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28 ふたつの駒

 二人の人質を連れて、俺たちはそのまま帰ろうとしたのだが、突然、隣からぐ〜という間抜けな音が聞こえてきた。

 緊張していた俺は、思わずその音のなった方を見る。


「お前なぁ。もっと緊張感持てよ……」

「だってしょうがないでしょ。何もしていなくても腹は減るんだから」


 俺は携帯を取り出し時計を見た。

 時刻はちょうど昼間を回ったところと言ったところだ。

 確かにこの時間なら腹の虫が鳴ってもおかしくはないか。

 ここは一旦、運転中の長原さんに相談を持ちかけると、


「そうですね。確かに私もそろそろお腹が空いてきたところでした。でも……」


 長原さんは両手両足を縛られ、口を塞がれた二人の男を見る。

 この二人を置いたまま食事に行くと言うのは、少々リスクを感じる。

 どうしたものかと悩んでいると、名案を思いついたかのように桜井が「なら」と言い、続けて、


「有野を監視につけて、私たちは先に食事を済ませてくると言うのはどうだろうか」

「お、いいんじゃないか?」

「何でだよ! 僕が一番食べたいんだよ!」

「大丈夫だ。人は一食抜いた程度じゃ死なない」


 この流れを壊すまいと、俺も横から笑顔でフォローを入れた。


「そういう問題じゃないでしょっ。それに、車で待機させるなら僕以外だって出来るじゃないか!」

「いや、俺と桜井と長原さんは全員空腹で死にそうなんだ」

「あんた鬼か! それに、さっき一食抜いた程度じゃ死なないって!」

「実は俺たちもう何日も断食してんだ」

「そんな嘘が通じるか」


 ダメか。まあ冗談だが。


「あの……私は別に見張りをしていてもいいですよ?」


 馬鹿みたいな会話を運転しながら聞いていた長原さんだが、ちょうど信号に捕まったところで顔を向けずに話に入ってきた。


「ほらな! 長原さんがいいって言ってんだから僕は食べさせてもらうぞっ」

「わかったわかった」


 シートから身を乗り出して鼻を鳴らす有野を、軽くあしらいながらふと二人の人質を見てみると、何か言いたげな目で俺たちを見ていた。

 すまん。あんた達の気持ちはわかるぞ。すまん。人質になってこんなあほあほ会話を聞かされるなんて、思っても見なかっただろうに。

 二人の男に同情しながら、ただ無言で店に着くのを待った。



***



 結局長原さんが先に見張りをして、その後俺たちが食べ終えて車に戻ってきてから交代して俺たちが今度は見張をする。その間に長原さんが食べるということで丸く収まった。

 そして昼食を食べ終えた俺たちは、ちょうど見張をしながら長原さんを待っているところだった。


「暇だなぁ〜」

「呑気なやつだな。そんなこと言ってたら一瞬で殺されるぞ」

「だーって暇なもんは仕方ないでしょ」


 確かにそれは仕方ないが、まだ交代してから五分しか経ってないからな?

 とても暇そうにシートを倒して寝転がっている有野だったが、何か思いついたのか、いきなりそのシートを直角にし、ずっと黙ったままの人質二人に目を向けた。


「ねえ君たちさ、えーっと、名前なんだっけ。あの上司……」

「岩沼だ」

「あ、そうそうその岩沼って人。その人ってどんな人なのさ」


 きっと有野は興味本位で訊いたのだろう。俺は全く話してくれるとは思っていなかったが、意外にも人質の一人、まだ喋るほうの人が何やら口を動かし始めた。


「ぐぬぁぬあなうぬなぬうぐなぬうなぬ」

「あ、ガムテープ付けたままだった」


 馬鹿かお前。そしてなんでこの人も普通に話そうとしたんだよ。

 有野は軽く、ごめんごめんと謝りながらガムテープを勢いよく引っ剥がす。


「ぐぅぁっ!」


 大の大人が声を上げないよう、必死に抑えたが抑えきれなかった声が響き渡る。


「お前そうやって遊んでるんだろそうだろ」

「いや違うって」


 勢いよく引っ剥がされた男の口周りは赤く腫れ上がり、ヒリヒリとしていた。

 若干涙目になっている気もするし……。今度有野が寝てる隙にやってみるか。

 男は一瞬変な声を上げてしまったものの、すぐに真剣な顔になり俺たちに顔を向けた。


「あの人のことは俺は詳しくは知らない」


 ………え、それだけ?

 あの痛みを食らってまでして語る言葉がそれだけか。いや、あの痛みは有野のせいだけど。

 その当の有野はふーん。と呟くと、更に聞き込みを続けた。


「え、じゃあどういう人かってのも知らないわけ?」

「ほとんど話さないからな。なんせ俺らは下っ端。情報なんて回ってこねぇよ」


 なるほど。確かにあの人はあまり人にあれこれ話すようなタイプには見えない。

 参ったな。これでは奴の弱点だったり、秘密だったりを聞き出すことも出来ないじゃないか。

 半ば諦めかけている俺だが、有野は根気強く聞き込みを続ける。


「それ、本当なわけ? 嘘言ってじゃないの?」

「確かに俺が嘘を言っていない証拠はない。だが、逆に嘘を言っている証拠もない」

「ぐっ。も、もしかして頭いい?」


 お前より頭の悪い奴を俺は知らない。

 本当によくこいつが飛行装置なんてものを作れたものだ。


「あ? お前のほうこそどうなんだよ。あんたの親玉。長原とか言ったやつは」

「え、あの人は──思い返せば色々あったと思うけど、色々ありすぎて忘れちゃったよ」

「………」


 ある意味こいつがこの中で最強かもしれない。

 この人質の男は計算して色々やっているのかもしれないが、この有野は素でこれだからな。


「って、よく考えればなんで有野がこっちの情報話しそうになってんだよ。誘導されてんじゃねぇよ」

「あ、そういえば危なかった!」


 危ない。縛られているとはいえ敵は敵だ。油断してはならない。

 と、今一度気を引き締めたところで車のドアが開き、長原さんが何やら袋を持って入ってきた。


「すみません。お待たせしました」

「いや、それよりその袋は?」

「これはこのお二人に。人質とはいえ同じ人間ですからね。空腹のまま放置するのは忍びないです」


 この人優しすぎないか? 有野と大違いじゃないか。

 今、何故かどこからか、勝手に比べるなと言われたような気がするが気のせいか。

 しかし、長原さんが買ってきたのはおにぎりにお茶。これではこの人たちの拘束を一旦解くということになるのだが……。


「長原さん。この人たちの拘束、解いても大丈夫なのか?」

「その点は心配ありません」


 なっ。ここまで自信満々に言うということは、まさか……。

 俺は、えっへんとでも言いたげな長原さんを、まじまじと見ながら呟いた。


「誰かが食べさせるんですね」

「ち、違いますっ。そうではなくて片腕だけ拘束を解き、我々がずっと銃を構えていればいいでしょう」

「ああ。それもそうか」


 まさかそこに一番初めに行き当たらないなんて。まあ多分一番驚いたのは食べる本人達だろうが。

 杉田の予想通り、これから食べる二人は目を細めて警戒していた。

 多分、この警戒はきっとこのおにぎりの中に、得体の知れない何かが入っているのではないかという警戒なんだろう。

 そんな二人を安心させる為、長原さんがすぐにフォローを入れる。


「いえ、大丈夫です。これはさっきそこのコンビニで買ってきたおにぎりですから。ほら、ここにレシートも」


 そう言ってほら。とレシートも見せる。確かにこれは今日の今さっきの時間だ。

 だがレシートを見てもなお食べようとしない二人を見かね、長原さんは更なる行動に出る。


「まだ信用できませんか? なら私が食べて、大丈夫であると証明します」


 そう言って淡々とおにぎりの包装を解き始めた。

 と、ここでやっと二人は動き出す。


「わかったわかったっ。ここまで言われればもう腹を括る。死んだって元々構わないしな。食べるよ」

「別に死にません……」


 長原さんは多少不満にしていたものの、食べてくれると言うのでそこは堪えたようだ。

 まず、一人目の片腕の拘束を解き、俺たちでおにぎりの包装を解いてやる。

 それから人質に持たせた。

 勝手に右腕を利き手と信じて解放したのだが、利き手は右で合っていたようだ。


「じゃあ、いただきます」

「お、有野より礼儀正しいじゃないか」

「一言余計だっ」


 怒鳴られる。

 有野は何も言わずにバクバク食べ出すからな。その点を見て、有野よりも育ちは良いのかもしれない。

 さて、人質は死ぬ覚悟は出来ているのかもしれないが、流石に怖いのだろう。恐る恐るおにぎりを口に運んだが、普通のおにぎりだと分かるとそのまま食べ進める、仕舞いにはご馳走様としっかりと言って食べ終えた。


「どうですか? 普通のおにぎりだったでしょう」

「まあ、ただのおにぎりだったな……」


 それから再び拘束をし、二人目の拘束を解き、食べ始める。

 二人目に関しては躊躇いなくさっさと食べ終えていた。


「確かに普通だ。だが、油断はできん。時間差があるのかもしれないしな」

「別にそんなことしません……」


 やはり心外なことを言われれば不満にも思う。

 だが相手が警戒するのもわかるので、あまり言うことはできなかった。

 昼食を食べ終えて仕舞えばここにとどまる理由はなくなる。

 ゴミを片付け俺たちは駐車場を後にした。

 それから特に何も問題は起きず、そのまま一旦拠点(旧長原さん宅)に帰ってきた。

 飛行装置はとりあえず、まだ完全に安全と決まったわけではないので一応つけておいた。

 人質たちを拘束しながら家に上げ、少し緊張が解けたところで有野が人質の二人を指差し、


「ねえ、この人たちはこの後どうすんのさ。まさかずっとここに置いておくわけにはいかないでしょ」


 確かに有野の言うことはもっともだ。

 長原さんだってそれは分かっている。考えなしでこんなことをしているわけではない。


「大丈夫です。そのあたりはしっかりと決めてあります。これから岩沼さんに交渉話を持ちかけようと思っています」


 交渉か。あんなにも頭の回転が早そうな人に通じるのかは分からないが、やってみる価値はあるか。

 そうと決まれば長原さんはすぐに携帯を取り出し、番号を打ち──始めなかった。


「……長原さん? どうかしました?」

「まさか番号知らないとか言わないよね」

「………」


 長原さんをじっと見つめる。が、何も言わなかった。

 ま、まさか図星?! あの有野に言われて言い返さないということは、やはりそうなのだろう。

 流石にこれには驚愕するほかなかった。

 口元に手を当て、絶句した。

 そんな俺たちの様子に気づいた長原さんは、すぐに俺たちの方に向き直る。


「そ、そんなに驚かないでくださいっ。私だって何でも出来るわけじゃないんですっ」


 そう拗ねるように言う長原さんの顔は、何とも可愛らしく──ぬおぉぉ! 何を考えている俺は!

 すぐさま首をブンブンと左右に振り、邪念を払う。


「何してんの? 杉田」

「なんでもない。しかし、となるとどうしたものか……」


 ここからどうやって敵の電話番号を入手したものかと考えようとしたのだが、ふと視界に人質二人が入った。

 ああ。この二人使えばいいじゃん。

 俺の視線に気づいたのだろう。人質の一人が何だよ。という目で見てくる。


「なあ、いい考えがあるんだが。普通にこの二人に聞けばいいだけの話じゃないか」

「うん。そりゃそうだよね」

「当たり前だな」

「そうですね」


 あれ? 意外と普通の反応。俺はものすごい考えを閃いてしまったくらいに思ってたんだが。でも、普通に考えればそりゃ当たり前だな。何のための人質だよ。

 なんかすごい閃きをしてしまったと勘違いしたのを悟られないよう、俺はなるべく自然にだよなと返した。


「けどどうやって聞き出すんだ?」

「そんなの簡単じゃん」


 有野が自信満々に言い出した。

 こういう時は大抵良くないが、俺は黙っておいた。


「人質の顔面に飛行装置のエンジンを近づけて、もし答えなきゃお前の顔がなくなるぜって脅せは一発さ」

「多分それやった瞬間、俺が飛んでくだけだぞ」

「それじゃ意味ないじゃん!」


 頭を抱えてうずくまる有野。

 つーか、それ以前に、


「んな残酷なことできるかよ! 俺が無理だわ!」

「そうですよ。有野さん。そんなことしてはいけません!」


 これには流石に長原さんの黙ってはいなかった。

 有野も長原さんに止められては、これ以上この案を押してくることはなかった。


「まあ僕も本気で言ってたわけじゃないからね?」

「そうあってくれ」


 しかし、長原さんの前で脅して聞き出すというのはあまりやりたくない。

 だが、そうなると案は一つしかないな……。


「お、杉田なんか思いついたのか?」

「まあな」


 俺はずっと立ち上がり、人質二人の前で正座し、二人の顔をじーっと見つめる。


「な、なんだよ」

「………」


 訳がわからず困惑している二人を無視して、俺はパッと頭を下げた。


「お願いです! 電話番号を教えてください!」

「はあっ?!」

「す、杉田?!」


 驚きのあまり声を上げる人質の一人。

 当たり前だ。なんたって人質である二人に向かって、俺は頭を下げてお願いをしているんだからな。

 普通は立場は逆だ。だが、脅しができないのなら手段はこれしかない!


「頼みます! どうか!」

「いや、ちょっと待ってくれ。どういうつもりだ」

「岩沼さんか、第二研究所の電話番号でもいいんです。教えてくださいっ」

「あ、そういえば、第二研究所自体の電話番号でもいいんでしたね」

「……?」


 長原さんが俺の言葉を聞き、何か閃いたかのように言い出す。

 さーて、何か嫌な予感がするのは俺だけだろうか。

 ゆっくりと頭を上げて長原さんの方を見る。すると、俺の視線の先には、すみません杉田さんと謝る長原さんがいた。


「な、なんで謝って……」

「いえ。組織に配属されていた時、一通りの電話番号は知ることができたんです。なので……。思い出しました」

「うおおおっ。じゃあ俺は今、全く意味のないことをしたってことじゃねぇか!」

「い、いえっ。決してそんなことは。杉田さんの覚悟はとても伝わりましたっ」

「確かに。ここまで人質にお願いをする奴もそうそういないな」


 有野は密かにクスクスと笑ってるし! 桜井にまで笑われるなんて……。

 そして長原さんには変なフォローをされる始末。最悪だ。

 項垂れる俺を、有野はひとしきり笑い終えると、肩に手を置き、「お前の覚悟はよく分かったよ」とだけ笑いを堪えながら言ってきやがった。

 ぶん殴ってやろうと思ったが、人質の前でそんなことをすれば、俺が暴力的な人だと勘違いされかねないので、怒りを堪えて我慢した。


「さて! 電話番号がわかったところで早く電話しようか!」

「あ、はい。そうですね」


 もはやヤケクソである。


「では電話してしますね」


 そんなに畏まった態度で電話しなくてもいいんですよ? 相手は敵なんだから。

 長原さんは早速固定電話の受話器を取り、電話に臨む。


「あ、もしもし。長原です。そちら第二研究所でよろしかったでしょうか?」


 なんだか完全に業務で電話対応しているようにしか見えないんだが。

 若干だが声が高くなった気もするし、この人、大丈夫かな。


「はい。お願いします」


 すると受話器から耳を離し、岩沼さんが出ますと小声で報告がきた。

 そうか。意外と簡単に出てくるんだな。

 少しして、長原さんの顔が強張る。どうやら来たようだ。


『意外と遅かったな。もう少し早くくると思ったよ。そちらは大丈夫だったかな?』

「はい。大丈夫でしたよ。でも、そちらのお仲間はこちらの人質になりましたよ」

『ああ。そのようだな。それで、君たちはなんの用で電話してきたのかい?』


 まるで仲間を心配していない。狼狽えた様子もない。

 まさかヘリコプターを送っておいて、初めからこうなることを予想していたのか? まさか。仲間なんだろ? だったらそんな捨て駒みたいなこと……。


「何のって、そんなの決まってますっ。人質の──」

『言っておくが、そちらに捕らえられている二人に何が起きようと、こっちには関係ない。端から駒に過ぎない』

「そ、そんなことっ──」


 だめだ。完全に長原さんは岩沼のペースにハマっている。このままじゃ……。


『それから、私から一つアドバイスをしておこう』

「そんなの、いりませんっ」

『まあそう言わずに聞きたまえ』


 何か、嫌な予感がした。だが、その時には全てが遅かった。


「全ての駒には、意味があるんだよ」


 声。それも後ろから?!

 刹那、家の収納、天井、廊下からなど、あらゆる場所から突然銃を構えた男たちが出てきて、俺たちを囲った。

 その中の一人。不敵な笑みを浮かべながらゆっくりと前に出てきた。


「数時間ぶりだな。フフフッ」


 やられた。完全にこっちの負けだ。

 まさか敵が先にこっちな拠点を見つけ出し、あろうことか家のあらゆる場所に隠れ潜んでいたなんて。

 完全に舐められている。遊ばれている。

 悔しさと同時に、ここを抜け出すことの絶望感が込み上げ、俺はただ黙り込むことしかできなかった。


「さて、このまま全員蜂の巣にする──というのは、あまりにもつまらないな」


 こっちの反応を見て楽しんでやがる。

 岩沼の顔には、憎たらしいほどに爽快な笑みが。

 周りを見て抜けられそうな場所がないか探すが、そもそも周りは囲まれている。不可能だ。

 今日の桜井のような助けがくるということも、まずあり得ない。

 本当に幸いなことに俺は飛行装置を付けているが、これを使って逃げることはまず無理だろう。

 不審な動きをすれば撃たれるし、そもそもこいつらを置いて一人逃げるなどあり得ない。

 不意に、岩沼の言った『仲間とは力にもなるが、時に我をも殺す』という言葉が頭によぎった。

 確かに今この状況はその通りだ。


「さて、杉田慶。君はそろそろ飛行装置を下ろし、こちらに渡したまえ。少しでも不審な動きをすれば、どうなるかわかってるね?」

「くそっ」


 今従わなければ……撃たれて終わりか。

 くそっ。どうする。どうすれば良い! 考えろ。考えるんだ……!


「何をしている。早くしろ」


 岩沼の催促の言葉が聞こえる。そんな時、ふと視線を感じた。

 目だけを横に向ける。長原さんだ。

 俺の視線に気づくとすぐ、長原さんは目を閉じ、二秒ほどして開ける。

 ……? 待て、待てよ。待ってくれ。それは、それは──。

 不意に頭によぎる、第二研究所潜入前の、森の中での有野との会話。その時の、俺の提案。

 『あ、だったら二秒間目を閉じて、二回の素早いまばたきで、有野を囮にして逃げろ! って合図はどうだ』

 長原さんなら、そんな囮役を有野にさせるわけがない。

 だったら、それなら──。


 長原さんはその後、素早く二回瞬きをした。


「クッ」


 それはまるで、スローモーションかと思うほどに、ゆっくりに見えた。

 頭を空っぽにして、何も考えないようにしながら、俺は二人に向かって駆け出し、すぐに飛行装置を起動させた。

 それとほぼ同時に長原さんは動き出し、岩沼に向かって駆け出した。


「な、何をしている杉田!」

「お前、これって──」


 二人の混乱の声が聞こえる。だが。その全てを聞き流して俺はこの部屋から飛び出した。

 最後に見た長原さんの全てを俺に託した笑顔も、何もかもを考えないようにしながら背を向け、飛び立った。

 だだ飛行装置の轟音が聞こえるだけ。それ以外には、何も聞こえない。

 視界が、歪む……。

 心を無にして、何も考えないようにしながら、ただ飛ぶことに集中しているのに、視界はまるで、泣いているかのように、前が見えなかった。

 ──さようなら。

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