恋初め
伊織の里の巫女王・葵には、大臣や采女たちが頭を抱えてしかるべき悪癖があった。男王と違って巫女王は血筋で決まるわけではなかったから、庶民上がりの娘たちを神の妻に磨き上げるために代々の采女たちはみなそれなりに骨を折るのだが、葵は元の振る舞いが他の娘より優れていたためにかえってたちが悪かった。
「またお山へ入られたのですか? 」
采女たちの長官を務める初音は、夕暮れ近くになってひょっこり宮へ帰ってきた葵をふくよかな声音で咎めた。慌てて後を追っていったものの、こんな時分まで主を止められなかった采女たちがうなだれている。
葵は籐の籠を差し出した。若い草が詰まっている。どれもみな、傷薬になる草だった。初音は籠いっぱいの収穫を見ても、渋い顔を崩さなかった。
「ああ、またこんなに手に傷をお作りになって……」
「だって、夢に見たの――この間の雨のあと、夏のはじめの力のある草がたくさん生えてるところ」
「媛さまの夢見のお力は、それは得がたいものではございますが」
初音はしぶしぶといったふうに認めながらも、苦い顔を崩さなかった。
「その草を採りにいらっしゃることまで、ご自分でなさる必要がどこにあります」
「口で説明しただけじゃ、分からない場所だったんだもの。ね? 」
「はい、本当に。まさかあのような獣道に――」
「獣道! 」
葵についていた采女たちは葵につられてしまい、初音に睨まれて肩をすくめた。初音のがみがみ言う声に巫女宮の衛士たちが一体何事かとすっ飛んできたが、肝心の葵にはあまり堪えているふうではなかった。なにしろ、いつものことなのだ。
「媛さまには困ったものです」
初音は頬を膨らませて訴えた。これもまた毎度のことである。里の行く末、また葵の身を案じるあまり、最近ではしまいに涙の入りはじめるのが常だった。
いつもなら
「本当に困ったのう」
と適当に相槌を打って初音の相手をしてやり、嵐を丸く収めることにしている衛士頭の山辺彦も、さすがにこれは放っておけぬ、と重い腰を上げざるを得なくなった。葵は、山辺彦のたったひとりの肉親だ。今は山辺彦の方が従者という立場ではあるが、可愛い姪であることは変わらない。
葵は王だが、強いてその立場を守ろうとはしていないのだ。山へ入るのもみずからの目で選り分けた薬草を里のもののためにと採ってくるのだし、何より、窮屈なところで一日中しとやかな顔をしているような取り澄ました娘ではないことをよく知っているからこそ初音を陰で宥める役目も買って出ていたものの、山辺彦としても葵を案じる気持ちがないわけではなかった――王でなかったとしても同じだ。いくらなんでも、非力な娘が山奥の獣道へ平気で踏み込んでいくのは感心しない。それに、葵が来いと言っているわけでないにせよ、つきあわざるを得ない采女たちが不憫ではないか。彼女らは、葵と同じように初音の雷を受け流すわけにはいかないのだから。
だから、今度ばかりはこう言うしかなかった。
「そなたには苦労ばかりかけるなあ。こうなったら、わたしが何とか……」
「そんなことを言って」
と、初音はじとりと山辺彦を睨んだ。
「山辺彦殿が、媛さまをお叱りになれるはずがございません」
「まだどうするとは言っておらん。第一、媛を叱ったところで何も変わるまい。あの子は、徒人には見えぬものを見ることができるのだから……本当に、危ういところではないと分かって出かけているのやもしれんし」
「ならば、何のための衛士です! 媛さまが夢見で先にご覧になったからといって里の外へひとりで出ていかれたら、あなたは黙って見送るおつもりなの? 」
「とてもそんな気にはならんな……媛を信じていないわけではないが……」
初音の言うとおりだ。山辺彦は人を叱るのは大の苦手だ。ひょうきんなことにならいくらでも舌が動くのに、そのせいで、いざ腰を据えて真面目な話をしようとするとこれがまったく似合わない。
だがその代わりに、人より機転が利いた。
叔父が訪ねてきたと聞いて巫女の宮の座に現れた葵は、采女たちを連れまわして山を歩き回っているのと同じ娘とは思えない身のこなしで山辺彦と向かい合った。だからこの娘は厄介なのだ、と山辺彦は自分の胸に呟いた。
初音が葵の座の脇で叩頭したので、山辺彦もそれに倣った。叔父が姪に対して臣下の礼を崩さないことは、本当のところ本人たちにとってはこの上なく馬鹿らしかった。巫女然と、頷いてふたりに応えた葵の口元は、吹き出すのをこらえようとしているように見えた。葵は領巾で品よく口を覆った。
「山辺彦殿、我に何ぞ申されたいことのあるとか」
山辺彦は再び叩頭した。
「媛さまに、夫を迎えていただきとうございます」
「なに……」
さすがに考えになかったのだろう、葵は呟いたきり沈黙した。巫女に選ばれた娘は、任を解かれるまで人間の男とは結ばれないのがしきたりだ。采女たちでさえ、宮を抜け出して誰かと逢い引きし、それが表沙汰になろうものなら、即刻家へ戻されることになっていた。
「誰? 」
思わず口をついて出たような、うつけた一言に、山辺彦は姪の動揺を見て取った。葵は歌垣に出かけたこともない。それがいきなり夫とは! それまで見ていたものとは、あまりに遠い世界のことだったに違いなかった。
しかし、不意をついて混乱させるくらいのことをしなければ、この媛を動かすことはできない。
「どんな男子がようございますか」
山辺彦が聞くと、隣で初音は何とも言えない顔をした。あらかじめ申し合わせていたとはいえ、やはり無垢であるべき巫女に向かって問うことではない。
葵は黒い瞳をじっと叔父に向けて、真意を測ろうとしているようだった。それとも、自分が唯一身の回りに置いている男として山辺彦を見ているのかもしれない。
葵は父の顔も母の顔も知らない。母のヤエナミは先代の巫女を務めた気高い女だったが、葵を産んで間もなく死んでしまった。体の弱いひとだった。
葵の父はヤエナミが巫女をしていた頃巫女宮に仕えていた衛士で、弟の山辺彦よりもよほどごつく、髭面の熊のような大男だった。早くに妻を亡くし、首も座っていない小さな娘を無骨な手で懸命に育てようとしていたが、流行り病であっけなく世を去った。幼い葵ひとり無事だったのは、もしかしたら兄の執念が守ったのかもしれないと、山辺彦は思う。
「我は山辺彦殿と、初音を信じています。我が夫を迎える方がよいと思うたのなら、ふさわしい男子をすでに幾人か決めてあるのでしょう? 夢には何も見ませんでしたから、神に背くことではないのでしょう。……寿ぐほどではないということでもあるかもしれませんが」
葵はそう言って沈黙した。山辺彦と初音は深く頭を垂れた。
突拍子もない叔父の申し出による動揺はすでに落ち着いてしまったのか、それとも内心はとんでもないことになったと焦りでもしているのだろうか。巫女の座に座っているときの葵は、心中を誰にも悟らせない。あるいは、こんなことになった以上は叔父が連れてくる相手を信じるしかないと思っているのかもしれない。葵は、みずからの生きる世界の狭さを知っている。だから、宮にじっとしていないのだ。いやいや、またあるいは、叔父が本気だとは思っていないのではないか。聞き分けのよいふりをして頷けば、初音や山辺彦がうろたえると踏んでいたのではないか。
だがしかし、葵がそう思っているとしたらそれは誤算というものだ。葵はすでに夫にふさわしいもののあてが何人かあるのだろうとはったりじみたことを言ったが、山辺彦はとうに、これというひとりを決めてあったのだから。
※
葵は、奔放に山へ入っていく自分のことで初音が叔父に泣きついているのを知っていた。だから、叔父が夫を、とすすめてきたとき、ずいぶん思い切ったことを考えたものだと思った。叔父は機転が利く。ただやめろと言うだけでは葵が従わないことくらい見抜いているし、葵が何を思って宮を抜け出すのかもきっと分かっているはずだ。
初音の顔を見る限り、叔父が本気かどうかは五分と五分だが、葵に話を持ちかけてそれが通った今、やはりこの話はなかったことに、と取り下げるような浅はかな叔父ではない。ということは、本気で葵に誰かを添わせようとしているに違いない。
まさか、巫女として務めを果たすにはふさわしくないから、適当に夫をあてがって宮から追い出そうというのでもないだろう。巫女でいるために巫女のしきたりを破るというのは妙な気もしたが、あの叔父のことだ。何の考えもなしにこんな話を持ち出してくるはずがない。
「本当に、これと一緒になりたいという男子はいないのだな」
日を置いて訪ねてきた山辺彦は、臣下からただの叔父に戻って葵に尋ねた。初音に睨まれ、舌を出す。
葵が頷くと、山辺彦は表に向かって呼んだ。
「大水葵朗子、上がりなさい」
「――失礼いたします」
外で涼やかな音がした。宮の階を上がるごとに、足結いの鈴が鳴っている。山辺彦は、来るぞ、と息だけで葵に笑いかけた。
大水葵朗子は戸口で片膝をついて叩頭した。身なりからして、衛士のようだ。下げのみずらに、宮の庭木の白い花びらがくっついている。長いこと、外で待っていたのだろう。少しでも動いたら無礼にあたるとでも思っているみたいに、朗子は姿勢を崩さなかった。
誰でもいいと思っていたのが嘘のように、葵は朗子を見つめた。大水葵朗子、という名に覚えはなかった。相手が顔を伏せているので、もどかしくてならない。
山辺彦が朗子の傍らへゆき、顔を上げるように促した。
「媛さま、これなるは大水葵朗子。我らがお選びしました、あなたの夫でございます」
衛士たちの長である山辺彦が連れてくる男といえば、いかにも武人という厳めしい青年ばかりを思い描いていた葵は、朗子の顔立ちに面食らった。朗子は顔をなかなか上げなかったくせに、葵の目を見つめるのをためらいはしなかった。
彼は美しかった。
伊織の里では、伊織の神の依り代として、宮の裏の山に大きな楠の木を祀っている。山辺彦と初音、選ばれた采女たちだけが立ち会い、葵は大水葵とふたり、鏡をかけられた大楠に向かって叩頭した。大楠から返事はなかったが、玉飾りのひとつがふいにちりんと音を立てたのが葵の耳に聞こえた。そして、実にあっさりと、大水葵は葵の夫になった。
「宮をお出でになるときは、必ずお連れくださいましね」
と初音が念を押した。
「媛さまが巫女でいらっしゃる間は、神の妻としての務めを間違いなく果たしていただきたく存じます」
葵は初音を見返した。初音は大水葵に向かって言った。
「間違いのないように。よろしいですね」
「はい、初音さま。……心得ております」
葵は大水葵を見た。大水葵は葵が見る前にすでに葵を見ていたようで、生真面目で物静かな瞳とかちあった。目を逸らしたのは、葵が先だった。大水葵の目が、あまりに迷いのないものだったから。
※
その日から、初音は葵が宮の外へ出ていくのを咎めなくなった。大水葵がそばについているからだ。大水葵は朝早く巫女宮へやって来て葵や初音たちに挨拶し、そのまま葵のいる部屋の端に黙って控えている。葵が外へ行くと言わなければ時折衛士の修練に出かけていき、戻ってきて、夕方までは巫女宮にいる。そして、夜には里にある屋形に帰るのだ。
初音は、葵の夫になったものへの見返りは巫女宮へ上がるのを許されたことだけで十分だとでも言わんばかりの態度で、大水葵が文句ひとつ言わないのを特に不思議とも思っていないようだったが、葵は訳が分からなかった。大水葵は、一体何が楽しくてこんな役目を引き受けたのだろう? 衛士とは、みなこんなに辛抱強いのだろうか? 山辺彦が大水葵を選んだのは、彼がこういう役目を苦に思わない青年だったからだろうか? それとも、もっと簡単で、葵は知らないが素晴らしい報酬が出ているとか? だが、そんなふうには思えなかった。
噂好きな采女たちによると、大水葵は衛士たちの中でもことに腕の立つ若者だが、なにしろその清廉な人柄によって評判だということだった。誰に対しても誠実で、決して無下にしたりはしないが、どんなに言い寄っても彼に恋させることのできた娘は今までにひとりもいないらしい。生涯ひとり身で、剣とともに生きてゆくのではないか、などと言われていたとか――だから、妻に迎えるのが任に就いている巫女でも何の問題もないのではないか、と。
だからといって、形だけの夫になれとは随分勝手な話ではないか。妹背になった日、初音が釘を刺したのはそういうことだ。巫女王の夫になる以上、他の男子のように別に妻を持つこともできないだろう。屋形のひとつくらい、与えられるかもしれないが。
今度の縁談で、大水葵は果たして何を得ようと思ったのだろうか。
「今日はどちらへ行かれます、媛さま」
葵が宮を出ると、大水葵は嫌な顔ひとつせず従ってきて、柔和に尋ねた。初音の目の前を通ったが、彼女は何も言わず、お気をつけて、と頭を下げただけだった。最初こそ初音の変わりように驚き、かえって外出を控えるようにしたくらいだったが、葵が宮を出ないと大水葵もそれに従わなければならないことに気がついてからは、葵も黙って見送られるようになったのだった。
「……今日は、川へ行こうかな」
「夢で何かご覧になったのですか? 」
「ううん。――別に、そういうわけじゃないけど……」
葵は口ごもった。用もないのに、と咎められるかもしれないと思った。
大水葵はほほえんだ。
「今の時分は草木の色も冴えて、流れがいっそう清らかで美しゅうございますね」
「うん、それに、蒲を取りたいの。……あの、少しでいいから」
大水葵が何を思っているのか、さっぱり分からない。葵は、思いがけず川の美しさを語られてもうまく言葉を返せなかった。人と話すのは、こんなに気の張ることだっただろうか? 自分の受け答えが不愛想で、風情も何もないことだけは分かった。
大水葵はお任せください、と頷いた。
「山ほど生えているところがございます、ご案内いたしましょう。媛さまの方がよくご存知かもしれませんが」
そして、自分は媛さまなどと呼ぶくせに、葵に言った。
「わたしのことは、どうぞただナギとお呼びください。あなたに大水葵と呼ばれるのは、少し寂しい」
伊織は一方だけが平野へ開けている里だった。重なり合ってそびえる山から湧き出した川は下るにしたがってなだらかに流れるようになり、葦原の中を西へ西へと続いていく。果てがどうなっているか、知るものはいなかった。
ナギは鮎釣りをしている里人の別な舟を借りてきて、葵の手を取って乗せると、巧みに竿を操った。丸々とした銀色の鮒が驚いて逃げていくのが見えた。
「さあ、こちらです」
何を印にしているのか、ナギは特に変わったところもない岸に舟をつけ、乗るときと同じように葵を助けて降ろした。陸からは棘だらけの藪が妨げになって、入れない場所だった。
「こんなに……」
葵は一面の蒲の穂を見渡した。山ほどというのは、決して大袈裟ではなかった。兎の子が不思議そうに立ち止まり、ナギは目を細めて葵を見ている。
「もう少し奥へ行かれますと木苺がございますよ。アケビは、少し早いですね」
「わたしに教えてよかったの」
葵が聞くと、ナギは笑い出した。兎が葵に寄ってきた。
「苺がほしい? 」
兎を撫でようと手を出したとき、葵は急に、自分の手が傷だらけなのを意識した。固い草に切られたり、小さな棘に引っかかれたり、おかげで、巫女の手とは思えないほど荒れている。気にもしてこなかったけれど、ナギに見られると思えばなぜか気になった。
「厨の娘だってもっとましでございますよ」
初音に言われたことがある。そのときの初音はもう葵を止めだてするのを諦めていたから、そのくらい言わねば気が済まなかったのだろう。
今さら引っ込めるわけにもいかない、と葵は迷った。本当に今さらだった。ナギは舟の乗り降りに、二度葵の手を見ているはずなのだ。
気にされていないのだ、と葵は思った。ナギが何を思って葵の夫になったのかは知る由もないが、ナギは今のところ従者としての態度を崩していないのだし、娘たちにとって難攻不落だったということは、その一点によって山辺彦に選ばれた可能性すらあるではないか。巫女という立場を守ったまま、夫という名の体のいい目付け役をつけられた、そんな状況だ。
けれども、それではあまりにも、ナギを軽んじている。叔父の狙いはこれだったのだ、と葵は思った。彼はもう葵の夫になってしまって、里中のものがそれを知っているのだ。誰もが、彼は名ばかりの夫だと分かっている。それでも、生真面目なナギは一度引き受けた役目を放棄したりはしないだろう。そして、ナギがそんなことになったのは、もとはといえば葵が巫女として奔放すぎたからだ――自分のせいで目の前の優しい青年の人生が狂ってしまったのではないかと思えば、初音の説教よりよほど、葵には堪えた。
「どうなさったんです」
葵が怖い顔をして黙り込んだので、ナギは蒲と木苺を持って向かいにしゃがんだ。葵は袖を引っ張って手を隠した。
「ナギ」
「はい」
「あなたはどうして、わたしの夫になろうと思ったの」
「どうして……」
ナギは上の空で兎を撫でて逃げられた。ナギの手は葵の手よりも大きくて、衛士らしく傷もあり、ついでに日焼けもしていたが、葵はその手を醜いとは思わなかった。
「申し上げて礼を欠かないかどうか――」
「……負けたの? 」
「邪推が過ぎます」
ナギはごくやんわりと葵を咎めた。
「もしや葵さまは、わたしが貧乏くじを引いたと思っていらっしゃるのですか? 」
「誰も好き好んで手を上げたりはしなかっただろうな、とは思う 」
「さようで」
ナギはふう、と溜め息をついた。あなたは何もわかっていない、とその目は言っていた。
「ではお話ししましょう。わたしの小さな意地のために、あなたと行き違うのはつまらない」
ということは、ナギにとっては言いにくいことに違いなかった。ナギが口を開く決意を固めきる前に、葵はごめんと謝ろうとした。
しかしナギの告白を聞かなければ、本当に心の通わない、名ばかりの妹背になるしかないような気がした。それで黙っていた。
ナギは葵がじっと見ているのに気がついて、少し顔つきを和らげた。
「わたしは、あなたにずっと片恋をしておりました」
その声が思ったよりもずっと甘やかで、葵はたじろいだ。ナギは幸福そうに続けた。
「もう十年は前になりましょう。七つか、八つになったわたしは、他の男子と同じように剣を持つことを覚えました。その年のちょうど今頃、山辺彦さまの御館へみなで集められ、泊りがけで鍛錬したことがあったのです」
葵は山辺彦の屋形で育てられた。そういえばそんなことが、と懐かしく思い出す。
「まだ下手くそばかりじゃ」
叔父は教え子たちの背を叩いて励ましながら、葵に傷薬を作っておいてくれと頼んだ。屋形は川のそばにあった。
葵は蒲をたくさん刈って待っていた。そなたの母上は、父上のためによく蒲の穂を取りに行ったと何度も聞かされていた。
山辺彦の指導がよいのか、怪我は滅多になかった――。
「こいつが悪いんだ」
甲高い少年の声で、喚いたものがあった。伊織王、大武棘の王子の、小棘である。鍛練というものがあまり好きではないようで、十二にもなって、とうとう七つ八つの子どもたちに混じらなければならなくなった。
その小棘が、相手をしていた少年を剣代わりの木の棒で殴りつけたらしかった。額の辺りを押さえてうずくまった少年は、血が垂れても構わずに、指の間から小棘を睨んでいた。
小棘は棒で少年を指した。
「兄水葵がおれを殴るから……」
「剣術とはそういうものだ」
山辺彦は王子だろうが何だろうが、一度師と仰がれたからには対等に扱った。王子の自分を殴ったちび、と、試合が終わってから力任せに兄水葵を叩いた小棘を、父王もしたことがないであろうという形相で叱りつけた。
「試合は終わりと言ったはずだ、この馬鹿者! 剣を引いたものを殴るようにと、教えた覚えはないぞ。……高嶋、兄水葵に手を貸してやってくれ」
兄水葵は友人に支えられて葵のところへやってきた。右目の上が切れて、そこから血が出ている。
「高嶋、ありがとう、戻ってくれ」
兄水葵が友人に言った。高嶋は頷き、お願いします、と葵に頭を下げて戻っていった。葵がそっと傷を見ると、兄水葵がぐっと歯を食いしばる気配があった。だが、彼は呻き声ひとつ立てなかった。
「痛い? 」
兄水葵が小棘よりもよほど王子のような態度でいるので、葵はついそう尋ねた。すると兄水葵は葵を見て、痛うはございません、と呟いた。涙が一粒だけ零れた――。
「……兄水葵? 」
葵が見ると、ナギは覚えておいででしたか、と頬を掻いた。葵はナギを上から下まで三遍見直した。幼い頃の面影をその姿に重ねてみようとしたが、うまくいかなかった。わずかだが、目元にかつての名残りがあるような気がするばかりで。
「分からなかった」
「そのあとで、葵さまは傷を癒してくださいました。――あなたの手は、とても優しかった」
「本当……」
まさかあれだけのことで、と葵はナギを見つめた。そうすると、額に淡く傷の痕が残っているのが見えた。
「痛くないなどと生意気を申しましたが、本当は痛くてならなかったのです。小棘さまのことも、許してやるものかと思っておりました。しかし葵さまが、あなたは立派だった、とおっしゃった。不当に扱われ、傷つけられたのに、実に気高い態度だったと。あのお言葉に背かぬ男子にならねばと、好きではなかった鍛錬を続ける励みにすることさえできたのです」
「そう……」
葵は何と言って兄水葵を励ましたのだかも覚えていなかった。それがナギには大きな問題ではないらしいのが救いだった。
ナギは持っていた蒲と苺を葵の籠に入れた。
「あなたはわたしに誇りをくださった。わたしの腕が立つという人があるなら、それはあなたのおかげです。巫女王にあられます方を相手に身の程知らずと思いながら、あなたのことが忘れられずに、妻と呼べる人も持たず時を過ごしてきてしまいました。だから片恋のままでも――夫にならないかと言われたときにお受けしたのです。貧乏くじなどとんでもない。あなたと再び相まみえることも、過ぎたる願いと思っていたくらいなのですから」
「片恋なんかじゃ……」
言いかけて、ナギに何を伝えたかったのか、葵の方でも正しくは分からずじまいだった。葵が口走りかけたものを言いきらないうちに、ナギがやんわりと遮ったからだ。
「どうか、そのまま……わたしに、あなたのお心を向けていただくのは――」
ナギは目を伏せた。
「今は、もう……辛うございます」
葵は言葉なくナギを見つめた。夫など誰でもいいと思っていた葵の夫となるために、ナギがどれだけの覚悟を持って宮へ来たのかを、やっと思い知ったのだった。
だからナギが西の空を見て、暗くなってまいりました、戻りましょうと立ち上がったとき、思わずその手を引いた。
「葵さま」
「あかるこ、と呼んで」
中腰のナギに縋りついたのに、ナギは危なげなく葵を支え、軽々と立たせた。ナギは呟いた。
「あかるこ……」
「本当は、あかるこという名なの。巫女でいるときに、変えてしまったけど……そのくらいは……」
妻なんだから、と声には出さずに言った。
ナギは頷かなかった。葵は、ナギが兄水葵だったあのときのように、涙一粒の分だけ泣くのではないかと思った。
そういう顔をしていた。
「わたしは本当の夫にはなれません。あなたが、巫女宮にいらっしゃる限りは」
ナギはかすれた声で言った。
「お許しください。それは、あまりに――むごい」
葵は頷いたが、引いた手を離しはしなかった。足元が暗いから、ナギもわざわざ離そうとするはずがない――自分がずるいことをしているのは分かっていた。
ためらって、緩んでいたナギの指が、やがて諦めたように葵の指に絡んだ。それがナギにとって、何の慰めにもならなかったとしても――。
葵は舟に揺られながらナギの摘んできてくれた木苺をひとつ口に入れた。酸いの勝った味がした。