第20話 些事Ⅲ
前触れなく、周囲の闇が闇に塗り替えられる。
太陽の熱が残った、生暖かい自然の闇ではない。
誰かの手のひらに両目が押しつぶされているような、人工的で不自然な闇である。夜そのものというよりも、人が抱く夜への漠然とした恐れが具体化したものに思えた。
「来たわね――」
めざめの呟きが全てを物語る。
第三継承者・夕片翔子が現れたのだ。
闇が人の姿になってゆくのを、真昼は固唾を飲んで見つめた。
「よーやく、戦いの場が整ったわ。つまらない追いかけっこを何時間もさせられちゃって、ホント失礼しちゃう」
だから逃げられないように、二人を『常闇の結界』へ閉じ込めたわけだ。
闇は前後感覚を麻痺させる。
どこまでも続いていそうだし、すぐ手前に終わりがありそうでもある。だから翔子が展開した闇の結界は、どの程度の広さがあるのか分からなかった。
はっきりと分かっているのは、以前真昼が襲われたときのように、必ず結界には終わりがあるということだ。壁があって、多少のことではそれを破ることはできない。
「さて戦いましょう、夜庭めざめさぁん」
「……めざめちゃん、私の血を吸って。それで時間を稼いで」
陽が昇れば、事態は好転するはずだ。たとえ結界がひらかれていたとしても、その効力が弱まるかもしれない。
「分かったわ。……私より先に、貴女は死なないでね?」
「あまり冗談になってないよ」
意識朦朧の状態だった。
そこからさらに血を吸い上げられるのは、正直ぞっとしない心地である。
けれど、たとえ生命維持に支障をきたすレベルに血を失ったとしても、ここを乗り越えなければ生きては帰れないのだ。
めざめは血を吸って、真昼のそばから離れた。
常闇のただ中に、二人の吸血鬼が対峙する。
「わたしは隠れて生きながらえる吸血鬼。アナタは生きながらえる吸血鬼」
「そうね。私の力は戦うためのものではなくて、生きていくための力。だからあいにくこうして『爪』を交えるのは、不得手なのだけれど……」
「それでもやってもらわないと――ねぇッ!」
翼を携えた二人の吸血鬼が、目にもとまらぬ速度でぶつかり合った。
空気が爆ぜ、音が押しのけられる。
遠巻きに二人の様子を眺めていた真昼は、発生した強風に煽られて尻餅をついた。血を失って、その程度の衝撃にも耐えられなかったのだ。地面がぐらぐらと、左右に揺れて見える。
(ちょっと……マズい、かも)
自分の意識が頭部の後方にあるような気がした。全身が重たく、意識が地を這うように低まったところにある。
高速でやりとりし合う吸血鬼に視線をやった。
バスケットボールのような濁ったオレンジを纏う、夕片翔子。
彼女の気配はまるで巨大な蜘のように四方へと四肢を伸ばし、先端は刃のようにとがっていた。
対するめざめの纏う気配は、作り物じみた白。
めざめの身体を守るように周囲へ広がっていた。さなが水の中で幾重にも折り重なって境目を失う、ミルクのような。
真っ暗闇を、互いのオーラが浸食しあう。
二人の肉体が互いを傷つけ合っていたとしても、きっと本質的な闘争はそこにあるのだろうと、真昼は直感した。
闇を、どちらが自分の色に染めるのか。
夜の持ち主となるのは誰なのか――。
「めざめ……ちゃん……」
唇の端から掠れた声が零れる。
互角に渡り合っているように見えて、肉体の消耗が激しいのはめざめの方だった。完全な不死性を持つ翔子に対して、回復に時間がかかるめざめ。
戦いになった時、どちらが有利かは火を見るより明らかである。
(だけど――吸血鬼の戦いは、暴力で決着がつかないんだよね)
不死を帯びた者同士の戦いだから、殴り合いでは終結しない。
肝要なのはどちらか一方が力を喪失すること。
陽の光に晒され燃え尽きたときや、信仰によって完全に清められたとき。
そしてなによりも、自分の血が相手に『継承』されてしまったとき。
めざめの血が翔子によって吸血されなければ、敗北ではない。
「ぁ…………………………」
目の前が真っ白に染まる。
血を失いすぎた。意識が混濁へと呑まれる。
◇
「あれ? ここ……どこだろう」
真昼は漂白された空間に佇んでいた。どこまでも白。あまりにも白が続きすぎて、広い空間だか狭い空間だか判然としなかった。
濃密な暗闇と同じ。
視線を上げると、そこに横長の絵画が現れる。
コラージュのように、雑多なモチーフが並ぶ油絵だ。
大男が両手を広げても、とても抱えきれないほど幅のある巨大な絵。左方から陸上競技に汗する選手や、オムライスを食べる子供、額を寄せ合って一冊の本をのぞき込む女学生の姿もある。
上手だけれどもどこかおぼつかない、温かみのあるタッチだった。
「これ……めざめちゃんの家にあるやつ、だよね」
『あまりじろじろ見ないで。恥ずかしいわ』
この絵を見ていたときに、めざめが言ったことが想起される。あの時はレトリックとして下手に出ているのだろうと勝手に納得していたけれど、今にして思えばそれは本心だったのかもしれない。
「どうして恥ずかしいんだろう?」
絵画の右方はぽっかりと空白になっている。それで何かを表現しているというより、ただ描くものを思いつかなかっただけのように思えた。
絵の前に、少女が立っていた。
小学五年生くらいの女の子。真昼が、教師から手を差し伸べられたときと同じくらいの年齢である。
少女は背伸びをして、筆を操っていた。
「めざめちゃんが描いた画だったから……だったんだね」
「知っているものを描いたの」
「知っているもの……?」
「だから、これ以外のものは描けないの」
真昼は酩酊感を覚えた。血を失ったときと同じだ。
直感で、この意識の世界をあとにするのだと分かった。絵画と少女からどんどん距離が遠ざかって、やがて米粒のようなサイズになってしまう。
「じゃあね」
と、最後に聞こえた気がした。
◇
はっと目を開いたとき、真昼は再び『常闇の結界』にいた。
だが、オーラのようなものをぶつけ合っていためざめと翔子の姿はない。帳が下りた直後と同じように、そこにはとうとうたる夜の闇が広がっているだけ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…………」
少ししてようやく、目の前にめざめが倒れていることに気づいた。
全身が傷だらけになっていて、制服は至る所が引きちぎられている。そんな痛々しい姿のめざめを見るのは、古傷がうずくように心が痛んだ。
「だ、だいじょう」
「ようやくお目覚め? 佐伯真昼さん」
死角から声がして面食らう。声の主を探そうと視線を彷徨わせるが、すぐに首根っこを掴まれて無理矢理立たされた。
翔子だ。
「めざめちゃん、かなーり健闘したんだけどね。どのくらい健闘したかって言うと、初めにつけた傷が治り始めているくらいには健闘した。でも、戦いが長時間になればなるほど、消耗戦にもつれ込むほど……わたしの方が有利」
「どうして……私を狙ったの?」
「それが知りたいだろうって思って、めざめちゃんから血を奪わず、アナタをたたき起こしたんだよ。ホスピタリティが旺盛だから」
ゴミをポイ捨てするような調子で、真昼の身体を放り投げた。
地面を転がり、看板のようなものにぶつかって止まる。真昼の地域を割るように流れている、馴染み深い川の名前がそこに記されていた。
結界の中であっても、街の様相は変わらないのかと場違いなことを考える。
「教えてあげる。……わたしの『爪』は隠匿。姿を変え雑踏に混じり、霧となって夜の冷たさに潜む者。いわば偽る才能を与えられているの。だからかな。私は継承者の中で一番、太陽光や十字架が苦手だった」
口の中に土を感じる。
真昼は唇についた土を吐き出しながら、翔子の方を見た。
暗闇の中にぼうっと浮かんで見える吸血鬼の威容。
「継承するのならまずは第四継承者――そう考えたのは、これが理由。夜庭めざめが持つ信仰に赦される力がないと、わたしは弱すぎるもの。でも、第四継承者に近づいてすぐに難題が立ちはだかった」
「難題…………?」
「夜庭めざめは滅多に家から出てこない。そして彼女の邸宅は、信仰による結界に守られていたのよ。吸血鬼が自身を守るために、自宅に十字と聖書の文言をあしらうなんてね。第四継承者の力あってこそだわ」
「結界……」
夜庭邸の周囲をぐるりと取り囲む壁には、十字架や英文が刻み込まれていた。めざめの母がしつらえた結界だとか。
真昼は一呼吸遅れて、翔子の言っていることを理解した。
「めざめちゃんから血を奪うためには、彼女を倒さなければいけない……でも、めざめちゃんはあなたが触れることのできない結界の中に引きこもって、手出しができなかった」
「そういうことだよ」
「なら、私を襲った理由って――」
「誰でも良かったの。夜庭めざめの友達になる資質さえあれば」
翔子に悟られないよう、こっそり手を動かす。
できるだけ自然な仕草を装って、自分の首にぶら下がったロザリオを手に入れようとした。
それだけが、状況を打破する唯一の方法であるはずだ。
「佐伯真昼さんを選んだ理由は、アナタがお人好しだから。いくつか用意していた策のうちの、低い可能性の一つだったのに、ここまで頑張ってくれたアナタには感謝しているんだよ。そのおかげでわたしは、こうして第四継承者を追い詰めた」
真昼は痛みにもだえるように地面に横たわった。けれどそれは真実ではなく、胸元からロザリオを手中に収めるための芝居であった。
制服が泥にまみれたこと以外、収穫はあった。
手のひらに固い感触。
「アナタたちがきゃっきゃと乳繰り合っている間に、わたしは夜庭邸周辺へ魔術を仕込むことができた。だからアナタたちは夜庭邸へ逃げ込むことができず、あえなく私に発見されて今に至る。もっとも、夜庭めざめさんにわたしの正体がバレてしまうんじゃないかって、ヒヤヒヤした場面はあったけれどね?」
「めざめちゃんが言ってた……その姿が、あなたの本当の姿なの……?」
「ええ。佐伯真昼さんの前に現れた時の私は、偽った姿」
言うなれば、第三継承者というキャラクターを演じていただけだったわけだ。
第三継承者そのものの姿は、夕片翔子として学校に通っていた。
「どうして、本当の姿で学校に通っていたの? めざめちゃんにバレてしまうリスクがあるなら、姿を偽るべきだった。それに私が気づけたのだって――」
「そんなこと、どうだっていいじゃん」
「良くないよ。……気になるから」
「それ、どうだっていいって意味じゃないの?」
「違うよ」
重々しい声音の翔子に対して、張り上げた声がしぼまない。真昼はどうあがいても吸血鬼に勝てないから、逆に開き直れた。
「ふうん……わたしが、この姿で学校にいた理由、ねぇ」
強ばっていた表情からすっと力が抜け、翔子は自分の身体を見下ろした。
背中にはやはりコウモリの翼が広がり、纏う気配はおどろおどろしい。けれどそうしていると、普通の女の子のようだ。
体育館の隅っこで退屈そうにぼうっとしている少女と、同じ人物。
「この姿だけが本物だから、かな」
「本物……?」
「理解する必要なんてないよ。そろそろ佐伯真昼さん、死んでもらおっかな」
会話を打ち切ると、再び強ばった表情を浮かべる翔子。
真昼はいよいよ使うべき時が来たと、ロザリオを握りしめた。
「大好きなお友達の前で――バラバラになって、死んで!」
「――っ!」
翔子が声を張り上げたその瞬間、真昼はロザリオを投げつけた。




