第3話 睫毛越しの邂逅
その人の顔を、真昼は覚えていない。
なにしろ小学校低学年の頃のことだ。明瞭に残っているのは些末な出来事ばかりで、誕生日も学校行事も、仲が良かった友だちの名前すら思い出せない。
けれど、その人がなんと言ったのかは覚えている。
「どうせ本を読むなら、楽しそうに読めば良いのに」
そこに刺々しい響きはなかった。
どちらかといえば――呆れていた気がする。
真昼はその頃、ずっと本を読んでいた。
同級生が校庭でドッチボールに汗を流し、教室の隅で可愛らしいデザインのプロフィールカードを作っている間、彼女はずっと一人だった。
シャーロックホームズや星新一のショートストーリーを、為すべき仕事であるかのように追いかけていた。
本は嫌いじゃない。
だけど、本が好きだから読んでいたわけでもなかった。
他にすることがないから。
みんなの輪に入っていけないから、代わりにずっと本を読んでいたのだ。
その人は、真昼がつまらなそうに本を読んでいるように見えたのだろう。
「楽しくないの?」
妊娠した先生の代わりに、学期途中で赴任してきた若い先生だった。
真昼の不確かな記憶によれば、男性。
「わ、分かんない……」
「じゃあ、みんなと遊ぶのと、本を読むの……どっちが好き?」
「みんなと遊んだこと……ない」
「なら、遊んでみよ。それでつまんなければ、また本を読めば良いよ」
その人がしたのは、それだけだ。
真昼が同級生と遊べるよう、軽く背中を押しただけ。
だけど彼女にとって、それは他の何よりも救いだった。
その先生に声をかけられた日から、本当に少しずつ真昼の性格は明るくなっていく。
小学校を卒業する頃に人付き合いが好きになって、中学生の頃には運動が好きになった。
本は変わらず好きだ。好きなものが増えた。
自意識が確立され始める、中学三年生の時。
真昼は、自分がそうされたように、自分もまた誰かへ手を差し伸べたいと考えるようになった。
押しつけがましくなるのは、覚悟の上だ。
鬱陶しいと思われたっていい。
あの日、ぽんと背中を押されたことにお礼が言えなかった。だから真昼も、誰かの救いになって、それをお礼の代わりにする。
まるで現実味のない夢だけれど――。
それが、佐伯真昼の夢だった。
「京子ちゃん」
「んー?」
「その、不登校の子の名前――分かる?」
京子は少しだけ考えて、短く答えた。
「確か、夜庭さんだったかしら」
◇
再び豪邸を訪ねたのは、真昼の傲慢だった。
学校に通わず、大豪邸に引きこもっている少女。
そこに手を差し伸べたいという、押しつけがましい欲求である。
自分のやろうとしていることに卑しさを感じるせいか、真昼の手のひらには汗が滲んでいた。だって真昼は、『夜庭さん』の事情を知らないのだ。よほどツライ事情があって学校に来ていないだけかもしれない。
それでも彼女はここに来た。
ツバを呑む。
真昼は改めて屋敷を見上げた。
瀟洒なレリーフが施された門扉は、侵入者を拒絶するように閉じている。
その柵の隙間から庭の様子が確認できた。長い間手入れされていないのか、伸び放題になった植垣やまばらに咲く花々が痛々しい。
「チャイム……呼び鈴みたいなの、ないなぁ……」
真昼は門扉のそばまで寄って、屋敷の玄関口へ目を凝らす。遠巻きだが、呼び鈴らしきものが確認できた。
(入って良いのかな……)
躊躇いがちに、門扉を押してみる。
予想に反して、門はあっさりと開いた。きぃぃぃ、と鳴った軋み音に肝を冷やしながら、真昼は恐る恐る庭園へ足を踏み入れる。
湿って、コケを帯びた土。
なんとなく踏むのを躊躇って、真昼は飛び石の上を歩く。
玄関戸は、また重厚な作りだった。おそらく高価な木材に、ぎょっとするほどの意匠が施されている。まるで歴史的な建築物を前にしたときのように、真昼は気圧されていた。
(せ、せっかく来たんだもん。負けない……!)
扉のそばに据え付けられたボタンを押し込む。思いのほか抵抗を感じたのち、古ぼけたブザー音が屋内から聞こえた。
真昼の心臓は、痛いほどに飛び跳ねている。
『だれ?』
声が聞こえて、真昼はひっくり返りそうなほど驚いた。
扉越しに、家人がいるらしい。
「あ、えっと……節海女子高校の、さっ、佐伯真昼と申します。おそれながら、こちらにクラスメイトのよ、夜庭さんがいらっしゃると聞いて、た、訪ねました」
『何か用?』
「え…………」
『貴女の同級生。私のことだけど。何か用?』
落ち着いた声だった。
淡々としていて、どこか冷たい。
「あっ、その! せっかくだから私、夜庭さんと学校に通いたいなって思って! そ、それで私にできることがあれば、協力したいの!」
『必要ないわ。帰って』
間髪入れず、声はそう告げた。
心臓にするりと忍び寄る、金属のような冷たさ。真昼は口ごもってしまう。
「ぁ……そ、そんなこと言わず! せめてお友達に……あれ」
つい先ほどまで分厚い扉越しに存在したはずの気配が、なくなっていた。真昼は念のためもう二、三言声をかけてみたが、やはり反応はない。
……どうやらフラれたらしい。
「仕方ないよね……私が勝手に訪ねてきたんだから……」
しかし、にべもないその応対は、多少なりともショックだった。歓待されるつもりで来たわけではないけれど、真昼は本気で『夜庭さん』と仲良くなるつもりだったから。
踵を返し、真昼は来た道を歩き始めた。
帰れと言われた以上、長居するのは迷惑だ。
「あ…………」
その時、真昼の目の前に広がっていた光景は思いのほか美しかった。
この豪邸は丘の一番高いところに建っていて、なだらかに下り坂になっている。それに沿って住宅の屋根が並び、地平線に消えゆく夕日が屋根を僅かに照らしていた。
(ここに来たのも、全くの無駄じゃないよね……)
少しだけ晴れた気分で、真昼は門扉をくぐった。
そろそろ、あたりに夜の帳が下りる。女の子一人で歩き回るのは危険だから、さっさと帰宅してしまおう。
「フラれちゃったんだ?」
声をかけられ、振り返る。
十メートルほど向こうに女の子が立っていた。住宅街に生じた影の中に佇み、真昼を見下すように顎を上げている。
歳はそれほど離れていない。十代から二十代前半。顔立ちは可愛い。
だけど、真昼が気になったのは彼女の容姿ではなかった。
翼。
何度見ても、彼女の背中には翼が生えていた。
鳥ではない。コウモリのような、皮膚がむき出しの翼だ。
「ねえ、夜庭めざめに、会わせたげようか?」
「……ど、どういう意味?」
「こういう意味」
女の子はそう言って、背中の翼を折りたたんだ。そうしていると、真昼と変わらない普通の女の子に見える。そして彼女は、ちょっとした段差を飛び越えるくらいの、ちょこんという動作で前へステップした。
次の瞬間、女の子は真昼の目の前に立っている。
「えっ――?」
女の子はそのまま、迷いなく真昼の首を掴んだ。そして、およそそんな力はなさそうな細腕で、容易く真昼を持ち上げる。
首だけを掴んで、身体全体を持ち上げるなんて――。
普通じゃない!
「このまま首をへし折られて死ぬのと、血を吸われて死ぬの、どっちがいい?」
「ぐ、っ、血を……?」
「そう。わたし、吸血鬼だから」
突拍子もない発言だった。
けれど真昼には、それを誇大妄想だと切り捨てることができない。
目の前のこの女は翼を持ち、異常な身体能力を発揮したから。
「でもわたし、血を吸うのは苦手なんだ。あくまで食事って感じ。人間の君でも分かるよね。ご飯は食べたいときにしか食べたくない。食べることって、もしかしたら食べ物を取り上げられるよりも拷問なのかも。だから、首をへし折るね」
「うぐ…………っ!」
そんなの絶対にゴメンだ。
真昼は中にぶら下げられたまま、なんとか暴れ回る。女の腕を叩き、身体を蹴った。手応えはあった。けれどまるで相手には効いていない。壁をひっかいているような、虚しい抵抗でしかなかった。
「ほら――……」
女が指先に力を込める。
途端に周囲の空間がひずんだ。
鼓膜に、ブブブブブという断続した音が届き、平衡感覚が失われる。
まずい、死ぬ。
わけもなく真昼は直感した。
「来たね」
吸血鬼の小さな呟きと、真昼の身体が解放されるのと、そしてその場に闖入者が現れるのとはほとんど同時だった。
少なくとも常人の感覚器官しか持ち合わせていない真昼には、全く誤差がないように感じられた。
闖入者。
見覚えのある少女だった。今朝、豪邸の二階から忌々しげに空を仰いだ少女。
彼女は真昼に背を向けて、僅かに腰を落とした姿勢だ。それは相対する吸血鬼を警戒しているためであろう。
「真昼ちゃん、教えておいてあげる。それがもう一人の吸血鬼。でもって……」
「…………」
少女は口を開かない。
「……夜庭めざめちゃん」
「私は第四継承者。そうね、夜庭めざめという名前もあるわね」
「そういうわたしは、第三継承者」
「知っているわ」
不思議な光景だった。
翼を生やした自称・吸血鬼の女と、屋敷から突然飛び出してきた他称・吸血鬼の女。そしてそこに居合わせた、全く吸血鬼ではない佐伯真昼。
無関係な真昼にも、現場に張り詰めた緊張感が分かった。
「……今日は真昼ちゃんを殺すのは諦めるね。第四継承者のめざめちゃん、あなたに免じて。それじゃサヨナラ~」
第三継承者は手をひらひらと振ると、その場で大きく飛び上がった。宵闇に染まった空を、その翼で飛び回る。
嘘みたいな光景だ。
目の当たりにしてなお、本当に起きたことなのかは自信が持てない。
「貴女」
「ひゃいっ⁉ なな、なんですか……?」
「巻き込まれたわね」
くるりと、少女――夜庭めざめが振り返った。
ゴスロリファッションに身を包んだ、痩身の女の子。
太もものあたりまで伸びたロングヘアは、枝毛や髪質の痛みが見受けられないほどしなやかだった。そして、一本一本が針金のように細く、色素が薄い。
めざめの端整な顔立ちにはよく似合っていたし、彼女の雰囲気をより作り物らしくしている。
そして、めざめの瞳は。
まるで夕日のような、赤だった――……。




