第21話 十字の夜明け
女子の細腕とはいえ、真昼は同世代よりも運動能力が高い。
バスケットボールを投げて、山なりにならずパスすることができる程度には。
そんな彼女が放ったロザリオは、ひゅんと空気を切って翔子へ飛び掛かる。
だが――。
それはあっさりと、翔子に躱されてしまった。
吸血鬼のそばを通り抜けたロザリオは、めざめが倒れていたあたりも飛び越えて、常闇の結界へ穴を穿った。
ガラスが割れるときのような甲高い音と共に、結界の壁に十字の穴が穿たれた。手のひらに収まる程度のロザリオがぶつかっただけにも拘わらず、秘めていた神聖によるものか、人がゆうゆうとくぐり抜けられる程の穴だった。
「あははは、無駄だったねぇ。十字架は吸血鬼由来の力を拒絶するから、わたしにぶつけられれば吹き飛ばせるか、最悪滅することもできたんだけど」
「はぁ、はぁっ」
真昼はゆっくりと立ち上がった。
十字の穴の向こうに、ちらりと輝くものが見える。
「無駄じゃないよ――初めから、こうするつもりだったから!」
脱兎のごとく駆け出して、怪訝げな表情を浮かべた翔子の脇を走り抜ける。
きっと彼女は、人間の脚力じゃあ結界の穴から逃げ出したって無意味だと判断したのだろう。だが、真昼は結界から逃げ出すために走り出したわけではなかった。
「めざめちゃんっ!」
野球選手のスライディングのように、地に伏しためざめの上へ覆い被さる真昼。
傷だらけになった真っ白な肌も、土に汚れている頬も、真昼の心臓をチクチクと刺した。
「逃げたって無駄――」
そこで、翔子の言葉が途切れる。
結界に、朝日が差し込んだのだ。
十字に切り取られた日光が『常闇の結界』の中を満ち満ちた。
結界は日差しの中に闇夜を作り出すものだ。
けれど、内側から陽の光に晒されることを考慮していなかったのだろう。圧力に耐えかねて砕けるビール瓶のように、結界の壁は瞬く間に破裂した。
「あぁ――――」
翔子が吐息を漏らす。
次の瞬間、彼女の身体が真っ黒い炎に包まれた。
結界がはれたことによって、三人は何の変哲もない河川敷に放り出される。
しかし情景は異常の極みだった。
地面に折り重なって倒れる二人の少女と、全身が黒い炎に包まれた少女。
「真昼……ちゃん……」
「大丈夫? めざめちゃん。動かないで。日に当たっちゃうから」
「ええ……ありがとう」
「なんだか、いつもと反対だね」
倒れて、ぐったりとしているめざめ。
覆い被さって、動きを制する真昼。
めざめはくすりと笑って、「ええ……そうね」とだけ答えた。
バチバチと黒い炎に爆ぜながら、翔子の身体がぐらりと揺れた。
彼女の身体は崩れゆく巨像さながらの緩慢さで倒れ、川に向かう土手の斜面を転がり落ちた。
真昼は、雑草に燃え移らないか内心ひやりとする。
やがて彼女の身体が視界から消えた。
十分ほどして、太陽が雲に翳った。
そのタイミングを狙って、地面に伏せったままだった二人は翔子の元へと急ぐ。陽に燃やされ、相当のダメージを負った彼女がすぐさま復活することは考えづらかったけれど、それでも彼女は不死を帯びた者である。
「夕片さん……いや、第三継承者、さん……」
燻る黒い炎が、ひものような黒煙を立ち上らせている。翔子の身体は大地に投げ出され、身動き一つ見せることはない。
「はや、く…………『継承』……してよ……」
「真昼ちゃん。私が彼女から血を継承すれば、第三継承者の存在は消えてしまうわ。貴女は本当に、それでいいの?」
「……うん」
応えるのが難しい質問だった。
頷けば、夕片翔子とは永遠の別れになる。それが一般的な『死』とは異なるのかもしれないけれど、気持ちとしては友達との死別に近いものがあった。
その上、この事実を自ら決めて受け入れなければならない。
友達との死別とは、違って。
それでも――頷くほかない。
第三継承者が在り続けるかぎり、二人の命は狙われ続けるだろう。
言葉での説得はきっと、難しい。
僅かな可能性に賭けることの方が恐ろしいと、今の真昼には思えてしまった。
「分かったわ」
めざめが鈴の音のような声でそう応じると、瞼を閉じて何事かを念じた。
すると次の瞬間、翔子の胸から真っ赤な霧が噴き出した。大量出血が連想されて、真昼ははっと息を呑む。
血。
人間以上に、吸血鬼にとって血は重要なのだ。
見えざる手に持ち上げられるように、翔子の身体が浮かび上がる。
「これでやっと死ねると思うと……せいせい、するわね……」
「まったくその通りでしょうね」
平然と言い返して、翔子の正面に回るめざめ。翔子の手を取り、手の甲に歯を突き立てて血を啜った。
それが――『継承』の合図。
真昼は目の前が魚眼レンズに歪むような心地に包まれた。
見えざる手が指を離し、翔子の身体が地面に墜落する。
(終わったんだ……『継承』が……)
めざめの姿は、特段変わったところはないけれど。
「後悔しているかしら? 夕片翔子を見捨てたこと」
「……してないよ」
「本当?」
「うん。だって私は――」
めざめちゃんの味方だから。
「そう。なら……いいんだけれど」
「あはは…………あれ?」
魚眼が強くなって、視界がぐわんぐわんと曲がり始めた。身体の重心が勝手に後方へとシフトして、頭がずっしりと重たくなってくる。
何が何だか分からないまま、真昼の身体は地面に崩れ落ちていた。
失血多量。
ここまで意識がもったのが、奇跡に近い。
◇
目を覚ます。
見覚えのある天井だ。
四肢に満ちた鉛のような重みを振り払って、真昼はよっこらせと上体を起こす。
(めざめちゃんの家……あれ、私何してたんだっけ)
記憶を呼び起こす。
最初に浮かんできたのは赤色だった。
血の色。
真昼の擦り傷から流れた色であり、めざめの切り傷から流れた色であり、そして翔子から『継承』されていった色でもある。
人の身体にも、吸血鬼の身体にも流れているモノ。
(夕片、翔子さん…………)
悔いたところで過去は変わらない。
細長く息を吐き出し、周囲を見回す。めざめの姿はない。
物音を立てることが躊躇われるほどに、寂静とした空間。チクタクと時を刻む壁掛け時計だけが音を立てていた。
真昼はその静けさを乱さぬようそっと身体を動かして、ベッドから抜け出す。彼女の体重から解放されて、ベッドのスプリングが小さく軋んだ。
「ん………………っ」
ノビをする。カチコチになっていた筋肉がほぐれて、思わず吐息が漏れた。
第三継承者である翔子との戦いが終わって、どれほどの時間が経ったのか分からない。けれど、かなり長い時間眠っていたらしいと察せられた。
身体を動かしても、どこか自分の肉体とは思えないような気だるさが満ち満ちている。
部屋の入り口の扉が開いた。
「あら、おはよう。ずいぶんぐっすり眠っていたわね」
「みたいだね……運んでくれたの?」
「ええ。白昼堂々と空を飛んでね」
「太陽、大丈夫だったの?」
真昼は大量に血をあげて、その末に気絶した。
けれどめざめは、真昼から与えられた血液、つまりエネルギーを信仰耐性に回すことはできなかったはずだ。あの日彼女は、翔子によって傷だらけにされていたし、何時間も空を飛んだ後だったのだから。
「忘れたのかしら? 私は、第三継承者から『爪』を継承したのよ?」
めざめは小さく肩をすくめ、後ろ手で扉を閉めた。部屋の奥まで悠然と歩きながら、いつもの涼やかな声を発する。
鼓膜に残っていた弱々しい声音を思い出し、真昼は内心ほっとした。
「あの晩に貴女からもらった血だけで多少を耐えるくらいには、力を得たのよ」
「そっか。あれからどのくらい経ったの?」
「二日よ」
「二日っ⁉」
二日と聞いた瞬間、胃袋がうごつき始めた。
空腹で腹と背中がくっついてしまいそうだ。丸二日間も眠っていたなんてにわかには信じがたいけれど、これだけお腹がすいていればそれも信じたくなってくる。
「ともかく、シャワーでも浴びてきたらどうかしら? 特別に、食事は用意してあげる」
「う、うん……ありがとう。あのっ」
「メニューの希望は聞かないわよ」
「そうじゃなくて……シャワーに突入してきたり、しないよね……?」
「あら、して欲しかったの?」
「違うよっ! 心配しただけで……」
「期待しているような言い方だと思ったのだけれど。いいから入ってきなさい」
「うん……」
めざめの勧めに従って、シャワールームへと足を運んだ。
いつもよりずっと熱いお湯を全身に浴びて、眠ったままの意識を呼び覚ます。まだどこか気だるさは残っているものの、思考はすっきりした。
以前泊めてもらったときに借りた、縦縞のパジャマに身を包む。
目覚めた部屋に戻ると、丸テーブルの上に朝食が用意されていた。時間帯的にはブランチになるだろうか。
トーストにサニーサイドアップ、ちぎったレタスと小皿に盛られたコーン。それに湯気を立ち上らせる紅茶。
「さ、どうぞ?」
「いただきます」
いかにも朝食といったメニューに手をつけ、自分がどれほど栄養に飢えていたかすぐに理解した。コーンが果実のように甘く、何もつけていないレタスの味が濃い。
特別な品目ではないけれど、こんなに美味しい朝食は初めてだ。
「気を利かせて、貴女は体調不良で学校を休んだことになっているわ」
「ありがとう。何から何までごめんね」
「別に。お礼を言うことでも、謝罪することでもないわよ」
真昼は紅茶を啜りながら、ふとある考えに至った。
佐伯真昼と夜庭めざめの関係。
それは、口先だけで結ばれた契約だ。狙われる真昼を守る代わりに、血を提供して、日中の学園へ登校できるよう協力する……という。
第三継承者亡き今、その契約は終わってしまったのだろうか?
「……ねえ、めざめちゃん」
「なに?」
トーストを小さくちぎって食べながら、めざめが応じる。
「めざめちゃんは学校に……行く?」
「貴女、おかしなことを訊くのね?」
めざめはそれだけ言って、朝食に集中した。
だから真昼もそれ以上の問いかけをすることはなかった。




