10 山には帰れない
休みの前の日、勝彦と一緒に登校した。荷物が多く手伝いを頼んだから。いつもは、前後に離れて歩いていく。
「重いのにごめんね」と私。「久しぶりね」「うんほら来たよ。君の取り巻きが…」と勝彦はあごを突き出した。私はカバンを持つ勝彦の手首を握り、身を寄せた。
「うれしくないもの」 その子は近ずくと、私のリュックを取り上げ、自分の背に担いだ。
「勝彦が持ってくれるから先に歩いて」と言っても、
「いつものようにしないと文句を言われる」と 男の子は言う。
「僕、毎日君と歩ける」と 勝彦のほうを見た。 これはいけない。もう実行しなければいけない。決心する時が来た。実行あるのみ。強くなる。
授業の最後の時間を待った。先生には早退すると届出を出してある。時間が来た。皆は体育館に行った。
「顔色が悪いが大丈夫か」 最後まで残っていた進一が聞いてくれた。
「大丈夫、帰られる」と 私は答えて、机の周りをかたずけた。
誰も居なくなった。急いで着替えて、裏口に向い、カバンを物置小屋に隠した。リュックだけを担いで、裏門から外に出た。人に会わないように気をつけて歩いた。
夕暮れにはどこかの山に辿りついた。どこの山でも私の家だ。歩くのは慣れている。もっと高く登り、一つ山を越さなければ、父さん母さんに近ずけない。一生懸命に登り歩いた。
水が飲みたい。だが私は一組の着替えしかもって居ない。皆に不審に思われるのを恐れ、ほかには何も無い。
川を捜さなければ…。どこかにあるはずだ。今は登りだ。川は下にしかない。(水が無いときは、夜露をためれば良い)そうだ、父さんが教えてくれた。あれはいつだろう。小さいときだ。沢山歩いたから、そんなに小さくは無いかな?、暗い森を父さんと歩き回ったもの。
二人の足音に動物たちの驚いた眼が光っていたのを見たから、かなり大きくなっていたかもしれない。あの時は、少しも怖いと思はないのに…。
私は、町の子になたのだろうか?。一つ山を越えるのに弱音を吐いている。
「しっかり歩きなさい」 自分自身に言い聞かせた。
「モンタ元気で居るの…。ピーコ角が伸びた?。うーちゃん…、みんなに会いたいよ。今歩いていくからね」 星空が消えて、空が明るくなってきた。朝が来た。今日も天気はよくなりそうだ。歩ける。あの松が頂上だ。頑張って登ろう。父さんと母さんに会える。
(ああ、青空だ。雲が二つ浮かんでいる。私見たよ。ありがとう。反対側に下りていくね)
疲れていた。下りは怖い。足が止まらない。滑り降りる。私は自分の身体をもてあました。自由にならないようだ。
(父さん、私、沢山歩いたよ。まだ川が見つからないの。もっと頑張って下りてみるね)蔦に掴まり下りた。 (私ね、歩くの忘れたのかしら…、また暗くなるよ。夜が来るのかな…。母さんのほうはどう…)
(父さん、私の足うごかないよ)
(しょう、水を飲みたいのなら歩かないとだめだぞ)
(そうだね父さん、でもなんでこんなに転ぶの)
(しょう、わずかに水の音がするでしょ)
(母さん、私には聞こえないよー。とても眠たいの、もう寝てもいいでしょ母さん、すごく眠たいの)
「しょう、しょう。そこは危険なんだ。しょう、起きるんだ。立ってくれ、僕を見てー」
「だー れー なー のー」
「しょう、僕を悲しませないでくれよ」
「そうだー、歩かー ないとー」
「しょう、立って、じっとしているんだ」
「もうー 少しー 歩くわねー」
「だめだ、動くな。たのむよ… お願いだよ」
「水のー あるー 所へー いー かー なー いー とー」
「動かないで、動いたらだめだ」
「どー しー てー」
「僕が行くまで動かないでー しょうー 僕がわかるね?」
「うーん、みー ずー がー のー みー たー いー」
「解ってる。でも、あれは滝なんだ。行ってはだめなんだよ。ほら、僕に捕まって、少し歩いて、 水をあげるから、滝に落ちるのは嫌だろ」
「うーん、みー ずー がー あー るー もーのー」
「僕にだって水はあるよ。座ってくれたら水がのめるよ。さ、座って、そう座ってー、ほら、水を飲んで、ゆっくり、ゆっくりね」
「うーん、おー いー しー いー」
「少しとめて、また飲めるから。このチョコ一つ食べて、元気になるよ。 もうすこし水を飲む?」 「そうする」
「今度は、眠った方がいいみたい。君は眠くないかい?」
「そうね、 眠、れ、る、か、も、し、れ、な、い」
「いや君は眠るべきだよ 僕も眠いんだ。暗くなれば、人は寝るだろ」
「そうー、ね む る」 「僕たち二人とも、眠ったほうがいいよ。寝袋を広げるから待っていてくれる」 「まっーてーるー」「もうすこしだからー、我慢できるだろう」
「あ、な、た、 と、ざ、ん、か、な、の」
「三日前からね。 さあ出来た。寝られるけど、二人とも、服を脱がないと泥んこだから」
「ふ 、く、ぬ、ぐ、のー」
「しょう、大丈夫か」「しー たー ぎー だー けー にー なー るー もー のー」
「僕も下着だけさ。 しょう、しょう、息して、しっかり息してよ。僕、耐えられないよ」
「い き し た よ 」「ああ、解った。狭いけど二人で寝るからね」 眠った。滝の音も聞かず、二人は眠った。太陽が真上に来た。鳥が鳴いている。やっと目が覚めた。
「僕たち、長く寝たみたいだね。太陽がまぶしいもの」
「進一。 私は……」 息が詰まった。
「寝袋が狭いから、君は、僕の腕の中にいるよりほか無いだろ」 動きも取れない。
「でも、どうしてこんなーー」私は、二人の下着姿にびっくりした。身体に巻きつけるものは何も無い。
「僕が先に、水浴びしてくるから、この中にいてくれる|?」 私の頭の下から腕を無理に引き出し、袋を広げると、「向こうを向いてくれないかな」と いいながら抜け出していく。
私は、恥ずかしくて、寝袋をまきつけた。 水浴びを終えた進一は、リュックから新しい服を出して着込んだ。私に、私のリュックを渡しながら、
「僕は、この辺を片ずけておくから、君は身支度をしたらいいよ」と 言うと顔を赤らめて歩き出した。 私の心臓は滝に負けないくらいの音を立てている。寝袋から飛び出したので、頭がくらくらした。リュックを持ち木の茂みに入り新しい服を着て、川に下りた。顔を洗い髪を手ぐしでなぜ、少しは女の子らしくさせた。
「疲れは取れた。まだ足は痛む」進一は心配そうに私を覗き込んだ。私は、また赤くなった。
折り曲げた寝袋の上に二人は座っていたから、どうしても思い出してしまう。
「もう一度、チョコ食べようか」
「うん。 もう一度と言うけど、私食べたことあるの」 進一の戸惑いの顔に、私は不審を感じた。「ああ、昨日、見つけた後にね」 一瞬、とても苦しそうにした。
「進一は、一人で私を見つけてくれたの」 またも、私を見ている顔が苦しそうになる。
「何でそんな顔をするの」 私は聞いてみた。何も答えない。手をぎゅっと握り締めている。顔は下を向いたまま、地面を睨んでいる。
「しょう」 私をみた顔は進一ではない。目は虚ろ。顔は蒼白、手は、まだ握り閉めている。
「祥子、僕が君を追い詰めたんだ。 夜中に君の家からの電話で、僕は気ずいた。祥子の力になってやれなかったことをね」 とても苦しそう。私は、進一の手をなぜた。
進一は、私を見ていた。
「僕が捜す。絶対に捜す」と書き置いた。誰か、必要な人に見せるだろうと…。僕は、気の付いたものをリュックにつめた。父は、「目的があるのか」 兄が、「一人で大丈夫か」と聞いた。母は、「帰ってくるのよ」と小声で言った。「見つけるまで戻らない」と 言い置いて飛び出した。 君の好きな山に向い歩いた。広場には行かない。高い山を目差した。夜の山は、僕には歩けない。でも止まるのは望まない。一足でも祥子に近ずきたかった。
お腹がすいていないか、水は飲めたか、泣いていないかと、いろんなことが浮かんでくるんだ。 幾度も、幾度も君の名を呼んだ。生い茂った羊歯や、倒れた木を避け、登るのは辛かった。祥子に近ずけなくて、悔しくて…。
登るのをやめて、低いほうに下りた。祥子が飲んだかもしれない川が、どこかにないか探した。二回目の夜、水の音を聞いたときはうれしかった。ようやく川を見つけた。それからは、川に沿い山の奥に歩いた。
星がいっぱい輝いている夜空の下に、滝が見えた。祥子が滝の上にいるのを見つけた。祥子は滝に入るようだ。 祥子、祥子。僕は疲れて歩けないはずが、どうして君のところへ行ったのか覚えていない。君の手を取り引っ張っていただけだ。君は水を飲みたくて、手を伸ばしていたが、届くわけが無い。落ちたら戻れない滝なんだ」
私は、後ろの滝を見てぞっとした。ごつごつした岩の間を、細く水は流れ落ちていた。落下の長い滝の下は、青く染めた水溜りが広がっていた。
「あの滝の水をなのー」進一は、わたしの身体を抱きしめてくれた。しばらく抱きしめていた。
「祥子、僕は自分のことばかり考えていた。祥子の苦しみを理解してやれなくてー、ごめん、ほんとにごめん」 わたしの身体を揺らして、頭の上に乗せたあごが震えている。
「そんなにごめんといわないでよ。私自身、自分が解らないのに、進一に理解してもらえないのは当たり前でしょ」
「いや、違うんだ。僕は自分をかばった。新しい君の立場に取り込まれるのを恐れたんだ」わたしの立場とは何なの。孫娘がどんな立場になるの。
「僕は、何年も、気ままに学生生活を送っているよ。家が貧しいわけでもないのにね」進一の心臓の音が、わたしの背中に伝わる。やさしい音になるよう願いながら話を聞いた。
「誰だか解るだろう。それなのにまた君の…。今はそれでもいい。僕は君と一緒にいる。もう山には帰ってほしくない。祥子がどんな立場の人であろうと、僕は、僕の力で祥子が幸せになるなら、いつまでもそばにいる」 強く、強く抱きしめた。
抱きしめられていた身体を、抜き出し、進一の顔を見つめて、そっとキスをした。進一も返してくれた。
「まだ、一回分、借りがあるだろう。俺忘れてないよ」 また抱きしめられた。私の気分を軽くしてくれようと、冗談交じりに言う進一。
「これでいいー」 私は、もう一度キスをした。
「うん。もっと上手になると、うれしいけどな」進一もキスしてくれた。悲しさは消えた。胸が温かくなってきた。私をわかってくれる人が現れた。もう一人ではない。
「僕たちの帰りを待っている人達を忘れていない?」進一は、ずるそうに言う。
「そうね、私は山の子になれなかったもの」
「ああ、僕もだめだ。ほら見てごらんよ。傷だらけさ」 腕も足も見せてくれた。進一は、私の足を見た。私は急いで引っ込めた。顔が赤くなる。進一は、ジーンズの上からでも、私の足が透けて見えるに違いない。
「帰ったほうがよさそうね」と 私は言った。進一は、私の手を取り立たせてくれた。
二人は川沿いを離れないようにして歩いた。夜も歩いた。怖くは無い。気を使い心配してくれる人がそばにいる。手を差し出してくれる人がいる。
私を理解しようと心にかけてくれる人がいる。一人ではなく、二人で帰られる。皆が心配してくれているだろう。
「祥子、しばらくホテルにいたほうがいい。仲田さんが面倒を見てくれる。元気になってからくればいい」と 優しく言う。
「元気になったけど…」 手を前に出して見せた。
「ここの傷も、ここの傷も治してからでも、勉強はできるよ」 私の顔と胸を指差した。
「今は元気を取り戻してくれるのが、一番うれしいんだ」 本気で考えているみたい。
「僕が皆に話しておくよ。君は心配しなくてもいい」 もうじき、山を歩くのも終わる。町に近ずいた。
「祥子、僕はすごく怖い思いをしたんだよ。何か、お返しを貰ってもいいような気がするんだけどな…」 進一は、繋いでいた手に力を入れて私を見た。私も進一を見た。何を言うのかわからない。しばらく見つめていた。思いついた。顔が赤くなってきた。
「私がお返しを上げるのー?」
「僕は受け取りたいな」 ますます赤くなっていく。
「あのうー」
「いいよ。君はそのまま動かないでくれる。僕は、自分でするから…」 そーっよ、私のほほに両手を当てて、やさしい口ずけをしてくれた。