第28話 吸血鬼少女との関係
目覚めは気だるい。
人間だったときから、朝はいつも全身がベッドから出ることを拒否する。
けれどその日の起床は、いつもの何十倍も気だるかった。
例えるなら全身が生クリームのように溶け出して、固形に戻るために少々時間を要するような気だるさ。
「起きよう……」
意識を確かに持って、真昼はベッドから抜け出した。
真っ先に向かったのはシャワールームだ。顔を洗ってすっきりしたいと思った。
冷たい水で顔を濡らし、まだタールのように残る眠気を身体の奥底にまで押し込むと、真昼はようやく目覚めた。
「やらなきゃいけないことが山積みなんだから……頑張らないと」
勝手知ったる夜庭邸。
真昼にかかれば、テキパキと朝食を用意するなんて容易いことだった。めざめがやっていたように紅茶とトースト、そしてレタスサラダを用意して着座する。
人の家の食材を勝手に使用しているわけだから、多少の罪悪感はあった。
「いただきます……」
朝一にめざめを迎えに来る関係から、よく夜庭邸で朝食を摂った。
メニューもほとんど同じ。違うのは、正面にめざめがいないことくらいである。
「さて…………」
ふと真昼は思い立って、居間の最奥にある観音開きの窓に近づいた。
そして窓を開け放ち、空に輝く太陽を見上げる。
煌々と輝く太陽。
真昼はアレに触れたら、燃え上がって死んでしまうのだろう。
そう思うと世界中を照らすあの光が、毒々しいものに見えてきた。立場が変われば、景色の見え方もがらりと変わってしまう。
(不思議なものだなぁ)
ふと、真昼は視線を空から下方へと移した。
屋敷の前の道に、一人の少女が佇んでいる。
全身を節海女子高等学校の制服で包み、手には日傘を差していた。
痩身の背中にはお尻あたりまで伸ばしたロングヘアーが輝いている。針金のように細く、色素の薄い髪が風に煽られて緩やかに広がった。
少女の姿は息を呑むほどに美しい。
少女がこちらを見上げ、真昼と視線をぶつからせる。
「めざめちゃん……」
夜庭めざめだった。
彼女がどうしてここにいるかは分からない。
真昼と同じように散歩をしてこのあたりを通りかかっただけかもしれないし、無意識のうちに夜庭邸を目指して歩いてきたのかもしれなかった。
「めざめちゃんには私の瞳が、どう映ってるのかな……?」
その構図は、あの日とまるっきり逆だった。
影の中に佇み、屋敷の二階から見下ろす真昼。そしてそれを見上げる、めざめ。
ぼんやりとめざめの方を眺めていると、彼女は歩き始めた。
ほんの一瞬の邂逅。でもそれで十分すぎた。
真昼は窓から離れ、カップの底に残った紅茶を飲み干す。
(……? あれ、おかしいな?)
めざめが制服を着ているのはおかしい。
今日は学校は休みのはずなのに。
些細な引っかかりだ。
どうだって良い。
琥珀色の紅茶と共に飲み干してしまえばもう二度と思い出すことのないような些事だった。
けれどなぜかそれに、引っかかってしまう。
「んっ、え、誰か来た……」
玄関がノックされるのに気づいた。
尋常の聴覚器官では拾えないような音だったけれど、広大な屋敷の奥でも、その小さな音が真昼の耳朶に触れる。
よぎるのは当然、一つの可能性。
(でも、あり得ないよね……)
めざめには催眠術を施した。
今の彼女には、夜庭めざめだった時の記憶は失われているはずなのである。真昼がまだ消していない学生名簿を見て、夜庭めざめに会いに来るためにここにくるならまだ分かるけれど、今日は休日だ。
偶然、ここに?
だとしたら奇妙なほどの巡り合わせである。
無視するわけにもいかないので、真昼はややあって玄関へ向かった。
めざめとはっきり目が合っているから、居留守を使えない。
(妙に、緊張しちゃうな……)
どきん、どきん。
玄関に辿り着くと、大きく深呼吸してから扉を開いた。
頭の中では何度も会話のシミュレーションが繰り返されている。「どちらさまですか?」「何かの間違いじゃないですか?」「私には分かりません」。
そうやって突っぱねるのは心が痛むけれど。
そこにはやはり、夜庭めざめが立っていた。
「えっと……どちらさ」
最後まで言い切ることはできなかった。
目にもとまらぬ速度でめざめは距離を詰めると、真昼の胸をどんと突き飛ばしたのだ。その勢いで、真昼の身体は夜庭邸のふかふかの絨毯に倒れ込んだ。
頭をぶつけてもまったく痛みを感じないのは、おそらく敷かれてある絨毯の品質が良すぎるからだろう。
「えっ、な、なに!」
目を白黒させていると、倒れた真昼の上にめざめが馬乗りになっていた。
動きにまるで迷いがない。
ここまでの流れは規定事項であったかのようだ。
吸血するときのように、めざめが上になって、二人で重なる。
必然的に、真昼はこれまでのことを連想していた。
「言ったでしょう、逃げるなんて許さないって」
「それって……夢で見た……」
「夢じゃないわよ。それは、私の心の世界」
「心の、世界……?」
何が何だか分からない。
ただ、目の前の少女が真昼の知る『夜庭めざめ』であることだけを確信した。
「私たちは繋がっている。だから、貴女は私の心を見たのよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。ど、どういうことなの?」
「貴女が、私の眷属だからよ」
くらりとした。
眷属?
吸血鬼の――眷属?
「あれ……私、めざめちゃんから吸血鬼の力を継承したんじゃ……」
そのためにナイフを使ったわけだ。
助けるためにはめざめの吸血鬼の力を真昼に継承しなければならない。その状況を作り出すことによって、めざめを吸血鬼が抱える百年の孤独から救い出そうとした。
そしてそれは、催眠術の成功によって達成が証明されたのだと思っていた。
「眷属は吸血鬼そのものほどではないけれど、それに匹敵するほどの力が与えられるのよ。不死性もその一つ。私は貴女を眷属にして、眷属の力を使って自己修復させただけ。貴女は吸血鬼じゃないわ」
「ま、まって! めざめちゃんは眷属を作るのが苦手って言ってたよねっ」
夜庭めざめ・第四継承者は信仰に赦される権能をもった代わりに、他の吸血鬼が当たり前にもっている能力が弱い。
霧になることもできなければ、眷属を作るのも難しい。
他ならぬめざめ本人が言っていたことだ。
そんな彼女が、あの土壇場で真昼を眷属にしたなんて――……。
「忘れたのかしら? 私は第三継承者でもあるのよ」
「あ………………」
「第四継承者は吸血鬼として薄弱ね。だけど第三継承者は違う。貴女一人を眷属にするなんてワケないわ。……ごめんなさいね、貴女の覚悟を無駄にして」
全身から力が抜けていく。
張り詰めていた真昼の緊張の糸が、音を立てて切れていた。
「でも覚悟を決めた貴女、とっても素敵だったわ。ありがとう」
「ど、どういたしまして……?」
「私は私の責任をとったのよ。……誓うわ。
真昼ちゃんは私の眷属として、もう二度とあんな真似をさせるまで追い込んだりしない。
私の眷属として、とろけそうなほど寵愛を与える。
私の眷属として、いつまでも私の愛した佐伯真昼でいてもらう。
私の眷属として、ずっと一緒にいるわ」
「……うん。私が言い出したことだもんね」
ずっと一緒にいよう。
そう言ったのは真昼の方だ。
「さて、真昼ちゃん。貴女は貴女の責任をとってもらうわよ」
「私? 責任って、なんの……?」
「私の唇を奪った責任」
「それはお互い様だよ!」
「だから……だから今日は、愛し合いましょう」
めざめは声をひそめてそう言うと、真昼の身体の上に倒れかかった。そして互いの存在を確かめ合うように、抱きしめ合う。
これからすることは吸血ではなかった。
ただ、それにもっとも近しいことではあった。




