第十三章【少しばかり】三月三日
◆太郎坊◆
浮島一恵が見鬼になったのは、十才の頃だった。
博為と目の共有をして、見鬼になったらしい。
太郎坊の姿が見えるようになると、一恵はひどく喜んだ。その喜ぶ姿をみて、太郎坊もうれしく思ったものである。
一恵が絵を習い始めると、太郎坊の絵をよく描いた。
彼は何枚も何枚も、太郎坊の絵を描いた。
そしていつしか太郎坊の一部が、一恵の絵に宿るようになった。太郎坊は以前よりも力を持つようになった。絵を描かれるというのは、そういうことらしい。太郎坊はそれについて、深く考えることはなかった。
しかし一恵がその事実を知ると、太郎坊を描くことはなくなった。
その変わりに、一恵は絵の仕事をたくさん受けるようになった。そして一恵が絵の仕事を受けるごとに、博為との仲は悪くなっているようだった。
それでも一恵は、絵を描き続けた。
黒船と呼ばれる大きな船が来た頃、一恵はさらに人間が喜ぶ絵を描いた。
そして一恵の周りには、色んな人間が集まるようになった。
一恵が見鬼と知ると「見鬼にしか扱えないから」と、本を献上する者も現れた。一恵はそれらの本を呼んで、知識をつけた。
知らなかった術もたくさん扱えるようになった。
「太郎坊、私は目を病んでしまった。そのうち失明するらしい」
一恵はある日、気落ちした様子で太郎坊にいった。
「幼くして目の共有などしたせいかもな。絵が描けない自分に価値はないし、ほどなく投獄もされるだろう。だから私はその前に、ある術を仕込んでおくことにした」
「どんな術だ?」
太郎坊は聞いた。
「水戸にいる大鯰を知っているか? 鯰絵が流行した頃、その大鯰の半身のようなものが、顕現してしまったのだと水戸の者から聞いたことがある」
絵には力が宿る。
太郎坊はそれを身を持って知っていたので、そういうこともあるだろうと思った。
「本物の大鯰ならともかく、人間によって顕現した大鯰なら、私の命と、同志たちの血を代償にすれば、江戸に呼び出すことができるかも知れない」
「大鯰を呼び出すために、一恵が死ぬのか?」
「人の寿命は長くないし、失明した後で長く生きられる病でもないらしいからな。私の命は、井伊直弼にひと泡吹かせるために使うことにするよ。私が術を発動させずとも、私が死ねばその術は勝手に発動するようにしておくつもりだ」
太郎坊はそんなことができるのかわからなかったが、一恵はできると思っているようなので、できるのだろうと思った。
「術を仕込んだ時点で、大鯰は鐘の音に導かれて江戸城の真下へ向かって来るはずだ。そして術を発動させれば、江戸城は瓦解する。術を発動させる時は、家族には江戸を離れるようにいうつもりだ。しかし私が拷問の途中か、処刑で死んだ際には、太郎坊の口から逃げるようにいってくれないか。もし下法の痕跡でも見つかったら、迷惑をかけてしまう」
「わかった」
太郎坊は一恵の言葉に力強くうなずいた。
太郎坊は必ずしも、人間の約束を守る性格ではなかった。しかし一恵が描いた絵には、力が宿っていた。だからこそ、一恵との約束は守らずにはいられないと思った。
「助かるよ」
一恵は幼い頃のように微笑んだ。
「太郎坊。私は、お前が見えた時が何よりうれしかったよ。お前を描いている頃が、本当に楽しかった」
そんな会話をしてほどなく、一恵は投獄された。
一恵が投獄された後、神社には一恵と志を同じくする者が参拝に来るようになった。一恵が同志を募ったのか、その噂を聞きつけたのかはわからない。
ただ強い念で「自分の命も代償に使ってほしい」と、拝殿で願っていた。
太郎坊は太郎坊神社の神様であったが、願いを叶える力などなかった。ただ人間の願いを知ることだけはできた。
ほどなく一匹のカワウソが神社に居座るようになった。水戸からきた者が、同志の見鬼を探しているとのことだった。それはおそらく、一恵のことだった。
一恵は投獄されたわけであるが、処分が決まれば帰ってくるかも知れないともいっていたので「そのうち現れるかも知れない」とカワウソに伝えた。
その頃から、鐘が鳴るごとに大鯰がゆったりと江戸にやってくる気配があった。
一恵は宣言した通り、投獄される前に、術を仕込み終えていたようである。
そしてそれが正常に機能し、大鯰がいよいよ江戸に近づいているようだった。
大鯰はゆっくりと、そして確実に近づいてきていた。
そして今朝、一恵は死んだ。
首を斬られて死んでしまった。
大鯰が暴れ出す。
太郎坊は一恵の約束通りに、博為に逃げるように伝えた。
困惑する博為に、太郎坊は自分の記憶を共有した。
その後で博為は自分を人柱にして、大鯰の抑える術を発動させた。
◆
博為は術を発動させると、そのままその場に倒れ込んでしまった。
それは人間一人の身にはあまるものだったので、当然の結果であった。
それからほどなく、冬哉ともう一人が博為の元へとやってきた。もう一人はこの世界の人間ではないようだった。いわば、異物だった。
「じいさん! 大丈夫か!」
離れの中でぐったりと倒れている博為に、冬哉は駆け寄った。
「太郎坊。じいさんに、なにがあった」
博為の呼吸は浅く、その顔色は真っ青だった。
「博為は、大鯰を抑え込むために人柱になった。このままなら、半刻もせずに眠りにつくと思う。そして寿命が来るまで、起きることはないだろう」
太郎坊はいった。
「私の、罪だ」
博為は小さな声でいった。
「どういうことだ」
その問いに博為翁は答えなかった。
声を出すのも辛いのだろう。
「太郎坊。知ってることがあれば、教えて欲しい」
断る理由もなかったので、太郎坊は記憶を共有することにした。
「手を出してくれ」
太郎坊がいうと、冬哉は素直に手を出した。そして冬哉にうながされて、もう一人も手を出した。
二人の手を取ると、太郎坊はその記憶を共有した。
記憶を共有した二人の表情は、先ほど以上に暗いものになっていた。
「私が、目の共有などと、傲慢なことをしたばかりに、一恵も、松成も、こんなことになってしまった」
博為は懺悔するようにいった。
「過ぎたことの話はいい。じいさんが大鯰を抑えなければ、どれほどの被害になるんだ」
冬哉は太郎坊をみた。
「少なくとも、五年前よりはひどいことになる」
太郎坊はいった。
五年前の地震も、実にひどいものであった。
「そんな地震を、じいさん一人の寿命で抑え込めるとは思わない。人柱は、寿命が長い子どもの方がいいんだろ」
冬哉はいった。
「それでも、少しでも威力が削がれるなら、僥倖だ。冬哉、お前は逃げろ。一恵の術は、江戸城だけで収まるほどに、緻密なものでは、ないはずだ」
「俺が身代わりになる。じいさんの寿命よりは長いはずだ」
冬哉はそういうと、人差し指と中指を立てた。
「馬鹿な、やめろ!」
「俺は本来なら、赤子のまま死んでいたはずだ。浮島家には恩がある。じいさんは、松成を待っていてやってくれ」
冬哉はそういうと大鯰を、博為から自分の身へと移す術を施した。
それはとても見事な術であった。
一恵の最期の願いは叶わない。
その術をみて、太郎坊はそう思った。