第十四章【ねむってる】三月三日
◆
色んなことが目まぐるしく過ぎていき、私はなにもできなかった。
博為翁の顔色が元に戻ると、冬哉の顔は真っ白になっていた。
「なんて馬鹿なことを」
博為翁は嘆くようにいった。
「俺は、半刻もせずに眠りにつくんだな」
冬哉の言葉に、太郎坊はうなずいた。
「杏里さん、見送りができなくてすまないな。でも、転移術は成功するはずだ」
「そんなことより、今からでも、冬哉が助かる方法はないの?」
私は冬哉が伸ばした手を握っていった。
「転移術か。冬哉、お前を過去に転移させてみよう。過去であれば、この大鯰をどうにかできる者がいるかも知れない。無理にとはいわないが、私もお前を助けたい」
博為翁はいった。
「過去なら、その可能性はあるだろうな。打てる手があるなら、試してみよう」
冬哉はいった。
それから博為翁は本を片手に、庭に陣を書き始めた。
「私にできることはありますか? 髪の毛とか、そういうものなら、いくらでも提供します」
「杏里さんも見鬼でしたね。では、髪の毛を少しだけ」
私は博為翁から刃物を借りて、髪の毛を束にして切り落とした。
桜田門外の変の直後に、大きな地震は起きていない。
つまり大鯰よる大地震は起きていない。しかしそこに冬哉という犠牲があったのかは、誰にもわからないことだった。
陣が完成すると、私は冬哉に肩を貸して陣の中へと入った。
「これで転移できるはずだ。しかし、お前の今の状態は通常ではない。無理はするな」
「わかってる。無理ができるような体力もなさそうだ」
冬哉はそういうと、私を見つめて「ちょっと、いってくる」といった。
「生きて、帰ってきて」
私がいうと、冬哉は浅くうなずいた。
陣が発光すると、その中にいた冬哉は音もなく消えてしまった。
◇
冬哉は、陣の中で消えた。
しかしそれも一瞬のことで、冬哉はすぐに陣の中に戻ってきた。
顔色は悪いままで、大鯰から解放された気配はなかった。
私は冬哉に駆け寄り、倒れ込む彼を支えた。
「転移は、できなかったか」
博為翁は絶望したようにいった。
「いや、転移はできたはずだ。でも、俺の今の体力では時間に逆らうことはできなかった。おそらく未来に転移した」
冬哉は力なくいった。
「俺は、少しばかり眠らせてもらう」
冬哉はそういうと、私の顔を見つめた。
「あと数時間だけでも、側にいたかった」
それは私も同じ気持ちだった。
しかし私がなにもいえないままで、彼はふっつりと意識を手放してしまった。
◇
「冬哉はこのまま、目覚めないんでしょうか」
私と博為翁は、目覚めない眠りについた冬哉を布団に寝かせた。
冬哉の顔を見つめて、私はいった。
「大鯰の衝動が消えるのは、百年は必要だ。冬哉の寿命のすべてを使っても、大鯰の威力は半減する程度だと思う」
太郎坊はいった。
「半減か。それでも充分な功績といえるでしょう」
博為翁は力なくいった。
私にとって冬哉は、ずっと以前に死んでいる過去の人間であった。それでも彼に、こんな形で人生を終わらせてほしくはなかった。
冬哉にはあと何十年か、生きる時間があったはずだった。
「冬哉の体は浮島家が、責任を持ってお守りします。太郎坊神社の社殿に、冬哉を祀ろうと思います」
博為翁が太郎坊を見つめると、太郎坊は「問題ない」と即答した。
太郎坊はあと何年いきるのだろうか。
そう思った後で、いつかの冬哉の言葉を思い出した。
――トトはあと五百年は生きると思う
――トトの時間も止まっていたのか
私は咄嗟に、冬哉の袖を探った。
そこには、想像した通り懐中時計があった。
「その時計は、私が冬哉にあげた呪具ですね」
博為翁はいった。
「この時計はもう止まっているんですけど、これと冬哉を連動させたら、冬哉の時間も止まるんじゃないでしょうか」
博為翁はしばし思考した後で「そうですね」と口を開いた。
「止まると思います」
「冬哉が大鯰を抑え込んでいる間、体の成長を止めていても問題はないですか?」
私は太郎坊に聞いた。
「問題ない。大鯰を抑え込む人柱が必要なだけだからな」
「それなら大鯰を抑え込んだあとで、冬哉は残りの寿命をまっとうできるんじゃないでしょうか」
私がいうと、博為翁はうなずいた。
「今から百年後、彼を起こすようにと子孫たちに伝えます。連動の解除方法を書き記して、冬哉の側に置くようにしましょう」
そして博為翁は、冬哉と懐中時計をつなげる術を発動させた。
私にはもう、冬哉が目覚めることを祈ることしかできなかった。
それから私は博為翁を、松成を預けた医家に案内した。
医師は「助かるかも知れない」と、松成を預かってくれたが未だに予断を許さない状況であるようだった。
◆
博為翁と別れた後、私は平河神社へと戻り、宮司さんに冬哉の現状を伝えた。彼は「そうですか。明日にでも、様子を見にいってみます」と静かにいった。そして私に、励ますような言葉を掛けてくれた。私は数日間お世話になったお礼をいって、彼と別れた。
それから私は現代へと帰るべく、冬哉の平屋で制服に着替えた。当たり前であるが、冬哉の平屋には私の持ち物は着替えと、あやとりしかなかった。
私は世話になったせめてもの礼として、平屋の中をできるだけきれいにした。
ここにはもう、誰も帰ってこない。
あの幸せだった空間は、もう消えてしまった。
畳を乾拭きしながら、その片鱗を探してみたが、そこには幸せな過去があるだけだった。
なにもできなかった自分が無力で、悔しくて、涙が溢れた。
ボォン。
無心で掃除をしているうちに、暮れ六つの鐘が鳴った。
今まで聞いた中で、一番澄んでいる音だった。
これが本来の鐘の音なのだろう。
私は平屋をあとにして、冬哉が書いてくれた陣の方へと向かった。
私はこの世界を去っていく。冬哉を置き去りにさっていく。
そのどうしようもない事実が悲しくて、歩きながら「うわぁあああ」と、子どものように声を上げて泣いた。
「ないてる?」
泣きながら歩く私に、トトが近寄ってきた。
「トト」
私は足元にいたトトを抱きしめた。
そうしている間にも、暮れ六つの鐘は鳴り響いた。
「あのね、トト。冬哉は、太郎坊神社で、眠ってるの。時々、顔を、見せてあげてくれると、うれしい」
私は嗚咽まじりにいった。
「ねむってる?」
「そう。長い眠りについたの。でもね、きっと起きるから。その時に、トトがいてくれたら、冬哉も心強いと思う。太郎坊神社には見鬼がいるし、あとたぶん、太郎坊もよくしてくれると思う」
私はそういって、腕に抱いたトトをおろして陣の中へと入った。
「あそぼ?」
トトは自分を地面に置いた私が理解できないという顔で、こちらを見つめた。
「百六十年後、また遊んでね」
「今は?」
トトはそういって、こちらに近づく素振りをみせた。
陣の中にトトがいても問題はないかも知れない。しかし問題がある可能性もゼロではないので、私はそれを制した。
「ごめんね。今はダメなの。この中は入っちゃダメだよ、危険だから」
私がトトの頭を撫でると、トトはゆっくりと目を細めた。
陣が発光したので、私は静かにその手を離した。
そしてほどなく、目を開けていられないほどの光が私を包んだ。