第6話 身体の関係(1回目)
その日の通学路はいつもと違った。
いや、違うのは真昼の心持ちだ。
分厚いシューズの内側で、足指がそわそわとうごつく。同じように視線もきょろきょろと彷徨い、さっきから何度も前髪を整えている。
いつもの跳ねるような歩き方も十分挙動不審だが、今朝はそれに輪をかけて挙動不審だった。
(夜庭さん……起きてるかな。吸血鬼って夜型だよね)
きっと、長らく不登校だっためざめを学校に連れて行けば、クラスメイトは驚くはずだ。転校生の初日のように注目を集めるかもしれない。
そんな彼女を、日光や十字架から守れるだろうか?
真昼はちらりと空を仰いでそう思った。
事前に言いつけられていたように、真昼は勝手に門扉を開く。いくら家主から許可を得ているとはいえ、不法侵入している気分で肝が冷える。
(やっぱり十字架の意匠だ……)
門扉の柱に、十字架の意匠が組み込まれていた。
そしてその下には、外国語で文字が刻まれている。あいにく日本語がギリギリ堪能なレベルの真昼には、何と書いているのか分からなかったけれど。
オシャレなのはいいとして……。
(夜庭さんはこれで事故死したりしない……んだよね?)
そんな間抜けな理由で死んだ吸血鬼なんていないだろう。
とはいえ、わざわざこんなデザインにする理由が分からなかった。
(っていうか、十字架って見るだけでダメなのかな)
以前訪れたときと違って、真昼にも多少の余裕がある。彼女は邸宅の玄関まで歩きながら、長期間放置されていたであろう庭園を観察した。
かつては見事な色彩を湛えただろうレンガ造りの花壇は、見る影もない。
鼻腔をくすぐる土の匂いだけが、ずっとかつてのままなのだろう。
(あ……お墓)
敷地の端に、洋風の霊園で見るような墓があった。ぽつねんと鎮座する姿はなぜだか真昼の印象に残り、そんな気もないのにそちらの方へ近づく。
墓石の表面はつるりとしていた。
ここに眠っている人物の名前は確認できない。
だが、墓石の土台部分に目立たないよう、文字が彫られていた。
『Mama』
「お母さんの……お墓なんだ」
夜庭めざめの母?
だとしたらそれは……吸血鬼ではないのか?
吸血鬼が死んだとしたら、それは十字架や聖水、あるいは陽の光によって?
考えても分からない。真昼は気持ちを切り替え、玄関の方へ舞い戻った。
めざめによると、真昼は一度邸宅に招かれているから自由出入りできるのだという。どういう理屈なのかは分からないが、ともかく鍵を開けたり呼び鈴を鳴らす必要はないのだとか。
吸血鬼すごい。
「お、お邪魔しまーす……」
屋敷には、水をうったような静寂が満ち満ちていた。その静謐を侵すのが恐ろしく思えて、真昼は扉を必要以上にそっと閉めた。
(あれ……どの部屋にいるんだろう)
そこまでは指示を受けていない。
「夜庭さーん、来たよーっ」
反応はない。
真昼は仕方なく、片っ端から部屋を見ていくことにした。人の家をずけずけと見て回るのは躊躇いがあったが、これ以上大声を出して呼ぶのはもっと躊躇われた。
夜庭邸は真昼が思っていた以上に『廃墟』だった。
どの部屋も廃墟同然の有様だ。食堂にあった数十名はつけそうな大テーブルも、リビングにあった高級品のソファも、キッチンに至ってはありとあらゆる全てが、文字通り死に体の状態である。
めざめは三階の一室にいた。
ベッドルームだとすぐに分かった。天蓋付きのベッドに、クローゼットとキャビネット。そして沢山の本で構成されている。
世捨て人の極楽浄土とも呼ぶべきその空間の主は、ベッドの中央で丸まっていた。
「夜庭さん?」
声に反応して、めざめが身じろぎした。
ペラペラのネグリジェから覗く真っ白な肌は、さすが太陽光を知らない吸血鬼といった感じだ。無造作に広がる針金のように細い髪が、影のただ中にあって艶やかに見える。
(カーテンを開け放したいところだけど、夜庭さんを殺しちゃうかも……)
しゃれにならない。
真昼は、ティースプーンより重いものを持ち上げることがなさそうな身体を揺さぶった。肌の冷たさに、なぜかどきりとしてしまう。
「んんん…………」
「夜庭さん、起きて。朝だよ」
めざめは寝返りを打って、仰向けになった。厚みのない身体が呼吸に合わせて上下する。吸血鬼といえど生きていると実感させた。
「ほら、学校行こうよっ。早く起きてー」
「しんどい……」
「低血圧なの? あっ、それとも吸血鬼って朝は苦手なのかな」
「昼夜逆転なのよ……」
「夜昼逆転っていう感じだね……どっちかっていうと」
夜に生きる吸血鬼を、朝に起こそうとしているのだから。
眠りの深い夜更けに起こされたら、真昼も苛立ちを覚えるだろう。
「血…………」
どきりと心臓が跳ねる。
「だから……血……早く」
「あ、うん。早速過ぎて驚いただけだよ。大丈夫」
餌を待つひな鳥のように、小さく口を開くめざめ。真昼はどぎまぎしつつ、そんな彼女へ身体を寄せた。
「首でいいのね……?」
「うん、いいよ。ひと思いにやって」
「吸血鬼思いに……やってあげる」
『人思い』ではないんだけれど、それを訂正する間はなかった。
めざめは重たげに身体を動かして真昼に寄りかかると、その首筋に唇を近づける。夜空を滑空したときも思ったけれど、めざめはとてもいい匂いがした。
(軽い……こんなに細いもんね)
めざめの身体を支えるため、真昼も彼女を抱きしめた。
自分の身体と違って、筋肉が全くない身体をしている。皮膚と骨の奥に、人間と同じような臓器が収まっているのだろうか。それとも吸血鬼の肉体は、人間とは全く異なる構造をしているのだろうか。
「ん…………っ」
短く声が漏れた。
めざめが首筋に噛みついたのだ。鋭い痛みが走る。
(血、吸われてるのかな。いまいち実感が……)
途端、真昼の身体を酩酊感が襲った。
酒に酔ったことはないけれど、きっと酔いの入り口で足取りがおぼつかなくなるとき、こんな感覚になるのだろう。平衡感覚が薄らいで、目の前の視界がゆっくりと傾いているような心地になる。
「えっ? ちょ、夜庭さん?」
腹部に違和感を覚えて視線を落とすと、なぜか制服をまさぐられていた。
こそばゆさを訴えるつもりでめざめを呼んだのだが、
「その呼び方、鬱陶しいわね……めざめって呼べばいいんじゃないかしら」
「あ、うん。ってちょっ」
めざめの指先が、制服の内側へと滑り込んできた。明確なセクハラだ。
だが、血を与えている最中。突き飛ばすわけにもいかない。
それに、ぐらぐらとふらつく感覚でめざめを引き剥がせるとは到底思えなかった。
「あうっ、え、ちょ夜庭さ」
めざめが、血を吸いながら傷口を舐めた。そのこそばゆさに思わず声が出てしまい、真昼は自分でもはっきりと分かるほど紅潮してしまう。
「がぶ」
「痛っ⁉」
初めに噛みつかれたところに、さらに深く歯を突き立てられた。じんじんと存在感を失いつつあった痛みが、鈍い痛みになって帰ってくる。
痛みに身じろぎしている間に、めざめのセクハラは加速していた。
腹部から指を下に伸ばして、スカートとウエストの間に強引に押し込んでくる。そして、爪の先でショーツのゴムをひっかいた。
他人に触れられたことのない部分を、侵される感覚。それは快感とも不快ともつかぬ、未知の気持ちだった。
「あの、め、めざめちゃんっ」
ぱちんとショーツのゴムが解放されて、吸血も終わった。
めざめはゆっくりと傷口から唇を離すと、緩慢な動作で真昼から離れる。
その時、日差しの中でちらつく塵芥のように、よだれの糸が伸びた。
「はぁ……はぁ……、お、終わりで良いの……?」
「拭って」
それだけ言って、こちらをじっと見るめざめ。
どうしてやるのが正解か分からないまま、口元のよだれの糸を指で拭った。
「よろしい」
「よろしかったんだ……」
「紅茶をいれてきてあげるわ」
「あ、おかまいなく」
「そうは言っていられないと思うわよ? ふふ」
疑問符を頭に浮かべた直後、真昼の視界をこれまでにないぐらつきが襲った。
完全に前後左右の位置関係を喪失した彼女は、そのままベッドに倒れ込んでしまう。
「一気に血を失ったんだもの、当然よ。シャワーを浴びてからお茶をしましょう」
くすくすと笑いながら、めざめがそばを離れる。
ふかふかのベッドに取り残された真昼は、このまま眠ってしまうのはマズい気がするなぁなどと思いながら、意識をまどろみに手渡した。
眠りと呼ぶよりも、意識の断絶と表現する方が適切な睡眠だった。
「起きたかしら? 真昼ちゃん」
「……? はっ!」
寝過ごした、と判断した瞬間思考が過熱する。遅刻の二文字が重低音を立てながら後頭部を通り過ぎていった。
「安心なさい。貴女が寝ていたのはほんの五分ほどよ」
「よかったぁ……」
「飲みなさい。どうせ口に合うのだから」
差し出されたティーカップを受け取り、おずおずと口をつける。
先日出された紅茶と違って、独特の酸味とフルーティーな風味。寒気を感じていた身体の芯が一気に暖められるような気がした。
思わず、ほっと息をつく。
「どう? 似合うかしら?」
「あ……すごい」
めざめの言葉でようやく気づいた。
彼女は節海女子高等学校の制服を身に纏っていた。埃まみれの邸宅にしまい込まれていたとは思えないほど、シミ一つない綺麗な状態だった。
(不思議だなぁ……)
毎日見ている制服なのに、めざめが着ると別物のようだ。制服を再現した布地を纏わされた、精巧なお人形さんのような。
「凄い、なに?」
「すごい、似合ってるよ。可愛い」
「そ。貴女の血、美味しかったわよ」
「それは何より……っていうか、なんで身体触ってきたの!」
危うく下半身を触られるところだった。
「なぜって……貴女ねぇ、身体だけの関係なんて厭らしいじゃない」
「身体だけの……?」
「血を飲む、飲ませるの関係なんて爛れているわ。私は雰囲気を重視するの」
「そ、そうなんだ?」
よく分からないけど、とりあえず納得しておくことにした。これ以上深く考えると、先ほどの吸血行為中のことを思い出してしまいそうだったから。
衣擦れとめざめの呼吸の音。血液を失ってぐらぐらと揺れる感覚に、めざめの体温と香りが酩酊を加速させる。
マシになっていた揺れる感覚を、思い出しそうになった。
「じゃ、行きましょうか? 学校へ」
「そうだねっ」
真昼は立ち上がって、めざめの後に続いた。




