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第四章【熱燗】二月二十七日

 冬哉は私を平河神社の境内にある平屋、つまりは彼の自宅に案内してくれた。

 そこは冬哉が一人で住んでいるらしく、玄関には「川上冬哉」と書かれた表札があった。

 平屋の中はそれなりに広く、私は「ここで着替えて」と、客間に通された。

「着物の着方はわかるか?」

「うん、大丈夫」

 私は母の生前、色んな習い事をしていた。日本舞踊もその一つである。私はそこで、着物の着方も学んでいた。それがこんな形で役に立つとは、夢にも思っていなかった。

 そういえば井伊直弼も、色んな習い事をしていたことで有名である。茶道、和歌、太鼓、能などの芸事以外にも、居合は達人級であったらしい。そしてついたあだ名はチャカポンだった。


 私が着替え終えると、三人で彦根ひこね藩邸はんていへと向かった。

 当時は江戸に常住する武家には、幕府から屋敷が与えられていた。その屋敷が、いわゆる藩邸のことである。しかしこの時代は、藩邸という言葉は存在しなかった。あくまで藩ではなく、その藩主に与えた屋敷だからである。

 彦根藩邸、つまり井伊家上屋敷は江戸城からほど近い場所にある。

 そのため平河神社からも、歩いてそれほど時間はかからなかった。

 江戸の藩邸はどれもとても大きかったと聞いている。しかし実際に足を踏み入れると、そこは想像していた以上に大きかった。

 もはや一つの村といってもいいほどに、その敷地には色んな屋敷が点在していた。

 私たちは主膳に案内され、母屋の座敷へと通された。

 主膳は「私は見張りに戻る」と、その場を去っていった。


 それからほどなく、人のよさそうな中年男性が「待たせたかな」と座敷に顔を出した。冬哉も主膳も背が高いせいか、小柄な印象を受ける風貌だった。

「それほど待ってないよ」

 冬哉はいった。

「よくやってくれたな、冬哉。初めまして、井伊いい直弼なおすけです。この度は、お世話になります」

 彼は、私に頭を下げた。

 冬哉がなにもいわないので、彼が井伊直弼で間違いないらしい。

 井伊直弼がどんな人間であるとか、そんな想像をしたことはなかった。それにも関わらず「想像とちがう」という感想を持った。

「春崎杏里です、よろしくお願いします」

 私は深々と頭を下げた。

「話は少しだけ主膳から聞きました。百六十年後の未来からきたとか」

 直弼はそういって、興味深そうに私を見つめた。

「転移術を使う前にもいったと思うが、必要以上に未来のことは聞かないでくれ。杏里さんは、協力してくれるといったよ」

 冬哉は直弼に言い聞かせるようにいった。

 彼らの力関係みたいなものは、私にはまるでわからなかった。

「それは、ありがたいことだ。お疲れでしょうし、難しい話は明日にしましょう」

 その後、私たちのいる座敷には次々と料理が運ばれてきた。


「さ、まずは一杯」

 直弼はそういって、私にとっくりを傾けた。

「あ、えっと……」

 私がきょろきょろすると、冬哉は私にお猪口ちょこを渡してくれた。

 私がお猪口を持つと、直弼はそこにとろとろと透明なお酒をついでくれた。おそらく熱燗あつかんと呼ばれるものである。

「ありがとうございます」

 それから直弼と冬哉は、互いに酒を注ぎあった。

 乾杯でもするのかと思ったがそんなことはなく、それぞれがお酒を口にした。

 私がお猪口を手に持って静止していると「どうかなされましたか」と、直弼がいった。

 隠す必要もないので、その問いに答えることにした。

「私のいた世界では、二十才まではお酒を飲めない決まりなんです」

 それは想定外だったらしく、直弼も冬哉も「ほぅ」と関心した。

「ちなみに杏里さんは十七だ」

 冬哉はいった。

「この世界では元服げんぷくした者、まあ十五くらいから酒は普通に飲んでいるな」

「無理にとはいいませんが、うまい酒ですよ」

 ほんのり顔が赤くなった直弼は微笑んだ。飲むと顔が赤らむ体質のようである。

 二人が無理にお酒を勧めない姿勢が、私に「少しくらいなら」と思わせた。

 お猪口を口元に持っていくと、ふんわりと甘い香りがした。透明な液体にちろりと舌をつけた後で、私はそれをゆっくりと飲み込んだ。

 温かな液体が、喉から食道を通っていくのが感じられる。その液体が通った後は、ぽぅと熱を帯びていくようだった。

 そのうちに、胃がぽかぽかと幸せな温度で満たされていくようだった。

「美味しいです」

 酒のうまさにうっとりすると、二人は満足そうに笑った。


「しかし、百六十年後か。想像もつかないな」

 酔いがまわったであろう直弼は、少年のように目を輝かせていった。

 直弼は自分が暗殺されることを危惧して、私を未来から転移させたわけである。しかし、その憂いのようなものは感じさせない振る舞いであった。

 転移術が成功したことで、自分が絶対に暗殺されないと思うほど、楽観的な人ではないだろう。それでも、直弼も、冬哉も、実に楽しそうに酒を飲んでいた。二人がそんな具合なので、私もふわふわと楽しい気持ちで食事と酒を口にできていた。

「杏里さんには、家族や兄弟はいらっしゃるんですか」

「母は十年前に他界していて、兄弟はいません。なので、家族は父だけです」

 しかしその暮らしも、もう終わりを迎えようとしている。

 私と父の、少しいびつで平穏な日常は、ほどなく跡形もなく消えてしまう。そのことが、少しだけ寂しかった。

「幼くしてお母さまを亡くされているんですね。それは、さぞ辛かったでしょう」

 直弼の言葉に、なんだか不意をつかれた気分だった。


 実際に私は、母を亡くしてとても辛かった。

――かわいそうに、まだ小学二年生でしょ

――旦那さん、ちょっと変わった人なんでしょ

――育児とかできるのかしら

 大人たちは幼い私を、透明人間かなにかだと思っていたのかも知れない。もしくは私の前では、どれだけ無神経なことをいってもいいと思っていたらしい。

それでも私は、それらの言葉にしっかりと傷ついていた。

 父は確かに育児に向いていない人だった。

 集中すると寝食を忘れるタイプで、生活能力が高い方でもなかった。母が地方の出張で家を空けると、家の中は数日でひどいありさまだったし、私を風呂に入れるのも簡単に忘れる人ではあった。

 それでも私は父に悪気がないことはわかっていたし、父のことは好きだった。だからこそ母を亡くして、父と離れて暮らすのは嫌だった。

 父は母を失ったことを心の底から悲しんでおり、一人で泣いていることを知っていた。

 そんな父に負担に思われたくなくて、周囲に心配されたくなくて、私は悲しさを押し殺して生活していた。

 そうしているうちに、私は母を亡くした悲しみを、誰かと共有する機会を失った。


「直弼さんも父親を亡くしたのは、若い頃だったんだろ」

 冬哉はいった。

「若いといっても、十六だ」

 井伊直弼の父は第十四代彦根藩主の井伊いい直中なおなかである。そして直弼は直中の隠居後に生まれためかけの子で、十四男である。

「冬哉も家族を亡くしたのは、それくらいの頃か」

 直弼はいった。

「だいぶ酔ってるな。俺は捨て子で、元々家族はいない。今も昔も、根無し草だよ」

 冬哉はなかなかに重い生い立ちを、さらりと口にした。

「いやいや、それほど酔ってはいない」

 直弼はそういったが、なかなか酔っている様子であった。

「五年前の地震で家族を亡くして、平河神社に雇われたのではなかったか」

 地震というのは、安政の大地震のことだろう。安政時代には、日本各地で大地震が起きていた。その中でも安政二年に起きた江戸地震は、かなりの被害があった。

「だから、家族はいないっていってるだろ」

 直弼は呆れたように笑った。

「俺が平河神社に雇われたのは、奉公先が地震で潰れて、ふらふらしていたからだよ」

「ああ、そうか。そうだったな。地震については不幸なことだったが、冬哉と出会えたことにだけは感謝している」

 直弼はそういって酒を口にした。

「滅多なことはいうなよ。言葉尻ことばじりをとられて何度痛い目を見たんだよ」

 冬哉は失笑した。

「政治をする者の前では、こんなことはいわない。しかしひどい地震だったな。崩れ緩んだ江戸城の石垣をみて、徳川の天下も間もなく崩れるだろうと、適当なこともいわれたものだ」

「あの頃はみんな、適当なことをいわなきゃ、やってられなかったんだよ。鯰絵なまずえもずいぶん流行っていたしな」

 鯰絵とは、安政の大地震直後に大量に版行された戯画のことである。

「見鬼には、大鯰おおなまずが見えるのか?」

 直弼は冬哉に聞いた。

「少なくとも俺は見たことがない。そういう妖怪はいるらしいけど」

「大鯰が動くと、地震が起きるというのは、完全な民間信仰でもないわけか」

「そう思う。でもあの鯰絵は単純に、民衆が娯楽に飢えていたから流行ったんだろ。大地震の悲劇を風刺して、不満や不安を解消することしかできなかったんだと思う」

 冬哉はそういって目を伏せた。

 彼も地震の被害を目の当たりにした人間だからなのだろう。

「地震の被害もひどかったが、私については、あの頃の最大の悩みは頭痛だった」

 直弼は話を変えるようにそういうと、私に視線を向けた。

「私は幕政ばくせいに関わり始めてから、ひどい頭痛に悩まされていたんです。でも冬哉と出会って、それが解消されたんです。なんでも私の頭痛の原因は、人々の怨念だったとか」

 直弼は笑った。笑っていいものかわからなかったが、とりあえず笑っておいた。おそらく私も酔っていた。

「見鬼は、そういう怨念をどうこうできるの?」

 私は冬哉に聞いた。

「知識さえあれば、そういう術は扱えるようになる。俺の場合は直弼さんが面白がって、幕府しか持たない妖術に関する本を、いくつも読ませてもらってるんだ。だから無駄に色んなことができる」

「私は才能がある者に、知識を与えるのが好きなんだ。人が育つのは、なにより楽しい。しかしあれだろ。誰でもできるといっても、そもそも怨念のなんたらが見えないと、気付くことさえできないのだろ」

鬼虚おにこのことか。確かに鬼虚は、見鬼しかみえないな」

「そうそう、鬼虚だ」

 直弼はいった。

 私は説明を求めるように冬哉を見つめた。

「鬼虚というのは、お墓とか、妙な事件や事故があった場所に集まりやすいとされてる思念みたいなものかな。まあ、よくないものの総称だな。直接的な害はないが、集まりすぎると少し嫌なことが起きる」

 いわゆる心霊スポットとか、そういう類に集まるものなのだろう。

「人間に鬼虚が憑くのは、それなりにめずらしいよ。どれだけ人に恨まれてるのか、想像するのも恐ろしい」

 冬哉はいった。

「私は人に恨まれることばかりしているからな」

 直弼は酒に口をつけた。

「私は、徳川家の役に立てることがうれしいんだ。私が部屋住みだったのは、十五年だぞ。どれだけこの時を待ったかわからない」

 部屋住みとは、家督を相続していない者のことである。血統を絶やさないための万が一の予備という存在だったので、妻子を持つことも禁止されていた。

 それから直弼はその十五年間、自分がどれだけみじめな思いをしたのかを切々と話した。

 冬哉は「また始まったよ」という顔をしていたが、私はその話に真剣に耳を傾けた。 

 私の周りには、こんな風に飾り気なく自分の話をしてくれる大人がいなかった。

 だからこそ私は、彼の話に興味が尽きなかった。







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