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第25話 G線上の聖母

真昼は鼻に押し当てていた手首を、少し下にずらした。

唇がめくれて、前歯に肌がぶつかる。

彼女は戯れに、そこへ歯を立てた。


歯に押されて、皮膚の下に鈍い痛みを覚える。けれど構わず、どんどん口元の力を強めていった。まるで、真昼の首筋に幾度となく穴を穿っためざめのように。


一心不乱にモノを噛んだせいで、唇の端からよだれが一筋つたった。


「んぁ……っ⁉」


姿勢を崩し、真昼はその場に尻餅をついた。

そばにあった、長期間放置されている跳び箱に背中を預けて、真昼はそのまま座り込むことにする。座りたいと思ったわけではない。ただ、立ち上がるのが酷く面倒に思えたのだ。


「……っん…………」


真昼はそのまま、自分の手首に噛みつき続けた。

じりじりと、皮膚に強烈な負荷がかかる。今にも歯が突き刺さりそうで、生理的な恐怖が喚起された。


それでも、口元の力を緩めない。


めざめに牙を挿入されるとき、真昼はさほど痛みを感じることはなかった。傷跡自体が生む、うずくような痛みがもっぱらだった。


けれどこうして、自分でそこに触れようとしたとき――まるで感覚が違う。


「ぐ…………ふ、っ……」


やがてダムが決壊するように、手首に歯傷が穿たれた。

途端に真昼の口内に満ちる血液の味。こみ上げてくる嫌悪感にも取り合わず、真昼はそのまま血液を嚥下する。


不味い。


ほんのごく微量な血液だ。

めざめがごくごくと飲み干した量に対して、せいぜい人差し指に乗る程度しか口に含んでいない。

にも拘わらず、喉元から舌先まで猛烈に走り抜けてゆく吐き気。


だが、真昼は口を離さない。

流れ込んでくる血液を、まるでそうすべきであるかのように呑み込んだ。


いつもしているように、突き立てられた歯に身を任せる。

いつもそうされているように、流れ出る血を啜る。

真昼とめざめ、二人がいて初めて成立する行為をたった一人で成立させようとするのは、とても冒涜的だった。


虚しい。


一心不乱に自分の手首を傷つけながら、真昼はそう思った。

心地は似ている。歯が突き立てられたときの鈍い痛みも、血を失う感覚も、相違はあれど大きく違うわけではない。


けれど、決定的に欠けているモノがあった。

真昼は今、独りぼっちだ。

ようやく彼女は手首から口を離した。よだれの糸がひいて、傷からあふれた血液と共に床に落ちる。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


いつの間にかぐっしょりと汗をかいていた。


ふと、自分が噛みついた傷跡に目が行く。

三日月型に歯形がついて、よだれでてらてらと濡れていた。そこに血の赤がうっすらと滲み、なぜだか見ていられないほどにグロテスクだと感じる。


傷――。


「そうか……傷だ……」


真昼は顔を上げた。

分厚いカーテンの向こうから、太陽光が惜しみなく降り注いでいる。真昼が座り込んだ場所にまで日光は届かないけれど、そこに信仰によって雪がれた光が満ちていることが疑いようもなく分かった。


「めざめちゃん――私は貴女を、孤独から救うよ」


吸血鬼の孤独。

百年の孤独を。

真昼の耳朶に、めざめの声が蘇った。




吸血鬼の力を誰かにあげてしまおうって、考えたことはないの?


『ないわよ。誰かに押しつけてしまうなんて、恐ろしいわ』


……なら、その……眷属を作る、とか?


『私、眷属を作るのは苦手なのよ。言ったでしょ、私は吸血鬼としては弱いって』




強いよ、めざめちゃんは。

自分が背負った深い孤独と悲しみを、誰にも押しつけようと思わなかったのだから。


真昼は一つのアイデアを手にしていた。


それは分の悪い賭けだった。真昼の脳天気で楽天的な思考をもってして、きっとうまくいくことはないだろうと思えた。

それでも、彼女の孤独を癒やすために、行動を起こすことにした。



     *     *     *



珍しく昼に目覚めた。

夜庭めざめは重たい瞼を開き、世界を視認する。


「誰か来たみたいね……帰ったようだけれど……」


『誰か』などと持って回った言い方をしたのは、それが佐伯真昼であることを確信していたからだ。この廃墟じみた豪邸に、わざわざ壁をよじ登って侵入しようとするような輩は、他の継承者を除けば彼女くらいしかいない。

それに他の継承者には、この信仰に守られた屋敷へは侵入できないから。


屋敷に人が近づけば、めざめの持つ吸血鬼としての感覚器官は、当然のようにそれを察知することができる。目を凝らすように感覚を凝らせば、気配がどこにあって、どんな体格なのか、どの程度の実力者なのか程度のことは理解できた。


めざめは鉄のように重たく怠い全身をやっとの思いで起こすと、裸足のまま室を出た。ひたひたと、足裏が小さな足音を立てる。


「何しに来たのかしら……」


今、夜庭めざめの正体を知っているのは真昼だけだ。他の人間には、催眠術を使って記憶や認識を歪めた。もはやめざめのことを気にかけるような人間は、真昼以外にいない。

それは多少寂しいけれど、在るべき姿だ。


かつてもずっとそうだった。


屋敷の廊下から、吹き抜けを通って玄関へ向かう。

吸血鬼の催眠術は、厳密には催眠を施すわけではない。

一種のチャーム。魅了の呪いに近しいものである。


元来、始祖の吸血鬼には他者を一目見ただけで傀儡とする力があったそうだ。それを継承者たちで分け合った結果、このように非常に微力な形で力が残ったのである。


(真昼ちゃんが何か行動を起こす前に、彼女の記憶も……)


彼女の中から自分の記憶が消える。

それはとても恐ろしいことだ。


けれど放っておけば、いずれはそうなる。


吸血鬼の永遠と人の一生は、重なり合うにはあまりにも性質が違いすぎた。めざめがいくら願ったところで、佐伯真昼が歳を重ね死に近づくにつれ、めざめの存在は忘却の霧に包まれることとなる。


ならば、いずれ来たる未来を受け入れる方がずっといい。

真昼には、自分と出会う前のままでいて欲しかった。めざめが抱いて生きていくことになる記憶の中の彼女と、同じ姿でいて欲しいのだ。


玄関口に一通の手紙が落ちていた。

扉の隙間から差し込んだのだろう。

差出人はやはり、真昼である。


「さて……何の用かしら」


その場で開封して、文面を検めた。

そこにはごく短い一文と、真昼の名前が記されているだけ。


『夜、××公園に来て。佐伯真昼。』


めざめは思わず嘆息を吐いた。覚悟していたことだ。いつかは佐伯真昼との『別れ話』に決着をつけなければならない。

しかし……こうして呼び出されるとは。

予想していなかった。


めざめは手紙をキャビネットの上に置いて、夜庭邸の二階へ戻った。そのまま居間や寝室には戻らず、廊下の突き当たりにある扉の奥へ向かう。


そこは本来、書斎として使われていた。

天井まである長躯の本棚に木製の梯子が引っかかっている。けれど本は一冊もなかった。空っぽの本棚が肩を並べる様は異様に寒々しく、夜庭邸の廃墟感をより強めている。


部屋の中央には、イーゼルと丸椅子がぽつんと置かれていた。

椅子の脇には、まだ使われていないまっさらのキャンバスが落ちている。


めざめは画を描くのが好きだった。

彼女はつま先でキャンバスを蹴っ飛ばしてどけてから、丸椅子に腰掛けた。

画を描くのは趣味だったが、今はそんな気分になれない。静かで、無心になれる場所を探してここに来ただけだから。


めざめの軽い体重にも椅子が軋んだ。


薄暗い部屋は書斎というよりも工房だったが、工房と呼ぶには殺風景すぎる。画材の類いはほとんどなく、ただイーゼルとキャンバスがぽつんと置かれているだけだった。


だからやはり、ここはどこでもない。

ただ、めざめがよく足を伸ばすだけの部屋である。


背もたれがないから、転倒しないように注意しながら背中を反らした。それに合わせて両脚を目一杯伸ばし、顎を天井に向ける。

そうすると、彼女の長い髪が床に触れた。


(私……自分のことを人間だとでも思っているのかしら)


転倒しないように気をつける必要なんてない。

彼女の身体能力があれば、無理な姿勢を維持することなんて簡単だ。宙に漂うことだってできるし、姿を消すことだってできる。今の彼女には、第三継承者の力も宿っているのだから。


めざめはそれ以上思考を深めることはなかった。

そこに何もないと分かっていたから。

自己嫌悪を掘り進めるなんて全くの無意味だと思うから。


そうやって目をそらし続けることが、長い時間を過ごす唯一のコツだ。時間があるからと言って、思考を巡らせるのは下策である。

吸血鬼になってから何十年間も、めざめはほとんど何も考えずに生きてきた。


(生きて――いえ、死ななかっただけね)


瞼を閉じ、完全に思考を停止させる。

彼女はその姿勢のまま、真昼が言う『夜』を待った。


その数時間後、めざめは屋敷の窓から夜の空へと飛び立った。

××公園とやらがどこにあるのかは知らない。けれど真昼のいる場所は、めざめには感じることができた。

だから迷いなく、夜の空を切り裂いて進む。


漆黒の単色で満足に先の見通せない景色。

けれどめざめの瞳には明瞭すぎるほど、家々や町並みが映った。それが余計にのっぺりとしていて、景色が退屈に見える。


真昼と共に見下ろした夜景はあんなにも特別に感じられたのに。


そうやって彼女は、封印したはずの自省へと引きずり込まれていった。


夜庭めざめは嘘をついている。

一つ、けれどもとても重大な嘘だ。


佐伯真昼はそれを知らない。

知ったら彼女は、どう思うのだろう。

自らの元を去ろうとするめざめを引き留めようなどと、思わないかもしれない。


めざめは思わず笑ってしまった。

自分にまつわる記憶を奪おうとしていたのに、嫌われるのは恐ろしいと感じる。まるっきり矛盾した気持ちが、平然と自分の中に同居している事実に。


「馬鹿馬鹿しい……」


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