第27話 夢のほとり
真昼の自宅にめざめを運び込むと、今度はめざめに催眠術をかけることにした。
ベッドに寝かせためざめを何度か揺り動かして、意識を呼び起こす。
しばらくそうしていると、ややあって目の前の美少女が瞼を開いた。
「ママ…………?」
「めざめちゃん。よく聞いて――」
つい先ほど警察官にやったように、真昼は次に発する言葉へ意識を集中させる。
そして、言葉に詰まった。
これでめざめの中から自分の記憶が、存在が、これまでの甘美な日々が失われてしまうのだと思うと、それが途轍もなく恐ろしいことに思えたのだ。
もしかしたら、友達が一人死んでしまうのと同義なのかもしれない。
(めざめちゃんはこの思いを乗り越えようとしたんだ……)
そうしてまで、真昼を昼の世界へと還そうとした。
それを裏切り、真昼は夜の世界にとどまったのだ。
ここで躊躇う資格なんて、彼女にはなかった。
「これまでありがとう、めざめちゃん。……これから貴女は、夜庭めざめという名前と、佐伯真昼の社会的な立場で生きていくことになる。貴女の家はここだよ。生まれ育った家と、お母さんとの思い出は必ず還す。だけど少しだけ待っていて。めざめちゃん以外の人たちにも、こうして回る時間がいるから……」
眠たげに瞼を開いていためざめが、返事をすることなく再び瞳を閉じた。そしてすうすうと穏やかな寝息を立てる。
「サヨナラ。……きっとまた会いに来るよ」
今生の別れのようにも思えた。
けれどその気になれば、いつだって逢うことはできるはずだ。
だって、どちらかが死んだわけではない。
これは夜庭めざめの孤独を癒やすための、儀式のようなものだった。
自宅だったアパートをあとにして、真昼は夜庭邸へと帰宅した。
やらなければならないことは山積みだ。学校の資料を書き換え、学友たちの記憶に干渉し、真昼の叔母にも催眠術を施さなければならない。
海外に長らく住んでいる叔母に今すぐに会うことは難しいから、長期間にわたっての作業になる。
ほころびが出ないよう、めざめの「人生」を支えるのだ。
「めざめちゃんの学校生活をサポートするのと、本質的には変わらないよね」
真昼はきたる作業の過密さを想像して震えた。明日に備えてベッドに潜り込んで、真っ暗闇の中でめざめとの出来事を思い起こす。
やっぱりめざめに催眠術なんてかけなければ良かった。
考えても仕方のない後悔が、涙となってベッドシーツを汚した。
◇
「ここは――夢だ」
失血多量で意識を失っていたときに訪れた、漂白された空間である。
吸血鬼になって初めての夜は、寝付きが悪かった。ようやく意識を手放したかと思えば、次の瞬間には夢の世界に一人取り残されている。
「吸血鬼ってこうなの……? あ、めざめちゃん」
めざめの背中が遠くに見えた。
真昼は考えるともなしに、その背中にむかって歩き始める。
(ああ、そっか。これはめざめちゃんの記憶なんだ……)
めざめから血を継承したためだろうか。
実際に継承した場面は気絶していたから、どのような儀式が執り行われたのかは想像するしかないけれど、少なくとも真昼はめざめから血液に準ずるものを受け取っているのだ。
そしてそこに、めざめの想いが宿っていた。
これはめざめの抱えていた記憶だ。
瞬きをした途端、周囲の景色が変化していた。
真っ白でどこまでも続く広大無辺の世界ではなく、どこかの庭。
四方に白亜の建築物が見えるところから察せられるに、ロの字型の建物の中央、いわゆる中庭にあたる場所らしい。
手入れされた植垣と、木製のベンチ。
穏やかな時間を過ごすご老人や子供の姿が目についた。
彼らは一様に、病院服を身に纏っている。白亜の建物が病院であるらしいと、真昼にはすぐに理解することができた。
めざめは中庭の中央に佇んで、ベンチに腰掛けている少女と何やら言葉を交わしている。二人は日向にいた。
(めざめちゃんが、まだ吸血鬼じゃなかった頃――なんだ)
二人は仲が良さそうだった。おそらくは何度もそうして他愛ない雑談に興じているのだろう。
「めざめちゃんが言ってた『友達』って……」
あの人のことだろうか?
次の瞬間、周囲の光景が変化していた。
同じ中庭だ。
けれど建物の様子が違っている。大規模な改築があったのか、さきの味わいのある白亜の建物はなくなっていて、近代的な巨大建築物がそびえ立っていた。
中庭ではなく、もはや玄関口のちょっとした緑程度になっている。
(ここ、記念病院だ)
町民の真昼にはすぐにどこか分かった。
改築される前の姿を見たのはめざめの記憶の中が初めてだったけれど、改築されたこの姿は見覚えがある。
それだけの時間が流れた、ということか。
めざめは建物の影に佇んで、ぼうっと病院を見上げていた。
(吸血鬼になった……んだね)
病院がまるっきり改築されているということは、先ほどのめざめの友達はかなりの年齢になっているだろう。あるいは亡くなっていてもおかしくはない。
最初の記憶と今の記憶との間にどれほどの時間経過があるか分からないから、想像するしかないけれど。
再び景色が変わる。
今度は学校の廊下だった。
よく見知った学園の廊下。
真昼が通っていた、節海女子高等学校の廊下である。
(すごく最近だ……景色がまったく一緒だもん)
めざめは制服姿で、廊下に佇んでいた。そして正面から現れた女の子に声をかけて呼び止める。
「ねえ貴女」
「はいっ、なに?」
「**さん……よね」
「うん。そうだけど……?」
少女はきょとんとしている。めざめと面識はないようだ。
真昼はやや間を置いて、その少女の正体に勘づいた。まったく似ているというわけではないけれど、目鼻立ちに面影がある。
先ほどの『友達』の親族だ。
それもおそらく、直接の子供か孫か……。
「お母さん、ご健在かしら」
「母と知り合いですか? ええ、元気でやってますよ」
「そう。お母さんは子供の頃、よく体調を崩していたと聞いたことがあるのだけど、今はそうでもないのかしら」
「母が病弱だったって? あはは、それ初耳です!」
「…………」
「お母さんもそんな話してなかったから、忘れてるんじゃないですかね?」
「それは、なによりね」
真昼は理解した。
夜庭めざめの生涯はそうやって形作られているのだ、と。
『きっとこの先……そうね、具体的には五十年くらい……貴女との思い出を抱いて生きていけると思うわ。だからここからは、互いの日常に戻るのよ』
めざめの声が蘇る。
あの言葉は嘘偽りなく、額面通りの意味だったのだ。
ただ一人、過去の中に生き続ける。
何も変わらない日々で、いくら抱きしめても形の変わらない記憶だけを抱えて生きる。
人間が当たり前のように忘却して、朧気になって、たち消えてしまう不確かな思い出ではない。
過去そのものに自分が生きているから、いつまでも忘れない。
それが、めざめの生涯。
孤独よりも、孤独だった。
真昼はふと、自分の手元に学生名簿があることに気づいた。
節海女子高等学校の二年三組。
佐藤綾の名前も、仁多京子の名前もある。めざめによって隠蔽された夜庭めざめの名前もあり、そして佐伯真昼の文字も。
「名簿から名前を消そうとしたとき……とても、恐ろしくなった」
名簿に落としていた視線を、少しだけ上げた。
そこには制服姿のめざめが立っている。
「私は過去に生きている」
「名簿から名前を消したら、現在から完全に取り残されるって……そう思ったの?」
「ええ。私の生涯を証明してくれるものは、もうどこにもない」
「知っている風景がなくなっていくから?」
病院が大規模な改築を行ったように。
めざめはこくんと頷いた。
「『友達』の記憶からも消えてしまった」
「そっか。自分以外に、自分を自分だと認めてくれる人がいなくなったんだ……」
「だから貴女を、巻き込んでしまった」
「巻き込まれてなんてないよ。私、めざめちゃんのことが好きだから」
「それとこれとは関係ないじゃない。貴女を巻き込んだことは、事実よ」
「ううん。無関係じゃないよ。私がめざめちゃんのことを好きだっていう気持ちは、私にまつわる全てと関係しているよ。好きって、そういう気持ちだと思うから」
だから愛した人と、一つになるのだ。
『好き』は自分そのものだから。
「他者の存在が自分になるのね。……なら私も、自分を自分と認めてあげれば良かった」
「めざめちゃんなら簡単だよ」
「真昼ちゃん、協力してくれる? 私を私と認めるための、愛の営みに」
「それは……」
難しいだろう。
真昼は吸血鬼で、めざめは人になったから。
だが目の前のめざめはけろりとした表情で言い放った。
「言っておくけど、逃げるなんて許さないわよ?」
景色がぐにゃりと歪んだ。
めざめの記憶が終わるのだろう。それは言い換えるなら、夢が終わる。
朝が来て、真昼は新しい一日に生きる。




