行方
木間を透いて笛の音が聞こえた。子どもの声も、高いからよく通る。
祭りをやっているのだ。今年はよく米が実ったらしい。みなの声は明るい。
もう少し奥へ行こう、とナギは思った。沢の岩は大きく、小山のようなのを越えていく。
見も知らぬ森だ。だができることなら、他に人の入ってこないような静かな川辺に行きたい。背に負った娘を揺すり上げる。あかるこの殯宮を探すナギに、それ以上の願いはなかった。
深い傷を負ったあかるこは時を置かずに死んだ。助けを乞うこともなく、傷を診ようとするナギの震える手を押し止め、夫と静かに言葉を交わすことを選んだ。青白い頬に、小さなほほえみが浮かんでいた。
こういった命に関わる重大な怪我を負うと、ひと思いに死なせてやった方がよほど慈悲深いと思えるようなひどい苦しみ方をしたり、末期の恐怖に襲われ、絶望したまま死んでいくものも少なくない。だがあかるこはナギと話ができることを喜び、最後に口づけしてほしいとねだった。
慣れないままの唇を離し、互いの息が間近に重なり合った瞬間に、あかるこは花がほころぶように笑い、それから眠たげに目を閉じた。そのまま息を引き取ったのだった。
満ち足りていた。ナギは、あかるこにはもはや命が通っていないことを、なかなか信じられなかった。鼓動が止み、息が絶えたあとも、待っていたら目を覚ますのではと思わずにはいられないくらいに……。
「そんなにきれいでしたか? ……」
この辺りには雨が降ったらしい。草が湿り、足が滑る。ナギは呟いた。
「あなたの見ていた……世界は……」
道を上がってゆくと、脇を流れていた沢は下へ遠のいていく。沢に沿って行く道のことをナギは考えたが、坂を上がりきった先で急に眩いものに襲われ、目を細めて立ち止まった。
木立ちの薄闇に光が一条だけ差し、草木に溜まった雨粒が、それを一面に弾いているのだ。ひとかけらでも光を受ければ、水の粒はどんな色にも輝く。
きらきらと、玉を鈴なりにつけた森を歩いていくと、あるところで柔らかな葉の重なりを踏み抜いた。道が絶え、水玉の瞬きの他は真っ暗な葉叢と苔が崖を覆っている。その下に先の沢が淵になって澱み、水面が時折白く光っているのが見えた。
ナギは淵を臨む葉叢の中に腰かけ、ぼんやりとあかるこの体を抱きしめた。どこか天の上の方で吹いた風があったらしい、金や銀の雫がふたりに降った。そのうちのひとつがあかるこの唇に弾け、生きやかな桃色の艶が生まれた。目を開きそうだ。息が通いそうだ、今にも――。
ねえ見て、と耳元に聞こえた気がした。あの雨粒、なんて綺麗なんだろう。ねえ、ナギ――。
涙が出た。今さらあかるこの目はもう開かないのだと分かったからではなくて、夢のような、暗く光に満ちた木叢があまりにあかるこに似つかわしかったからだ。
あかるこは、まなざしを隠さない娘だった。心の中が透けて見えるような目だ。だから神にも好かれるのだと思う。ナギはあかるこに見つめられるのが好きだった。間違いなく、好き合っていることが分かったのだから。
あかるこが何かを見つけ、綺麗、と言ってナギの方を見るとき、ナギはあかるこの目であかること同じ世界を見ることができた。綺麗ですねと、ほほえみ返すことができたのだ――本当は、あかるこほど無垢な人生を送ってなどいなかったのに。
雨粒に照らされたとき、まず剣を突きつけられたのではと身構えた自分は、殯の平安にはふさわしくない。好きでもないのに剣を打ち合うことしか覚えなかった己も、誰かを斬らねば生きられない世の常も、あかるこがナギを庇って死んだことも、あかるこを刺したのが自分の刀子であったことも、等しくナギを傷つけた。ナギが傍らにいることを許してくれたあかるこの目は、もう二度とナギを見ないのに。
はじめは、どうせ叶わない恋だと思っていた。思いがけず縁が結ばれてからは、近しくなったからこそ、恋心を抱くことすらおこがましいのにと思った。身分に差があるからではなく、あかるこがあまりにも純粋で、剣を扱う手を触れるのすら恐ろしいような優しさの持ち主だったからだ。そのくせ従順というわけでもなく、宮に縛りつけられても自由を求めて、何かをあきらめるということのない娘だった――あかることともにいるとき、ナギもまた自由でいられた。あかることあかるこの自由を守るために、剣を持つことが誇りにすらなった。
だが、今はそれも――ただ空しいだけでしかなかった。
「大水葵朗子」
唐突に声をかけられ、ナギは驚いて振り向いた。神妙な顔つきで、ヤスオが立っている。脇に弓兵と、剣を帯びた衛士を従えて……忍んできたようすもないのに、まったく気がつかなかった。足跡を辿られたのだろうか? それとも、道すがら誰かに姿を見られていたのだろうか? 迂闊だったとは思わなかった。なぜか、安堵に近いものを感じた。
ヤスオはヤスオで、あかるこがナギの腕に抱かれて身動きしないのを見て口を噤んだ。そのまましばらく窺って、あかるこはどうやら眠っているわけではないと察したらしい。それでも、ナギに尋ねた。
「……亡くなられたのか? 」
はいと答えるのも億劫で、ナギは首を縦に振った。ヤスオは追手らしからぬ顔つきで立ちすくんだ。ナギの動向を警戒していた衛士たちは顔を見合わせ、やがてそっと拝礼した。あかるこの死を悼んでのことだろうが、もしかしたらナギの顔があまりにひどかったのかもしれなかった。
「こちらの方面に駆り出されているのは我らだけのはずじゃ……」
ヤスオは姿の見えない敵を探すみたいにそこら中の木立ちに目を走らせた。
「ナホワカ殿ですよ」
ナギは居ずまいを正すでもなく、投げやりじみて言った。無礼とは思わなかった。
ヤスオは目を見張った。
「何? 」
「ナホワカ殿があかるこを殺めたのです」
「馬鹿な。死者が起き上がったというのか」
ヤスオはまなじりを吊り上げた。
「ナホワカがおかしなことをしたのは認めるが、そなたまで変になったのか。死者の名を使って戯れるなど許さぬ――」
「それでは、わたしがそうしたと? 」
ナギは怒りのために喉が震えるのを感じた。
なぜ誰もかれも、わたしたちのことを信じてくれないのだ!
「あかるこがそれを望んだとでも? わたしが妻を殺したとでも言うのか! 」
衛士たちが後ずさった。ヤスオは胸を突かれたように黙り込んだが、ナギに向かってというより、自身にひとりごちた。
「生きることの方にこそ覚悟がいるとおっしゃったのは葵さまであろう。死を望むなどとは思わぬ」
なぜこんなところで、という言葉の先は、伏せられた。ヤスオはナギに一歩近寄った。押さえつけるような物言いは一切なく、願うような口ぶりだった。
「我らとともに来てくれぬか。……きちんと弔いをして差し上げよう」
「ウカミさまが――」
ナギはヤスオたちから目を背けた。剣を向けるなら好きにするがいい、と思った――ナギはもはや生き永らえたいとは思えなかったし、たとえ命が助かってもこの森で墓守りをするつもりだった。他に望みは何もなかった。
「あかるこを大切に葬ってくださるとは思えませんが――」
こんな奥まった山の森で、息の絶えた娘をいつまでも抱いているナギが哀れに思えたのか、ヤスオは剣を抜こうとはしなかった。
「衛士頭というのは存外力がなくてな」
とヤスオは語りかけてきた。
「味方をしてやりたくとも、公にはできぬときもあるのだ。心があるのはそなたひとりではないのだ、大水葵」
「ヤスオさま」
ナギは答えず、ひとつ問うた。
「高嶋は、息災ですか」
「ん……」
ヤスオは頷くことをためらうような微妙な息を漏らし、頬を掻いた。かなり間があって、それから言いにくそうに答えた。
「……ああ、息災だ」
「そうですか」
いよいよ帰るわけにはゆかなくなったと思いながら、ナギはヤスオを見た。
「わたしは伊織へは戻りません。わたしたちははなから望んで伊織を出たわけではありませんが、どうしても里へ仇なさぬ証がいるとおっしゃるならば、首を切ってお持ちください。飾りもお持ちになればいい。高嶋ならわたしのものだと分かるでしょう」
「大水葵」
「ですが、この場を穢すのはお許しください」
「殯宮か」
ヤスオは雨粒の輝く森を見渡し、深い息とともにぴたりとナギを見据えた。
「本当にそれでよいのか」
「あかるこは、ここへ葬っていただきたい」
とナギは頼んだ。
「里へ戻られましたら、巫女には何の咎もなかったのだと、ふしだらなどではなかったと、みなへお伝えください。それさえ叶えてくださるのなら」
「明らかにできぬことをあとから覆すのは難しいぞ。それでもよいか? 」
「はい」
「そうか。――では、もう何も言わぬ。だが、一度傷ついた名誉なんぞよりも、そなたらが幸せだったかどうかということの方が大事なのではないか」
ヤスオは呟いたが、一度剣に手をかけ、ナギを促そうとして、また剣から手を離した。
「別の里の衛士にはならぬと誓うのなら、そなたの剣を預からせてもらえればそれで構わんぞ。頭のない墓守りでは葵さまもお寂しかろう……生きてさえいれば、何か願いが生まれることもあるであろうし……」
「どうぞ思われるように」
ナギは剣を差し出した。ヤスオは受け取り、まじまじと眺めた。
「前にも思ったが、これはまた見事な剣だ」
「小棘さまにいただいたものです。お確かめになれば、わたしのものだと話してくださるでしょう」
「あいわかった。……ウカミ殿には、そなたらはふたり揃って討たれることを望み、確かに弔いをしたとお伝えしよう」
「それはあまりな仕打ち」
弓兵が俯き、突然そんなことを言いだした。
「伊織をかき乱した巫女は亡くなったのです。今さら王の宮へ出すも出さぬもなく、咎なく里へ帰して差し上げなくては」
「何を言うのだ」
ヤスオが血相を変えて弓兵に詰め寄った。
「トヨヒコ! そなたには、大水葵の心が分からんのか! 」
「分かりませぬなあ」
トヨヒコは顔を上げたが、頭がぐらりと後ろへ傾いだ。死んでいる! 屍の首に白い蛇が巻きついてこちらを見ているのが、ナギの目にはっきりと見えた。
「トヨヒコ……? 」
「ヤスオさま! 」
ヤスオには、蛇が見えないらしい。肩に手をかけて揺すろうとし、ナギの警告も空しく、矢で肩を突かれた。鏃は深く突き刺さり、ヤスオはもう一方の衛士の足元へ倒れ込んで一声唸った。
「邪魔をするとあなた方も噛み殺しますよ」
トヨヒコの屍に矢を引き抜かせ、白蛇が言った。屍の首筋には、赤い傷口がふたつ並んでいた。
「おのれ」
姿は見えないまでも何かそこにいるということを呑み込み、ヤスオは果敢に問い質した。
「姿を見せよ! 伊織の神の御名にかけて、もののけの類は討ち祓うてくれる」
「あなたの目になぞ映るものですか」
白蛇はヤスオを鼻であしらい、ナギをじっと見つめた。
「ああ、ご無事でなにより……」
星のない目だった。ナギは慄然とした。
「千曲殿……」
「ええ」
千曲の心を持った白蛇は嬉しげに尾をくねらせた。
ヤスオは介抱しようとうろたえる衛士の手に構わず、千曲を睨みつけた。ヤスオには何も見えていないはずだが、睨みあげた方は誤っていなかった。
「ナホワカも貴様がやったのだな」
「ああしなければ、大水葵さまはあなたに斬られてしまったのではありませんか? 」
千曲は鈴を転がすような声で答えた。ヤスオは歯を剥いた。
「勝手なことを……」
「勝手なひとはいつの世にもいます」
千曲はぴしゃりと言った。
「ご自分の都合に沿わないからといって、そんなふうにおっしゃらないで」
「……高嶋もか? 」
ナギは尋ねた。千曲が首を傾げた。
「高嶋さま? 」
「高嶋もそなたが動かしたのか」
千曲は目蓋のない赤い蛇の目をふと空に向けた。
「可哀相な方……本当は衛士になど向いていないのに」
それから、少し首を傾けたままで言った。人の仕草だと、横目で見ているところだろうとナギは思った。
「高嶋さまは、生きていらしたでしょう。わたくしがこうしてくださいと、お願いしたわけではありませんわ。わたくしは……」
蛇は下からナギの顔を覗いた。鱗に覆われた白い面に濃く千曲の顔が重なり、ナギは後ずさった。
「ただあの方の傍らで、心をお慰めしただけ……あの方が大水葵さまにお会いできるように、導いただけです」
そのとき突然に、ナギはあの白蛇の夢を思い出した。あの生温い、盲目の快楽に堕ちてゆきそうな妖しい夢には、千曲が忍んできていたのだ。あわやというところで、あかるこが救ってくれた――あれから一度もこの女の夢を見なかったのは、あかるこが守っていてくれたからだったのだと、このときナギに知れた。あかるこは言っていた。呪う力は、守る力には勝てないと。
「妖婦……」
肩を押さえてうずくまったまま、ヤスオが呟いた。
「そなたは妖婦じゃ……」
「大水葵さま――」
トヨヒコを歩かせ、千曲はナギに寄ってきた。
「あなたも、本当は衛士などやりたくないのではありませんか? お優しい方……巫女が亡くなった今、もう剣など持たなくともよい。あなたを縛りつけていたものは、もう何もないのです。伊織へ戻られませ……どうぞわたくしと……」
千曲はあの夢のように、ナギの首をとらえようとした。
ナギはあかるこの身から領巾を借り受け、千曲を叩き払った。白い長虫の体は傷つきはしなかったが、千曲は金切り声を上げて葉叢を転げた。トヨヒコは己のものではない支配を断ち切られ、後ろ向きにどさりと倒れた。首が妙な向きにねじれた。
「トヨヒコ! 」
衛士が駆け寄ろうとした。
「寄るな! 」
蛇の鎌首が葉を押し分けて噴き出た。衛士の足先を尾で鋭く払い、千曲は獣のような息を漏らしながらトヨヒコの首に戻った。
トヨヒコはぐらぐらと揺れながら立ち上がった。千曲は人間の体の仕組みにとって無理のないように死者を動かしはしない。首だけでなく、トヨヒコの体には故障が出はじめていた。
「あの女」
千曲は憎々しげに言った。先の鈴の音のような声とは似ても似つかない声だった。
「死人のくせにまだわたしを妨げるのか! 」
トヨヒコが弓を拾い上げ、ナギに向かって引きはじめた。
「里へお戻りなさい、さもなくば――」
「千曲殿……」
ナギは千曲の名を呟いた。あかるこ、と呼ぶのに限りなく似ていたが、底にある情の根は同じでも交わることはない。愛おしみと哀れみは、元は同じだというから。
ナギは千曲を哀れだと思った。あなたを見ていると言いながら、本当は千曲の目は、千曲のことしか見ていないのだ。
ナギも、千曲のようになっていたかもしれなかった。ナギはあかるこに近づくことを恐れてばかりいたが、それとて自分のことしか見ていないのに違いはないのだ。
ただ、ナギはあかるこを傷つけることになど考えも及ばなかった。たった一点の違いだが、その一点が幸不幸を分けた。
「そなたは不幸だ」
ナギは千曲に背を向け、あかるこを抱きしめた。
「口で愛していると言いながら、手に刃を握っている。そなたが愛しているのは、そなたのことだけだ」
「何をぉ……」
千曲が呻いた。引き攣れて歪んだ娘の顔が見えるようだ。トヨヒコの弓が引かれ、ぎしぎしと軋む。ヤスオが息を呑んだ。
「なぜ生かしてくれと言わないのです……」
千曲は呪いのように何度も同じ問いを繰り返した。
ナギはあかるこの頬を撫でた。里を追われ、見知らぬ土地で死んだのに、あかるこの面差しには一片の恨みもなかった。
幸せだったのだ、とナギは思った。わたしと同じように。
「死んだ女を、まだ……」
千曲は恨みがましく言い募ったが、その声が俄かに慌てた。
「手が止まらない」
トヨヒコの弓はいっぱいに絞られているが、トヨヒコはナギから狙いを外さない。
はなからナギを射るつもりはなかったのだろう、千曲は自身の力を持て余し、トヨヒコに向かって絶叫した。
やめろ、と聞こえた気がした。トヨヒコが矢を放ったあと、あかることナギが落ちた淵を、ヤスオがふたりを呼びながら覗いたかもしれない。
大水葵朗子はトヨヒコの矢に背を射られて死んだ。
伊織の東、集落の小さな薬草小屋の中で、時同じくして娘がひとり死んだ。支配しきれなくなった呪いが撥ね返り、臓腑がずたずたになって死んだ。両の目は潰れ、白い頬に赤い血を涙のように流しているその姿は、さながら東の山の祟り蛇のようであったという。
※
晴山王は川底に光るものを見つけ、掬い上げた。
伊織へ行ったままのヒノクマが民のひとりを使いとして晴山の里に寄越したのが三日前だ。伊織から遣わされていた衛士たちが戻ってきたという。
巫女王と衛士が、ある山の奥で死んだ。奏上したヤスオという衛士頭は、巫女の領巾と衛士の剣を携えてきたとか――。
「領巾なんかどこにだってあらあ」
双葉が真っ先に言って、駆け出していった……。
それから三日三晩同じ淵を探り、初めて剣らしく見える枝だの、玉のように光る小石だの以外のものを晴山は見つけたのだった。
二連の玉飾りのようだった。どちらも糸が切れて絡み合い、玉はほとんど残っていない。
「おおい、双葉」
呼ぶと、双葉は無言でそばへ来た。三日の間、念を入れて探して何も見つかれなければ、兄たちは生きていることにしよう、という約束だった。
「これを見たことがないか」
双葉は目の前に出された糸の切れた飾りを見て息を詰まらせた。そのまま俯いて黙り込む甥を見かねて、一緒にやってきた山辺彦が言った。
「鏃は大水葵のもので、青い玉は葵のものじゃな」
「体は見つかってないんだろう! 」
双葉が顔を上げて晴山に縋った。
「髪一筋どころか、衣の切れっ端だって見つからないじゃないか! 馬鹿な兄上だな、そんなことじゃごまかしたことには――」
「そうだとしても」
山辺彦は優しく甥を黙らせた。
「我々があのふたりに会うことは二度とないだろう」
トトリが目を伏せた。
――突然、哄笑が響いた。双葉が天を仰いで笑い出したのだ。
「ざまあみろ、晴山! 」
口元が引き攣れるほど大声で、涙の出るほど双葉は笑った。足下にまで零れても零れても、涙だけは止まらなかった。
「王にも誰にも、邪魔できないところへ行ったんだ。ざまあみろ、ざまあみろさ」
※
高嶋が言っても構わない、と承諾したので、ヤスオは大水葵と葵を探し出す決め手が高嶋の言であったことを大武棘とウカミに申し添えたらしい。紛れもない手柄話として里に広がり、ウカミが直々に褒美を携えてやってきたが、高嶋は受け取らなかった。それでもいくらか、彼の地位は高まった。
初音や采女たちは、ぱたりと高嶋の前に現れなくなった。里人たちの中には、おおっぴらに高嶋を謗るものもいた――巫女が里を出たのはウカミの流言につられた彼らが宮に火を放ったからだというのに、すべてが明らかになってからは、そんなことは誰の記憶からも消えてしまったようだった。
高嶋は彼らを咎めはしなかった。ヤスオに自分の名を出させたことで高嶋が求めたのは褒美ではなく、親友を裏切って安寧を得ようとした輩という非難だったからだ。
衛士たちは表だって高嶋を悪しざまに言いはしなかったが、疎遠になってゆくものと寄ってくるものとで二通りに分かれた。唯一どちらでもなかったオタカは自分の足で高嶋を訪ねてきて、みなの非難があながち的外れではないと分かると、そうかと呟き目を伏せた。
「大水葵……あれはいい男だったな。一度酒でも飲んでみればよかったな」
「ああ……」
「高嶋」
オタカが高嶋をじっと見た。
「おれがお主でも、同じことをしただろう……」
「君が? 」
高嶋は笑い、土器の酒を飲み干した。辛味の強い酒だった。
「たとえそうだとしても、それは女人に絆されてのことではないだろうよ」
東の山の、千曲が死んだ。
千曲という女が死者に依りつき、弓を引かせたというヤスオの話は、それだけでは大武棘には受け入れられなかった。だが現に、それならばと様子を見に行ったものたちは、千曲が人知れず血を吐いて冷たくなっているのに出会ったという。人の手で殺めたにしては異様で、病に倒れたにしてはあまりに惨い最期だったらしい。東の集落のものは、どうしても高嶋を中へ入れてくれなかった。
千曲は初めから、高嶋のことなど恋うていなかったのだ。巧みな女人であったことよと思う。恨む心など今さら浮かびはしない。
幾度も二股をかけ、幾人も娘たちを裏切ってきた。大水葵への当てつけで王子につけられたのだと悟ったときから、己が身の空しさを恋人に押してつけては捨ててきた。
それで最後は、初めて心から求めた娘に裏切られることになった。
それだけだ。
高嶋はオタカを見遣った。オタカは珍しく、困った顔をしていた。
「おれはきっとろくな死に方をしないだろうな」
高嶋が言うと、オタカはむっつりと黙り込んだ。またそんなことを、と咎めはしなかった。
世は王朝の統一に動きはじめていた。
晴山は西の王朝の使者を受け入れ、早々に時の趨勢をとらえた。
大武棘は再三に渡る説得のいずれにも取り合おうとせず、諌めるものを持たないまま、とうとう何度目かにやって来た若い使者を斬り殺した。
「おまえたち」
小棘は自分の屋形で、鎧の着つけを震えながら助ける妻たちを抱き寄せた。
「わたしは最後まで父の陣にいはしない。……すぐ迎えをよこす。待っておれ」
晴山たち西方の連合には、青い錆の浮いた銅の刃を使っているものなどひとりもいない。それでも、伊織の衛士たちに死者は少なかった。小棘の一声で、大武棘に背いたものがあまりに多かったのだ。
「オタカ! 」
後ろにいたオタカが年若いタケオを引っつかみ、自分の馬に放り上げたところで、大武棘は喚いた。混乱しうろたえると、恐怖が怒りにすり替わる類の人間なのだ。
「貴様ら、伊織の衛士であろう。我に背くと言うか! 」
「そうだ、伊織の衛士だ」
オタカは流れてきた矢を剣で払い落としながら答えた。
「あなたのではない」
馬が駆け去った。払うもののなくなった矢が大武棘の胸や腹を襲い、手入れの悪い鎧を突き通した。
戦に縁のないウカミはたったひとり、戦場から離れた山中で死んでいるところをあとになって見つかった。どうやら山の岩屋のひとつから王の宮のウカミの部屋までが抜け道として整えられていたらしい。
逃げる途中で待ち伏せを受けたのだろうというのが一番本当らしかったが、宮の女官や衛士、王子たちですら誰ひとり知らなかった抜け道の先でウカミを待ち伏せできたのは誰なのかという問題は、そのあと長く人々の暇潰しの話の種になった。名乗り出たものもいなかった。
晴山は伊織を滅ぼしたわけではなく、戦が収まって間もなく小棘が大智棘王として長を引き継ぐことになった。小棘には兄弟も姉妹もいたが、異を唱えるものはなかった。
大智棘は名が変わろうが座が高くなろうがすべきことはひとつだと言わんばかりの相変わらずの仏頂面だったが、早々に西国と和解し、里の立て直しのために晴山の協力を取りつけた。晴山からの使者として山辺彦と双葉が宮を訪れると、何だ生きていたか、と憎まれ口を叩いてから初音を呼び、冗談めいたことまで口にした。
「わたしに娘が生まれたら、巫女の宮へやろう。それまでは初音、そなたには乙女でいてもらわねばなるまい」
「はい、はい」
ぼろぼろ泣いて頷くばかりの初音を、幾月かぶりで山辺彦が慰める。大智棘は一同を見渡し、ふと呟くように言った。
「せっかくみな戻ったのだ。弔いでもしよう」
大智棘の態度は、高嶋に対しても何も変わらなかった。相変わらず高嶋は大智棘の一番の従者だったし、相変わらずその目はいちいち冷めていて、相変わらずどこへ行くにもそばに呼ばれた。
里をあげた弔いにだけは、無理に呼び出されなかった。高嶋はようやく、そういう諸々の小さなことも含めて自分がいかに気を遣われているかということに気がつくようになった。大智棘はもう随分前から、幼い日の己のわがままを顧み、悔いていたのかもしれない……。
高嶋は、その後他の衛士たちと同じように大きな戦に遭うこともなく命を永らえたが、あるとき不意に道で尖った小石を踏み抜き、膿んだ傷がもとで熱にうなされるようになった。
「ほら」
と、高嶋は見舞いに来たオタカへ真っ青な苦笑いを振り向けた。
「だから言ったろう」
うわごとのような調子で言い終えると、寝床の中で小さく身を震わせた。そのまま二度と目を開けなかった。
時の流転の中にあってそうして行き過ぎてゆく人もあったが、伊織の里はそれから長らく潰えることはなかった。一度、あの双葉に似た若者が見慣れぬ様相の無骨な男と連れ立って山を早駆けしているのを見たという人が出たが、さだかではない。……
――白鳥に混じって、海を見た。
目当てもない平野を進む導となった海だ……一度も見たことのないものなのに、どうしてかそうと分かった。
風が蹴立てるものとは別にひとりでに波が立ち、白い浜を洗う。今は、随分天高くに目があるらしい。浜を去り、直青の海原の八重波を越えたその先に、別の陸地があるのさえ見えた。
迷う間もなく、大きな風に促されるようにそこを目指した。彼は自由だった。
そこは川辺の草原だった。よく似たところへ蒲を取りに、ひとを導いたことがある。彼は口元を緩めた。格別甘やかな思い出だ。
その川辺には、すでに先客がいた。後ろ姿も恋しく、そのひとのもとへ駆け寄った彼に気がつき、たったひとりそこにいた娘がこちらを振り向いた。