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第二章【いぶつ】二月二十七日


 ボォン。


 私が目を閉じたのは、ほんの一瞬だったはずである。

 しかし私はその一瞬で、知らない場所に放り出されてしまったようだった。

 私がいたのは、森の中だった。

 陽光はすでにその気配を消しており、私は突如として夜の底に来てしまった気分だった。


 ボォン。

 遠くで奇妙な音がする。

 なんだが不安を煽られるようなそんな音だった。しかしその音が鳴り終えてしまうと、途端に周囲は静かになり、さらに私を不安にさせた。

「いぶつだ」

 闇の中から声がした。

「いぶつ、いぶつ」

 それはいつしか、複数の声になっていった。

 異物。

それらは私に、そういっているらしい。

 私は冷静になろうと、スカートのポケットを探った。

 そこにはいつも、あやとりを入れている。

 私は落ち着きたい時はあやとりをする習性がある。二次試験の会場に向かう電車の中でも、試験の休み時間も、ひたすらにあやとりをしていた。

 ポケットのあやとりを取り出した際に、自分の服装は変わっていないことに気がついた。私は現在、ワイシャツにカーディガンという防寒の低い格好で寒空の下にいた。

「いぶつ、いぶつ」

 それらの声が、さらに私を不安にさせる。

 私はその不安を振り払うように、暗闇の中でもあやとりをする手を動かし続けた。

 そうしているうちに、それらの声が幻聴とは思えなくなってきた。

そう思ってしまうと、見ていた景色が急に姿を変えた。

 私を「いぶつ」といっているのは、狐面をした子どもたちだった。

 それはとても異様な光景で、私はもっと困惑した。


「大丈夫か?」

 呆然と座り込んでいる私に、凛とした声がおりてきた。

「お前たち、はしゃぎすぎだ。この人は俺が呼んだんだ。大事な客人だ」

 その声が言い聞かせるようにいうと、狐面の子どもたちは笑い声とともに、その場からふわりと消えていった。

「驚かせて、すまなかったな」

 その言葉とともに、私の前には提灯ちょうちんが向けられた。

 その灯りに安堵はすれど、なにが起きているのかはまるでわからなかった。

 私はメガネをかけ直して、声の主を改めて見つめた。

 そこにはまったく見覚えのない、美しい青年がいた。日常の中で彼と出会っていたら、その顔に見惚れることもあったかも知れない。

しかし私は現在、なぜか森の中にいて、彼の姿もなぜか着物だった。不可解なことしかない中で、彼の顔の造形に見惚れるほどの余裕が私にはなかった。

「俺の名は、川上かわかみ冬哉とうや

 彼は私が森の中に座り込んでいることに、なんの疑問もない様子だった。

 どういうことなのだろうと思う反面、その堂々たる振る舞いが私を少しだけ安心させた。

「私は、春崎はるさき杏里あんりです」

 冬哉は「杏里さんか」と、私に手を差し出した。私は特にためらうことなく、その手をとった。彼の手はしっかりと厚みがあり、私はその腕力だけで立ち上げられてしまった。

「言葉が通じるようで安心した。急に呼び出して悪いと思うが、これもなにかの縁だ。あきらめて、俺に協力して欲しい」

 冬哉の発する声には、嘘や迷いが含まれていなかった。

「状況が飲み込めないんですけど。私はあなたに呼び出されたから、ここにいるんですか。私はさっきまで、根津ねずの祖母の家にいたんです」

 冬哉は「へぇ」と表情を明るくした。

「根津にいたのか。聞き馴染みのある地名が出てくると安心するな。俺のことは冬哉と呼んでくれていい。敬語も不要だ」

 冬哉は根津という地名に反応しただけで、の質問には答えてくれなかった。

「あの、ここは?」

「江戸城の半蔵門はんぞうもん近くといえばわかるか?」

 正確な場所はわからないが、東京に半蔵門という駅があることは知っている。そのため私は、曖昧にうなずいた。

「俺は少し乱暴な方法で、未来から人間を転移させる術を使ったんだ。だから杏里さんがさっきいったように、俺に呼び出されてここに来たという認識で間違いはない」

 私は冬哉の言葉を頭の中で反芻させた。

「未来から私を転移させたなら、私にとってここは過去?」

「そうなるはずだ。今は安政あんせい七年の二月二十七日だ」

 安政七年ということは、西暦一八六〇年である。

 その変換をしたことで、私は少し冷静になった。私はつい数時間前まで、二次試験で日本史の問題を問いていたので、使い慣れた部分の脳を動かしたせいだろう。

「え、安政七年?」

 冷静になった後で、私は改めて驚いた。

「安政七年だ」

 冬哉は肯定した。

 祖母の家から、強制的にどこぞの森に移動させられただけでも充分に驚いていいはずである。しかし私は時間さえも移動して、ここにいるらしい。

 混乱した頭でも、冬哉の声にはやはり嘘が混じっていなかった。

「杏里さんは、どれくらい未来からきたんだ?」

 冬哉は私の格好をじっと見つめた。

「今が安政七年なら、約百六十年後の未来からきたことになると思う」

「百六十年後か。それほど遠い未来でなくて安心した」

 他人の時間の感覚とは、まったくもって謎である。そもそも学問によっては、人類が誕生した時代を「最近」ともいうらしい。そんなどうでもいいことを思い出すほどには、私はまだ混乱の中にいた。

「私は、元の世界には戻れるの?」

「戻れる。むしろ、この世界にいられる時間は、長くて五日だ。とりあえず、場所を変えよう。ここは冷える」

 冬哉はそういうと、私の手をとったまま森の中を歩き始めた。

 この世界にいるのが長くて五日ならば、高校の卒業式にも、大学の合格発表にも充分に間に合うはずである。

しかしすぐに思い直した。

「私のいた世界では、十七才はまだ大人の保護下にある年齢なの。だから一日でも帰らないと、面倒なことになるかも」

「杏里さんは十七なのか」

 冬哉はどうでもいい部分に反応した。

「うん。三月生まれの十七才」

 私もどうでもいい個人情報を告げた。

「俺は十九だ」

 しっかりしている印象を受けたので二十代かと思っていたが、年齢はそれほど変わらないらしい。

「杏里さんが百六十年後の未来からきたなら、こちらの一日は未来では、半刻未満のはずだ。それなら、大きな問題はないだろ」

 どんな計算なのかは不明であるが、それを問うたところで納得できるとも思えなかった。

 半刻とは一時間程度だったはずである。つまり私のいた世界の時間に換算すると、長くても五時間ほどで帰れるらしい。しかし五時間であっても、祖母が心配するのは明白である。

「大きな問題は、ないかも知れない。でも、できれば早く帰りたい。私にできることであれば協力したいとは思うけど、できることは少ないと思う」

 暗闇に目が慣れたせいか、周囲にはぽつぽつと小さな灯りが見えていた。それはここに根をはって生きている人々の灯りのようだった。

「俺は転移術を使う際に、自分の力になってくれる者を、と強く願ったんだ。杏里さんは絶対に俺の役に立ってくれるはずだ」

 冬哉はきっぱりといった。

井伊いい直弼なおすけという人物を知っているだろ。あの人はきっと、歴史に名が残っているはずだ」

 井伊直弼。

 日本史を選択していなくても、その名は知っている者が多いだろう。

「第十六代の彦根藩主で、今は将軍補佐の大老たいろう

 私はいった。

「直弼さんが何代目かは知らないけど、たぶんそうなんだろうな」

 冬哉は他人事のようにいった。

「杏里さんにこの時代に来てもらったのは、井伊直弼の暗殺を阻止して欲しいからなんだ。それに協力してほしい」

 冬哉はきっぱりといった。

「それと、こちらばかり要求して悪いが、必要以上に未来の話はしないで欲しい。この時代よりも過去のこと。そして杏里さんが生きた十七年のこと以外を話されると、面倒なことになる可能性がある」

「面倒なこと?」

「杏里さんが、元の世界に帰れなくなる可能性がある」

 さらりと怖いことをいわれた。

 その可能性があるのなら、絶対に話すなと強くいって欲しいものである。

「わかった。話さない」

 冬哉は「助かる」と短くいった。


 井伊直弼の暗殺を阻止するということは、桜田門外さくらだもんがいの変を回避することと同義である。

 安政七年三月三日。井伊直弼は、水戸浪士らの襲撃によって殺された。

 それを阻止することはできるのか。

 逡巡しゅんじゅんした後で、おそらく無理だろうと結論がでた。

「冬哉は井伊直弼とは、どんな関係なの」

 川上冬哉という名は、日本史では聞いたことがなかった。

「どんな関係といわれると、難しいな」

 容姿端麗な青年なので、そういうこともあるのだろう。

私は「わかった」と小さくいった。

「待て、待て。絶対にわかっていないと思う」

「知識としては、頭に入ってる」

「どんな知識か知らないが、たぶんちがう。俺は直弼さんに贔屓ひいきにされている見鬼けんきというだけだ」

「ケンキ?」

「周囲には、インチキ陰陽師おんみょうじとでも思われているかも知れない」

 陰陽寮おんようりょうは明治時代までは存在していたはずなので、そちらの方が聞き馴染みのある言葉であった。

「ケンキという言葉に聞き馴染みがないんだけど。職業?」

「職業ではない。見鬼は、鬼や妖怪、そして神様の類が見える体質の者のことだ。一昔前は、妖将官ようしょうかんという見鬼にしか務まらない職業もあったらしい」

 見鬼という体質は理解できたが、妖将官とは初めて聞く単語であった。

「杏里さんも見鬼だろ」

 冬哉は当然のようにいった。

「私は、そういう体質ではないと思う」

「でも杏里さんは、さっきの妖怪たちが見えていただろ」

 さっきの妖怪といわれて、思い当たるものは一つしかなかった。

「狐面の子ども?」

「そうだ。あれらは見鬼以外には見えない」

「え、初めてみた」

 私は間抜けな感想を述べた。


 もしかしたら私の耳の良さは、見鬼という体質に由来していたのだろうか。

 私が小学校の校庭で天狗をみたのは、もしかしたら現実だったのだろうか。


 そう考えた後で、あれから十年経ったのだなと思った。






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