第8話 身体の関係(2回目)
夜庭めざめが学生生活の一部になるまで、それほど時間はかからなかった。
ほんの数日。
転校生の物珍しさがせいぜい一週間なのと同じで、めざめもクラスの一部になった。
(とはいえ…………)
吸血行為が日常になるのは、もう少し先になりそうだ。
「ん……んん、っ……」
「いひゃいかしひゃ」
「痛い……のかな。分からない。変な感じ」
「そ」
めざめはそれだけ言って、再び真昼の首元に顔をうずめた。
吸血鬼の知り合いというだけで、吸血鬼の能力についてさしたる知識を持っていない真昼にも、『吸血行為』の意味が分かりつつあった。
まず、朝一の吸血は一日で一番沢山の血を吸われる。
だから真昼は毎朝のように気絶してしまうし、めざめ謹製の増血作用がある紅茶(真偽の程は不明)なしに朝を乗り越えることはもはや不可能だった。
日中、授業の合間などに求められる血の量は、朝と比べると可愛いものだ。
多少ふらつくことはあるけれど、気絶することはない。
献血のあとってこうだよね、ちょっとふわふわするというかソワソワするというか、という感じだろうか。
それでも吸血が終わると、呼吸が乱れてしまうけれど。
めざめが噛みついた首筋の傷は、驚くべきことにすぐ塞がってしまう。
肌を撫でると、若干でこぼこしているのが分かった。
けれどちらっと観察した程度では、とてもつい数十分前まで穴が開いていたとは思えない。
古傷があると誤解するのが関の山だろうか。
これは、吸血鬼が人間から血を吸い上げるとき、それが悟られるのは吸血鬼にとってマズいからだという。
捕食のための偽装ということだ。
人類代表として是非ともそんな偽装はやめて欲しいが、しかし学校で噛みつかれてもバレづらいのは好都合だった。
傷が塞がるまでは絆創膏で隠して、傷が塞がるのを見てから剥がす。
そうしていれば、定期的に刻まれている首筋の傷に気づく人間なんて、いない。本当は念を押して、ずっと絆創膏をつけっぱなしにしておきたかったんだけれど……。
「いやよ。匂いが嫌い」
鶴というか吸血鬼の一声で却下された。
分からないのは、血を吸いたくなる間隔だ。数時間あいても平気な時もあれば、数十分後に求められたこともある。
さすがに間隔が短いと、まどろみのような意識の断絶を感じた。
(麻痺してるんだろうけど……命の危険を感じることは減ったんだよね)
確実に麻痺している。一歩間違えれば、失血死なのだから。
血を吸われている間、真昼は周囲を観察するようにしている。そうする余裕があれば、の話だけれど。二人で抱きつき合っている様子を誰かに見られるのは、言い訳が大変そうだからだ。
まさか「吸血鬼なんです、彼女」なんて言えるはずもなし。
校舎の片隅。滅多に人が通らない階段の下。
真昼はふと、そばにあった使われていないロッカーに目がとまった。
そこに小さな鏡がついていて、前髪をささっとなおせるようになっている。
角度がちょうど良く、鏡には真昼の姿が映っていた。
けれどそこに、めざめの姿はない。
吸血鬼は鏡に映らないというのは、本当らしい。
真昼はめざめの身体をそっと抱きしめて、彼女が吸血し終わるのを待った。
◇
真昼はトイレの鏡の前に立って、体操着の襟ぐりから自身の首筋を確認した。
そこにはうっすらと歯形が残っており、深々と穿たれた牙の穴もある。
あまり意識しないけれど、こうして見るとかなり痛々しい。
「でも……痛みはあまりないんだよね……ただ、痛そうなだけで」
絆創膏をはりつけて、彼女はトイレを後にした。
制服は構造が複雑だから(たかがしれているけれど)、なんとなく守られている間隔がある。
けれど制服より薄手の体操着だと、彼女が首筋に飼っている秘密が無防備に晒されているような気がした。
(いや……気にせず、体育を楽しもう)
今日はまだそれほど血を失っていない。
走り回っても問題ないだろう。
献血に携わる人たちが聞いたら、卒倒モノの思考だった。
「頑張ってね、佐伯真昼さん?」
「あ、うん……めざめちゃんは見学かな」
「ええ。体育館といえど、日差しが全く差し込まないワケじゃないし。それに私がコートに出てしまうとあの娘たちを蹂躙してしまうだろうし。ふふ」
「それは違いないね……」
めざめは抱えていたバスケットボールを真昼に差し出した。それを受け取り、ざらざらとした表面を撫でてみる。
「貴女、血を失った状態で運動して平気なのかしら」
「平気だよ。全力疾走するわけじゃないし、さっき血をあげてから結構時間もたってるじゃない。それよりめざめちゃん、そっちこそ退屈じゃないの?」
「退屈じゃないわよ」
「そうなんだ? 体育を見学するのってつまんないかなって思ったんだけど」
真昼にもそういった経験はある。怪我や体調不良で。
わあきゃあと叫びながらグラウンドや体育館を走り回る同級生を、ぼんやりと眺めている時間。
のんびりしていて悪くはないけれど、きっとみんなに混ざって身体を動かす方がずっと楽しい。
「普段、私はずっと屋敷にいるのよ。なにもせず。それに比べれば退屈しないわ」
「そっか。それはよかったよ」
めざめを学校に連れ出して、よかったのかもしれない。
真昼はようやく、素直にそう思った。
「体育の授業は、夕片翔子さんが見学してると思うよ。話しかけてみたらどうかな」
「夕片さん……ね。私はあの娘、苦手だわ」
「? そうなんだ。まあ無理に話さなくても良いと思うけど」
意外というか、案の定というか。
めざめはクラスメイトと、適切な距離感で交友関係を築いていた。
その外面の良さに同級生たちはもれなく騙されていたし、めざめは自分が纏う『近寄りがたさ』を都合良く使いこなしている。
夕片のことを苦手に思っているのは残念だが、ひとまずめざめが孤立していないのは一安心だった。彼女を学校に連れ出したのは真昼のエゴによるところも大きかったから。
「真昼ーっ、パスパス!」
ゴール下で手を振るクラスメイトに、バスケットボールを投げつけた。
チョコレートの中に刻まれて入っているオレンジの皮のような色をしたボールは、山なりになって大きくワンバウンドする。それを器用にキャッチしたクラスメイトによって、チームに一得点がもたらされた。
コートが一際、盛り上がる。
「はぁ、はぁっ……」
真昼はじっとりと滲んできた汗を拭って、呼吸を整えた。
血を抜いているせいか、いつもより疲れやすい気がする。
気持ちとしてはもっと走り回れるけれど、無理はしない方がいい。
コートの中で倒れるよりは遙かにマシだ。
(試合終了まであとは流そう……ん?)
ふと、体育館の隅に立っていためざめに視線がいった。
彼女は後ろ手で壁にもたれ掛かって、じっと真昼の方を見ている。あれだけの美人なのに、四隅の影に立っているせいで誰からも注目されていなかった。
めざめは真昼と目が合ったと分かるや、くるりと身を翻してそばにあった扉へ姿を消す。
体育館の舞台脇、舞台裏に繋がっている場所だ。
(どうしてあんなところに……?)
試合が終了して、別チームと入れ替わる。
真昼はその混雑に乗じて、舞台脇へと向かった。
扉越しに感じるクラスメイトたちの喧噪も、この埃くさい領域を侵すことはできないらしい。しんと静まりかえって、まるで石ころのようなありのままの静寂がそこにはあった。
「めざめちゃん……? どうしたの、体調でも悪くなった?」
押し殺した声で呼びかけてみる。
応じる声はない。
「あれ、めざめちゃーん……いないのー?」
短い階段を上って、雑多に物が転がる舞台脇を見わたす。ホワイトボードや机、パイプ椅子からミキサーのようなものまである。大きな窓がついているが、分厚い遮光カーテンがひかれているせいで薄暗かった。
突然、真昼の身体が後ろに引っ張られる。あまりのことに悲鳴も出ない。
次の瞬間には、真昼はめざめに組み敷かれていた。
隅にある木箱の陰だ。
きっと式典のセッティングや表彰式に使うであろう木箱は、下から見上げると余計にうずたかい。
倒れてきたらひとたまりもないだろう。
「ど、どうしたのめざめちゃん」
「血」
「へっ、今?」
「当然よ。じゃなければここにはいないでしょ」
「それはそうだけ……ひゃうんっ」
めざめが首筋に顔をうずめる。
彼女は汗で粘着が弱くなった絆創膏を剥がして、放り捨ててしまった。
そして今朝穿ったばかりの穴に、再びその牙を突き立てる。
鈍い痛みを感じて、眉根が寄った。
塞がりかけていた傷口を無理にこじ開けられたのだから、致し方ない。
「匂い……」
「絆創膏の匂い? ご、ごめん」
「違うわ。……汗のにおい」
「ひゃあああっ!」
「暴れないで。血が飲めないわ」
「デリカシー!」
そうだ、ついさっき汗を流してきたばかりじゃないか。
自分が汗臭いのだと考えると、のしかかっているめざめを猛烈に引き剥がしたくなった。
理想はシャワーを浴びてからがいいけれど、そうでなくてもせめてタオルで身体を拭くとか……だが、真昼の抗議をめざめが聞き入れてくれるとは思えなかった。
だからされるがままでいるしかない。
めざめは血を啜りながら、右手で真昼の腹部を撫ぜた。
人差し指で体操着を持ち上げ、露わになったへそのあたりに手のひらを沿わせる。
普段は布地に守られている腹部が露出するのは寄る辺がなく、それが他人に侵されていると余計に落ち着かない心地になった。
そんなものはお構いなしに、めざめは肌をなぞる。
「ん……っ、んあっ、ちょ、こそばい……っ」
人差し指がへその縁をなぞって、下腹部の方へ下りていく。ハーフパンツのウェストは、経年劣化で少しだけゴムが緩んでいた。だからいとも簡単に、めざめの人差し指を迎え入れてしまう。
人に触れられることのない場所を無遠慮に侵され、背筋が粟立った。
果糖のような不快感。
やがていつかと同じように、めざめは真昼のショーツの縁に爪を立てる。
「あ……っ、ん」
「ん…………」
めざめが首筋から口を離した。
よだれの糸が切れて、二人の身体に落ちていく。
「お、終わり……?」
「ええ。ありがとう」
馬乗りになっているめざめを見上げ、彼女の瞳が真っ青であることに気づいた。
屋敷から空を忌々しげに眺める少女を、初めて見たときと同じ。
「ねぇ……瞳の色、なんだけど……どうしていつも違うの……?」
「あら。よく気づいたわね、瞳の色なんて」
「偶然、だよ。近くにあったから」
嘘だった。
本当は初めから、めざめのどこまでも深い色彩に魅入られていたのだ。
だから、時々瞳の色が変わっていることにも気づけた。
「吸血鬼の瞳の色は、見る者によって変化するのよ」
「見る者に、よって……? それって見る人によっては若い女性にも、老婆にも見える絵みたいな話? あの、ルビンの壺みたいな……」
「さぁ。理屈は分からないわ。ただ母から聞いたのは……見た者が、見たいモノをそこに見いだすそうよ。だから見る人と、見る時によっていつも違う」
めざめは立ち上がって、体操着の至る所についた埃を払った。
「そうなんだ……面白い特性だね」
「真昼ちゃん。貴女は私の瞳が――何色に見えたの?」
その質問には、なぜだか恥ずかしさが勝って答えられなかった。




