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第九章【楽しそうな声】二月二十八日


「主膳が、直弼さんを裏切ることはあるのかな」

 太郎坊神社を後にすると、冬哉はぽつりといった。

「史実ではそういうことはなかったと思う」

「直弼さんは俺に妖術の本をくれるけど、その大半は主膳の趣味で集めていたものだと聞いたことがある。弘道館にそういう本がたくさんあったとすれば、下法を使う者が水戸藩にいても不思議ではない気がする」

 冬哉はそういうと、空を見上げた。

 そこにはただのカラスが数羽飛んでいた。

「小学生の頃、天狗をみた気がするの」

 私はぽつりといった。

 冬哉は「しょうがくせい?」という感じで私をみたので「七才くらいの頃」といい直した。

「天狗は神様としても、妖怪としても、日本にはそれなりにいるからな。杏里さんが出会っていても不思議ではないと思う。実害はなかっただろ」

 冬哉は特に驚いた様子はなかった。

 それほどに天狗とはめずらしいわけではないのだろう。

「さらわれるかと思ったけど、なにもされなかった。それなりに怖かったけど」

 冬哉のいうように、実害はなかったわけである。

「妖怪の類は、人間をからかうのが好きだからな」

 冬哉はそういうと、後ろを気にする素振りを見せた。

 私もそれにつられて、後ろを見ようとした。しかし冬哉は私の肩を抱いて、それを阻止した。

「振り返るな。なにか、ついてきてる」

 冬哉は私の耳元でいった。

「人?」

「人じゃない。杏里さんにもわかるはずだ」

 自分の背後に神経を尖らせると、軽い足音がついてきているように感じられた。

「あの角を曲がろう」

 冬哉はそういって、歩く速度を速めた。

 私たちが道を曲がっても、その足音はしっかりとついてきた。

「たぶん狐狸こりの類だ。放っておくのも面倒だし、捕まえて話を聞いてみよう」

 冬哉はそういうと、人差し指と中指を立てた。そして素早く振り返り、立てた指を虚空に指した。

「うわぁッ」

 幼い声とともに、小さな獣がポテンと道に転がった。

「あ、カワウソか」

 冬哉は冷静にいった。めずらしい生き物ではないようである。

 カワウソは冬哉の術によって身体を拘束されているらしく、その場でもぞもぞと動くばかりであった。

 冬哉はカワウソに近づくと、膝を折って話しかけた。

「話せるよな? 何者だ」

「アラヤ!」

 カワウソは元気よくいった。

「飼われているカワウソか。厄介だな」

 カワウソは「アラヤ」といっただけだったが、冬哉はそれだけでわかることがあったらしい。

「カワウソなら、酒は好きだろう。酒をやるから、お前の飼い主のところへ案内してくれないか」

 冬哉がいうと、カワウソはそわそわし始めた。

 交渉が成立しそうな雰囲気である。

「うちは神社だ。いい酒がたくさん献上されているぞ。遊びに来ないか」

 冬哉が微笑むと、カワウソは「わかった!」と元気よくいった。

交渉成立である。



家に帰ると、冬哉は約束通りカワウソに酒を与えた。

 カワウソは目をきらきらさせて、それを口にした。

「これが妖術の本だけど、読んでみるか」

 冬哉はそういって、私に分厚い本を差し出した。

「ありがとう。これを読めば、冬哉についた鬼虚を散らすことができるかな」

 私はその本を受け取った。

「まだ鬼虚が見えるか?」

「うん」

 薄くなってはいたが、私には鬼虚が見えていた。

「内容を理解できれば、だいたいの術は使えるようになると思う」

 冬哉はそういいながら、上質な羽織りにそでを通した。

「俺は今から神職の仕事をしてくる。この辺にいるから、なにかあれば声を掛けてくれ」

 当然であるが、冬哉は神職の仕事もしているわけである。むしろそっちが本業なのだろう。

「冬哉が留守の間、私になにか、できることある?」

「ない。ここにいてくれたら、それでいい。この家には結界を張ってあるから、カワウソが逃げることもないから、昼寝でもしていてくれ」

 冬哉はそういうと、平屋を後にした。

 実際に私にできることはないと思うが「ない」と、きっぱりいわれると清々しさまであった。

 私は冬哉の言葉に甘えて、酒を飲むカワウソの横で、受け取った本を読むことにした。

 本の中には触れたことのない知識が書かれており、私はすぐにそれに夢中になった。


「俺が出ていった時から、時間が止まったみたいな部屋だな」

「さけ?」

 私はそれらの声で、ようやく本から顔を上げた。

 そこには仕事を終えた冬哉と、トトがいた。

 カワウソはお腹を上にして、すよすよと寝息を立てており、トトはその姿を興味深く見つめていた。

「灯りがないと、本が読みにくいだろ」

 冬哉はそういって、行灯あんどんに火をつけた。

 薄暗かった室内は、ぼんやりと明るくなり、外の世界は暗闇へと落ちていった。

「鬼虚を散らせるかも知れない」

 長く無言だったせいか、そう発した私の声はかすれていた。

 私も父と同様に、集中すると寝食を忘れる類の人間であった。

「わかった。でもとりあえず、宮司に夕飯をもらってきたから、それを食べてからにしよう」

 冬哉は新しい知識を得て興奮気味の私を、落ち着かせるようにいった。

 トトは警戒しながらも、カワウソの側で丸くなっていた。酒が目当てというわけでなく、単純に外が寒いので室内に入ってきたらしかった。


夕食後、冬哉は「じゃあ、お願いしようかな」と私に背中を向けた。

「ここで大丈夫?」

「大丈夫。ここは神社の境内だし、一応神域だから」

 その辺の定義は曖昧らしい。

 私は本に書いてあった内容を頭の中で反芻しつつ、人差し指と中指を立てて、ゆっくりと呪文を詠唱した。ぼんやりと指先が温まってくる感覚がある。それを充分に確認した後で、私はふっと指先に息を吹いた。

「あ、散ったな」

 冬哉は鬼虚が霧散したことに、すぐに気付いたらしかった。

「すごいな。この短時間で」

 私は冬哉の反応に大変満足し「へへ」と間抜けに笑った。

「杏里さんは理解する能力が高いんだな。そもそも見鬼としての才能は、元々あったんだろうな」

「この世界に来るまでは、全然そんな感じじゃなかったけど」

 妖怪が見えると自覚したのは、つい昨日のことである。

「騙し絵みたいに、ある日を境にはっきりと見えるようになることもあるんだ。じいさんと松成が目の共有をしているのは、そのきっかけ作りなんだろうな。荒治療だとは思うけど、効果はあると思う」

 騙し絵といわれると、妙に納得してしまう。

「それはそれとして、杏里さんがこの世界で妖術を使うのは、負担がかかるみたいだな」

 冬哉はそういうと、私の鼻を手ぬぐいで拭いた。

 私は鼻血を出していたらしい。それに気付いてしまうと、全身に疲労が襲ってきた。

「この世界に留まっているだけでも、杏里さんには色んな消耗があるんだと思う。しばらく横になっていた方がいい」


 冬哉がその場に布団を敷いてくれたので、私は鼻に布を当てて横になった。

「昨日の今日で、情けない……」

 鼻を抑えているせいもあり、私はとんでもなく間抜けな声でいった。

「昨日は別として、今日は名誉の負傷だ」

 昨日は別とされた。

「鼻血を出したのなんて、子どもの頃以来な気がする」

 私は言い訳をするようにいった。

「俺も術を覚えたての頃は、体調を崩すことがあったよ。少し眠るといい」

 それから私はお酒の匂いが漂う室内で、私はうとうとし始めた。


 私が眠った後で、父と母が二人でお酒を飲んでいることがあった。

 二人は私と会話する時とは違い、ひどく落ち着いた声色でなにかを話していた。その内容までは聞こえなかったが、その気配が好きだった。

 そんなことを久しぶりに思い出していた。


――杏里は、日に日にお母さんに似てくるね

 母が亡くなった後で、そういった父の顔を、もう思い出せない。

――杏里ちゃんはお母さんに似ているから、苦労もあるかも知れない

 祖父はそういって、私にアンティークメガネをくれた。

 私は母に似ていることが、うれしかった。しかしそう思っているのは、私だけなのかも知れない。そう思ってしまうと、私はひどく悲しい気持ちになった。

 母の存在が薄れていくようで、寂しかった。

 母の死を大袈裟に嘆き悲しんで、父や周囲の大人を困らせたりすればよかったんだろうか。

 そう思った後で、そんなことは到底できなかっただろうと自嘲する。


「おっと。注ぎすぎたか」

冬哉がいうと、カワウソは素早くお猪口ちょこに口をつけた。

 眠りの端にいたはずであるが、冬哉の楽しそうな声で、私は現実へと戻ってきた。

 カワウソはいつ目が覚めたのか、冬哉とともに酒を飲んでいる。トトはよほど疲れていたのか、冬哉の側で眠るばかりだった。

 気持ちが下を向いていたように思うが、誰かが同じ空間にいてくれるだけで、安心できるのだから不思議なものである。

「なんだか、眠るのがもったいない」

 私は小さくいった。

「なんだ。眠ったのかと思った」

 冬哉は私を振り返った。

「ちょっと眠ってたかも」

「この世界では疲れることも多いだろ。このまま眠っていいぞ」

 冬哉の顔はすでに赤らんでいた。

「なんだか幸せで、眠りたくない。眠る直前まで、誰かが側にいてくれることが、ほとんどなかったから」

「そういうものか。俺はここに一人で住むようになってからの方が、よく眠れるようになった」

「そうなの?」

「そう思う。浮島家は俺の居場所ではなかったし、奉公先も自分の居場所だと思ったことはなかった。でも俺はこの神社に雇われて、直弼さんが俺の才能を認めてくれて、ようやく静かに眠れるようになった気がする」

 室内の光がぼぅっと揺れて、自分たちだけが切り離された世界に存在しているような、そんな気持ちになる。

「誰かに頼りにされるというのは、単純にうれしいものだ」

 冬哉はいった。

「私は、冬哉を頼りにしてるよ」

 私はうとうとしながら、冬哉にいった。

「なにもしていないが、それはうれしい限りだな」

「冬哉が私のいた世界にいれば、私は今ほど寂しくなかったかも知れない」

「特になにもできないと思うがな。まあ、酒に付き合うくらいはできるが」

「お酒はもう飲まない」

 私は即座にいった。

「そうなのか。じゃあ、なにかしてほしいことはあるか」

「なんだろう。予防接種とか」

 私は半分眠りの中にいたが、はっきりといった。

「なんだ、それは」

「病気を防いだり、軽度にする注射。冬哉と一緒に生きられるなら、長い方がいいから」

 冬哉は「注射かぁ」と小さくいった。

 布団の横には冬哉がいて、その側には眠っているトトがいる。そして冬哉の向かいには、楽しそうに酒を飲むカワウソがいる。

 こんな意味のわからない空間で、私はとても幸せだった。

 私はたしかに、幸せの中にいた。





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