31 覚悟の決め方
一時間のカラオケの後、俺たちは桜井家に訪れていた。
見た目は全く何も変わっていない。
それもそのはずだ。前回来たのはほんの数日前なのだから。けれど、何故かとても久しぶりに来た気がした。
桜井はとても晴々としたとした様子で玄関のドアを開けた。
「ふー。久しぶりの我が家か」
「……そ、そうか」
「……なんか久しぶりに感じるな」
おお有野。お前もそう思っていたか。
後ろから続けて入る二人は、とてもほっそりとしていて、まるでプライドも何もかも傷つけられたように、今にも倒れそうに歩いていた。
「ああ。カラオケなんてするもんじゃないな……」
「提案した僕がバカだったよ……」
「いや、それに賛成した俺もアホだった」
「お互い様だね」
「ああ」
長原さんとカラオケには絶対に行かないようにしよう。いや、長原さんは優しいしこんなふうにはならないかな……。
不安に思いながら歩いていると、前を歩く桜井が振り向く。
「何をゆっくり歩いている。時間がないんだぞ」
「分かってる」
落ち込む心に鞭を打ち、何も考えないようにしながら有野と歩みを進めた。
するとすぐ玄関先に、結構久しぶりに顔を見る女の子がいた。
「あれ、もしかしてお姉ちゃん? それに杉田さんですか?」
「あれ、僕は?」
「久しぶりだな。刻」
「あんまり帰らないから心配したよ」
そう言いながらも、刻はどこか嬉しそうにしていた。
それから俺たちの方にも近づいてきた。
「お久しぶりです。杉田さんたち」
「たち?! 酷くない?!」
流石の有野も俺の足に絡み付いて泣き出した。
まあいつものことだが。
「あ、えっと、」
「有吉だ」
俺が何も考えず適当に答えてやった。
すると刻は本当に覚えていなかったのか、何も疑わずにその名前を受け入れる。
「あ、有吉さん」
「有野だよ!」
有野が訂正したところで間髪入れずに口を挟む。
「実はYOSHINOだ」
「あ、YOSHINOさんっ」
「だから有野だよ!! なんでちょっとローマ字表記で言うんだよ!」
よく声だけで見破ったものだ。
「っと、そんなことはどうでも良いな。それより桜井。刻さんに説明してやってくれ」
「お前たちが勝手に話をごちゃごちゃにさせただけで、私は初めからそのつもりだった」
文句を垂れながらも、桜井はとりあえず刻に今日はこいつらを泊まらせてほしいと伝えた。
詳細を伝えなかったのはきっと、自分の妹を巻き込みたくないからだろう。それに、話したって理解し難いことだからな。
「わかった。それで、夕ご飯はもう食べたの?」
「いや、これから食べるところだ」
「ならすぐ人数分準備するね」
刻はどこか楽しそうに廊下を歩いて行った。
そっちの方向に何があるかはもはや分からないが、多分キッチンがあるんだろうな。
「さて、有野お前の部屋は前回と同様あの倉庫でいいな?」
「なんでだよ!」
「他にどこがある」
「………」
家主には逆らえない。
有野は悔しさをグッと堪えながら、ただ黙るしかなかった。
哀れなものだ。
有野は叫びながらどこかに向かって走って行った。
「あいつ、どこに向かって行ったんだ?」
「さあな。知ったことではない。それよりも準備をしなくてはならない」
そういえば今回この家に来た理由は、ここで武器を調達することだったな。
桜井はいそいそと作業場のある地下室に向かっていった。
一人取り残された俺は、ただぼーっとしているわけにもいかず、桜井を追いかけることにした。
「しっかし、地下室ってどこだっけ」
一度来ただけの広い家。全く家の構造を理解していないので、地下室の場所など忘れた。
仕方なく家の中を彷徨っていると、何やらいい匂いがしてきた。
「あれ、この匂いは……カレーか?」
この鼻を刺激するスパイスの香り。これはまさしくカレーだ。
どうやら近くにキッチンがあるらしい。それなら刻さんに地下室の場所を聞くとしよう。
廊下を抜けると、やはりそこはキッチンだった。
そこでは刻さんが予想通りカレーを作っていた。
「あれ、杉田さん。どうかしましたか?」
「ああ。今地下室を探しているんだが、一向に見つからなくてな。どこにあるか教えてくれないか?」
素直にそう尋ねると、えっと、地下室でしたら、と呟き、
「そこの通路を曲がって、そこからまた曲がり、少し歩いたらまた曲がって、そこから奥に行きましたら地下室の入り口がありますよ」
「いや、わからん」
なんだ? もしかして刻さんって説明が下手なのか? せめて右折か左折くらいは分けてほしいものだ。
「せっかく説明をしてくれて悪いが、もう一度、右折と左折を分けて頼む」
「えーっとですね、まず通路を左折して──って、カレーがっ!」
見ればカレーはめちゃくちゃ沸騰しており、コンロやら服やらにカレーが飛びまくっていた。
「わわわっ」
「うわっ、カレーはまずいぞ……」
すぐにウェットティッシュで服を拭うが、さすがカレーと言ったところか。全く汚れは落ちなかった。
ま、まずいぞ。こんな高そうな服に俺はなんと言うことを……。俺が無礼にも話を続けていなければこんなことには……。
「す、すみません。弁償するのでどうか命までは……」
俺はすぐに頭を下げ、今できる精一杯の誠意を見せる。
あ、有金全てを差し出すべきだろうか……。
「ど、どうしてそんな話に!?」
「すぐに俺が洗って落とすので! どうかご慈悲を!」
「だからどうしてですか!」
このままでは多額の賠償金を請求されてしまうと焦った俺は、何を血迷ったのか刻さんのカレーが飛び立った服を持ち、サッと上に上げ脱がそうとした。
本人は至って真剣なのだ。すぐにでも洗い流さなければならないと思っているのだから。だが──。
「わわわっ。ちょっ」
恥ずかしがって止めようとする刻さんの慌てた声。
お腹が見え、下着が少し見え始めたところで全てに終止符が打たれた。
「何をしている。お前たちは」
とても冷たい冷静な声が俺の鼓膜を揺らした。
焦っていた俺は、ここで初めて冷静さを取り戻した。
そしてその瞬間に舞い降りる、絶望の予感。全てはもはや遅い。
「……あ、あの……」
「何をしているんだと、私は問いかけたんだ。日本語が分からないのか?」
「……い、いえ。わかります」
「それなら答えろ」
「か、」
「か?」
ここでカレーの事を言って信じてもらえるのか? いや、そもそも言ったところで俺の行動自体がおかしすぎる。話しても無駄だ……。
刻さんも嫌がってたし……終わりだ。
「か、かつて無いほどの無礼をすみませんでした!」
頭を下げ、全力で謝る俺に対して無慈悲にテーザー銃を向ける桜井。
そんな暴走状態の桜井を前にして、刻さんは叫んだ。
「ちょっと待ってくださいっ。杉田さんはこの服のシミをすぐにでも落とそうとして……だから、仕方なかったんです!」
すぐに冷静さを取り戻す桜井。
狼狽えながらも、それは本当なのかと問いかける。
「本当だよ。だから落ち着いて」
「すまない。どうやら誤解していたようだ」
「いや、こっちもすまない。いきなり自分の妹が服を脱がされていたら焦るよな」
「本当だぞ。もっと気をつけろ」
「お前もな」
認めたくはないようだったが、桜井は鼻を鳴らして再び廊下に向かって行った。
そうか。トイレに行く途中だったのか。
もしかしたら向こうも焦っていたのかもしれない。
「さて、じゃあ俺ら服のしみをとらなきゃな」
「は、本当にいいんですか?」
「このくらいしかできる事はないからな。させてくれ。つったってこれだって自分で増やした仕事みたいなものだけど」
「そうですね」
フフッと軽く笑い、刻さんはちょっと待っていてくださいと一言言ってどこかに向かって行った。
服を変えてくるのだろう。
そういえば特に悪意も不気味さもない笑い声を聞いたのは、長原さん以来かもしれない。
ちょっと久しぶりだった。と、そんなことを聞かれたら終わりだな。
それから服を受け取り、めちゃくちゃ動揺しながらも何とか洗い終え、責任を果たすことができた。
その後はすぐに食事が始まり、例の超豪華露天風呂に浸かるとすぐに夜中になった。
俺も桜井と有野の手伝いをしようと思ったのだが、機械に関しては本当に無知なので邪魔しないほうがいいと結論付き、特に干渉することなく終わった。
羽毛布団に入り、しばらくボーッと長原さんのことを考えていたが、それが原因なのか、眠気は消え失せてしまった。
そこで、ふと思い立ちベッドから降り、上着を羽織って玄関を開けた。
「はーっ。結構寒いな……」
出した息は白くなり、気霜となって出てくる。
空を見上げると田舎だからか、とても綺麗な星々が俺の視界に映った。
「寒いなんて、当たり前だろ」
「桜井か」
「一人で出ては危険だろう」
確かにな。
桜井を一瞥し、すぐにまた夜空に視線を向ける。
この満天の星々を長原さんと落ち着いて見ることも出来なかったな……。
わざとらしく、俺は大きく白い息吐いた。
「一つ、聞いて良いか?」
音のほとんどない静かな場所で、桜井は真剣な眼差しで俺を見た。
「こんな事を聞くのはおかしな事だと分かっている。軽蔑されるかもしれない。けれど、私は聞きたい」
桜井の言う言葉は、ほんの少し震えている気がした。
だからただ一言返す。
「なんだ?」
「お前は、なぜ長原楓那を助ける?」
それは本当に予想外の問いであった。
それを聞いた瞬間、ほんの一瞬考え込んでしまう。けれど、何かを言おうとしたところで桜井が話を続ける。
「多分、今逃げれば平和な生活は戻ってくる。そうは思わないか?」
「……そうだな。岩沼もそれを一つの選択肢に入れてるんだろう」
「だったら……」
「けど、何だろうな」
空に向けていた視線を、今度は桜井の瞳に向ける。
彼女はとても真剣だった。
「俺は──多分、長原さんが好きなんだ。だから助けたい」
「………そう、だろうな」
弱々しい声が鼓膜を振るわせる。
彼女は真剣な表情ながらも、秀愛漂うものを感じた。
「お前の気持ちはわかった。だったらもう後は進むだけだ」
「……ああ」
それは、もはや今の俺にはもうどうしようもないものだった。
だから、ただ一言。誰も居なくなった玄関に向けて「ごめん」と囁いた。
ただ後悔だけはしないようにと、心の中で覚悟を決めた。




