはいなかった。訴えるのをためらい、山に入るのにも不自由していただけに、葵の約束が嬉しいのだろう。


 「近いうちにまた来るから、そこに近づかないようにね」

 「お山へ行かれるときは、お声がけくださいまし。外れの小屋におります」


 千曲はひそやかに笑うと、また影のように歩き去った。里人のひとりが身を震わせた。


 「霞みたいな娘御じゃ」

 「千曲は前からあった小屋に住んでいるね。無事だったということ? 」


 千曲が帰った方を見ながら、葵が尋ねた。


 「あの娘の小屋だけは、土をかぶらなかったのじゃ」


 古老がさも恐ろしいものを語るように声を低めた。


 「一緒に住んでおった祖母は、どうしたわけか行方が分からん。巫女をしていたひとじゃったから、最後の力を振り絞って孫娘を守りなさったかと、こういうわけですじゃ」



 伊織王いおりのおおきみ大武棘おおたけのぎは、不機嫌そうに体を揺すった。腹回りにぐるりと肉がついて動きにくい。胸も女のもののように膨らみ、垂れ下がっていた。


 「また巫女の宮の用か」


 申せ、と酒杯で指された采女は縮こまり、やっと声を出した。


 「巫女王さまより申し上げます。東の山に祟りなすものありとのこと、つきましては――」

 「祓いをしたいというのだな」


 大武棘は酒をあおった。空になった土器かわらけを、侍女に投げ渡す。侍女は危なく受け止めた。落として割りでもしたら何をされるやら、考えただけでも恐ろしい。


 「さっさと次を注げ。……ふん、祓いなんぞくだらん」


 采女は身を強張らせた。大武棘は八百万の神のうち、ただの一柱も敬おうという気がなかった。


 「祓いも鎮めも清めもこの里にはいらぬと、何度言えば分かるのじゃ、あの娘は。目に見えぬものなど、本気で信じておるのか。そうかと思えば、巫女のくせに夫を迎えるなどと……」


 そんなに男子が欲しくば我が宮に入れてやろうというものを、と王は呟いた。賢い女など可愛げがないと思っているが、美しい娘であるということだけは認めていた。


 大武棘は傍らに控えている衛士に言った。


 「それより、戦の支度は進んでおるのか。今度こそ、晴山はるやまめに参ったと言わせてやるのじゃ……」


 景気よく酒を飲み干し、宮をぐるりと見渡したところで、そこにまだ采女がうずくまっているのを認めると、怒鳴りつけた。


 「いつまでそうしておるつもりだ! 戻って、巫女にでも何でも、報告したらよかろう」


 采女が父王の宮から逃げるように立ち去っていくのを、小棘は見た。小棘に従っている高嶋が、気の毒そうに見送る。王は目に見えない神だとか、霊だとか、そういうものが嫌いなのだ。これは、伊織のものなら誰でも知っている。だが本当は、そうした神秘なものを誰よりも恐れているのだ、と小棘は思っていた。信じないと言いながら、みずからの手に負えない力と、それを扱うものを心底恐れている。だから他の里にむやみと戦をふっかけ、巫女に武の力を示したいのだ。


 晴山王はるやまのおおきみといえば、この辺りの地方でおそらく一番力のある里の長だ。近頃、西や北の王朝とも結び、遥か彼方の海にまで手を広げはじめている。こちらから仕掛けない限り伊織に手を出してこないのが救いだった――小棘としては、それはそれで癪だと思わないではなかったが。


 小棘は愚かな王子ではなかった。伊織がまだ里として存在しているのは、大武棘が独断で戦を仕掛けているのが向こうに知れているからだ。王の見得だけで組まれる軍隊の力などたかが知れている。


 それに、晴山王は伊織の巫女王を恐れているのだ。こちらに手を出してこないのは、なにも王が愚かだとか、里が小さいからだとか、侮られているというだけではない。かつて巫女だったヤエナミも、夢見や優れた卜占の力によって周囲の里から畏怖されていたと聞く。そのヤエナミの娘であり、幼くして山崩れを予知した葵が巫女になって男王とともに里を治めているという噂は、諸国に知れ渡っていた。


 巫女王の方が自分よりよほど重く見られているということは、さすがの大武棘も知っている。だから、いっそう戦を焦るのだ。小棘が案じているのは、男王と巫女王との間がさらにこじれ、しまいに伊織の中で戦が起こることだった。考えるだに馬鹿らしいとは思うが、残念ながら今の父のありさまを見るにありえないことではないというのが小棘は憂鬱だった。


 葵が得体のしれない力の持ち主だということが王を駆り立てるが、同じくらいその力を恐れているから、巫女そのひとに向かって拳を振り上げる勇気がないというだけだ。里がふたつに裂けたとき、晴山王がどう出るか。考えたくもない。


 葵の夫を探す山辺彦に名乗りを上げたとき、自分がそこまで考えていたのかどうか、小棘は分からなかった。巫女と王子が仮にも妹背になれば、少なくとも身内の争いは防げると――。


 いや、と小棘は頭を振った。


 「――高嶋」


 小棘は傍らの高嶋に耳打ちした。


 「巫女王に、次の戦はどうなるか伺ってまいれ」


 大水葵を通して、と言うのは癪だった。高嶋は頷き、巫女宮へ向かった。


 十年も前から、おれはあいつに負けているのだ。あの日、葵が兄水葵にあなたは立派だと言ったのを、小棘も聞いた。王子たるもの、いかなるときも頭を垂れて敗者となってはならぬと教えられてきた小棘が、なぜ葵が兄水葵を褒めたのか分かるには、しばらくかかった。それから、相変わらずくそ真面目でおもしろくないやつだと思っている――くそ真面目で、一途で、凛としている。あいつがおれに膝を折って仕えるなど、ますますおもしろくない。だから、側近に選ばなかったのだ。


 宮の高床に、大武棘の側近くに仕える男が立って小棘を見ている。ウカミという小男だ。王は王子たちよりも、この男を信用しているように思えた。そのわけは実にたやすい、ウカミが大武棘の耳に逆らうようなことを言わないからだ。


 小棘はウカミを好きではなかった。小棘が鋭く見ると、ウカミは歯の欠けた口でにんまり笑い、ひょこひょこと歩いて王の傍らへ戻っていった。

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