第19話 些事Ⅱ
雑居ビルの一室に不法侵入した。
真昼とめざめはようやく一呼吸吐いて、腰を落ち着けることができる。陽が出ているといっても、突如『常闇の結界』に包まれて、第三継承者が姿を現さないとは限らなかったから。
屋内の方が危ないといえば危ないんだけれど。
「でも、私たちがここにいるとは分からないでしょうからね……」
「吸血鬼センサーとかないの?」
「持っている吸血鬼はいるかもしれないわね……」
「夕片さんは……第三継承者は……どうなんだろうね」
「彼女も身体力が凄まじいタイプではないから、どうかしら」
「第三継承者は『隠匿』に特化した爪――なんだっけ」
「ええ。私と同じ一芸に秀でているタイプね」
霧になったり小動物になったり、あるいは全くの別人の姿に変化できる力。それを一芸と表現してしまうのは、やはりめざめが吸血鬼だからだろうか。
真昼は部屋の最奥にある窓へと視線をやった。
日差しが差し込まないよう、侵入直後にブラインドを下ろした。
それに近づいて、自分の瞳の幅だけこじ開けて見る。さながら往年の所轄刑事課長のように。
「もうすぐ日が暮れるね……」
「そうね。うんざりするほど昼が長いわ」
「夏が始まるからね」
裏を返せばそれは、夜が短いということである。
第三継承者である夕片翔子と、第四継承者である夜庭めざめの戦い。
それがどのような趨勢を辿り、決着するのか。
門外漢の真昼にはまったく想像ができない。けれど、きっとそれは今宵のうちに訪れるであろうということだけは確信できた。
この、たった数時間ほどで。
ぞわりと、真昼の背筋を這い上がる怖気。
(もし……めざめちゃんが死んでしまったら?)
そんなものは、想像したくない。
窓際から離れて、真昼はそっと胸に手を当てた。
制服の布越しに、ゴツゴツとした感触が手のひらに分かる。ロザリオ。
先日第三継承者を退けた、ラッキーアイテムだ。
(鬼と罪深い女でも、見守ってくださいますか)
信心の欠片もなかったのに、こんな時だけナニカに祈りたくなる。
「ひとまず夜明けを待つことにしましょう。太陽が出れば、私の方が有利よ」
「うん。――ねえめざめちゃん」
「なにかしら? 吸血を遠慮する気はないわよ。命が懸かっているんですもの」
私たちの、と唇を動かして自分の胸と、真昼の方を順に指さすめざめ。
「それはもちろん。そうじゃなくて……十字架って、夕片さんに効くかな」
「効くかもしれないわね。十字は吸血鬼由来の全てを拒絶して、無に帰すから」
「吸血鬼由来……ってことは」
「霧になった第三継承者に十字架をぶつければ実体になるでしょうし、結界にぶつければ穴を開けることもできるでしょうね。でも、十字を見せたりぶつけたりしたって、直ちに吸血鬼が死んでくれるわけでもないわよ?」
「うん。それは知ってる」
背後から追いすがった翔子を吹き飛ばしたとき。
彼女の身体は十字によって崩壊するなんてことは、なかった。
陽の光に晒されても燃え上がるだけで、灰になって消えるわけではないように。
「夜が来るわ」
めざめが呟いた。
その通り。オレンジに染まる町並みから、温かみが消えていく。家々に闇が訪れる。まるでそれは、街が青ざめていくような景色だった。
吸血鬼の時間が来た。
夜の持ち主を決める戦いが、始まる合図だ。
◇
ふと、真昼は顔を上げた。
(寝てた……っ)
そう知覚した途端、喉元にこみ上げる焦燥感。
慌てて周囲を見回して、瞼を閉じたときと同じ、雑居ビルの一室であることを確認する。調度品の類いが一切ない、がらんどうのような部屋だった。
薄暗がりに閉ざされ、今が夜のただ中だと思い出させる。
視線をずらした先に、めざめが立っていた。
「眠っていたのはほんの十分よ」
「ごめん。油断してたよ……」
「貴女が警戒したって仕方がないわよ。気づけないでしょ」
「それもそうだね」
窓の外へ視線をやる。
ブラインドの隙間から、ちらちらと輝く夜景が見えた。
夜は嫌いじゃない。
防犯意識から長時間出歩いたりしないが、冷えた夜の空気に触れるとなんだか清々しい気持ちになる。遠巻きに虫の音や、道路を行き交う自動車のエンジン音なんかが聞こえてくれば、数分散歩を延長した。
けれど、今の夜は全くの別物に見える。
まるで――檻のような。
「存外、私たちに勘づかないわね。第三継承者は」
「もし――戦いになったら、めざめちゃんは勝てる? 夕片さんに」
「さあ? 自信はないわね」
「もし――めざめちゃんが追い詰められたなら、自分の命を優先してね」
「もちろんそうするつもりよ」
本当に? そう訊ねたかった。
しかし喉元まで出かかった言葉は、つばと共に再び身体へと落ちていく。何度念を押したって、めざめが自分を犠牲にしないとは限らない。
それに今は、自分たちが生き残る道を探そう。
「陽が出るまで持ちこたえれば……私が勝つわ。きっとね。だから心配しないで」
「……うん、そうだね」
それから一時間ほどだって――異常が、訪れた。
「やーっと見つけた、お二人さんっ」
場違いなほどに明るい声。夜の帳をかきむしるような陽気な声音に、真昼とめざめは否応なく奮い立たされた。
声がした方を一瞥する。けれどそこには、濃い闇があるだけだ。
(いない――? いや、第三継承者は隠匿に長けている、んだよね)
真昼が理解したと同時に、闇が形を持った。まるで錯覚を利用したアートのように、先ほどまで見つめていた闇が次の瞬間には人の姿へと変じている。
夕片翔子だった。
「その姿なのね、第三継承者さん」
「ええ。これがわたしの姿」
ぞくりとするほど、湿った声。
今空を覆う不気味な闇と同じように、底知れぬ冷たさが秘められていた。
「それじゃあそろそろ二人とも――死んで貰うわねっ」
翔子が動くのと、めざめが動くのとはまったく同じだった。
真昼には知覚できない速度で、めざめが真昼を抱え、雑居ビルの窓へと飛び込む。ブラインドや窓ガラスをぶち破って、二人は夜の空へと飛び出した。
二人がつい先ほどまで立っていた場所には、翔子の爪が突き立てられる。
「待ってよぉ――っ!」
「ひとまず逃げようっ、めざめちゃん!」
「そうね……っ」
ビルとビルの間、建物と建物の間を、めざめが翼をはためかせて滑空した。
真昼の鼓膜にはびゅうびゅうと唸る風の音と、背後に追いすがる翔子の声だけが聞こえる。足下を凄まじい速度で消えていく自動車やバイクの音は、不思議なほどに聞こえてこなかった。
めざめに抱きついたまま、ちらりと頭上を見やる。
普段のめざめの姿からは想像できないような、少し焦った表情をしていた。
「待ってって――言ってるでしょぉっ!」
翔子の咆哮と同時に、空を切る飛来物。真昼の手刀ほどもある刃が無数に襲いかかり、めざめはそれを避けるために飛行態勢を崩さざるを得なかった。
急行落下しながら、ビルの角を曲がるめざめ。
壁面をすれすれに飛んだ時、めざめの肌にもはっきりと分かるほど空気が違った。あと数メートル違えば、二人の身体は壁面に叩きつけられていたのだろう。彼女がそんなミスをするはずもないけれど、それでもぞっとしない。
その壁面に、翔子が放った刃が突き刺さる。
刃は少しして、霧になって消えた。
(これも吸血鬼の力――)
「おっきいの、行くよぉ――っ!」
翔子の軽やかな声。
真昼はそれにつられて、背後を見た。
「めっ、めざめちゃん! 大きいのがくるよっ!」
「さっき聞いたわ」
人の大きさほどありそうな刃がこちらを見ている。
刃といえど、それは艶やかな金属の表面を持たない。布状の闇が幾重にも折り重なり、結果的に大剣のような姿をしているだけだ。
「ごめん真昼ちゃんっ!」
そう叫ぶと、めざめは身体をひっくり返した。重力に対してお腹を差し出すように。そうすると、彼女に抱えられている真昼が空に近くなる。
その動作を、彼女はとてつもない勢いで行った。そして動作終わりに、真昼を抱えていた腕から力を抜く。
「うわああああ――っ⁉」
必定、真昼の身体は天高く放り投げられた。
めざめとの距離があっという間に開いていく。
二人の隙間を、翔子が作り上げた大剣が通り過ぎていった。めざめが真昼を投げていなければ、二人とも真っ二つにスライスされていたことだろう。
攻撃を回避しためざめはすぐさま、上空へ飛び上がった。容易いことのように宙で体勢を切り返すと、トップスピードで真昼へ迫る姿は、やはり吸血鬼然としている。
「真昼ちゃんっ」
再びめざめに抱きとめられ、真昼は大きく息を吐き出した。
あまりの出来事に心臓がバクバクと跳ね始める。
宙を漂っているときは自分がどんな状態にあるか分からなかった。遅れてそれを理解した瞬間、数秒前のこととはいえ身体が恐怖を訴え始めたのだ。
「きゃあっ」
小さな悲鳴。
めざめの翼に、小さな刃が突き刺さっていた。それはすぐに霧になって消えるけれど、彼女の翼に穿たれた傷は容易くは癒えない。
(不完全な不死性――って、こういうことなんだ)
瞬く間に傷を癒やす完全なる不死と、何倍も時間がかかってしまう不完全な不死。
信仰に赦される代わりに、吸血鬼としての力が低いめざめは、後者だという。
「めざめちゃんっ!」
「な、なにかしらっ、見ての通り今は取り込み中なんだけれどっ」
「血を吸ってっ!」
「んな、なに言ってるの」
「血をエネルギーに変えるんでしょ? はやく!」
めざめはおずおずと、真昼の首に噛みついた。
そして一口分の血を吸い、口を離す。
吸われた血の量が少なかったせいか、あるいはそもそも飛行しているせいか、真昼は普段感じている浮遊感を覚えずにすんだ。
「真昼ちゃん」
「大丈夫そう、かな?」
「ありがとう」
めざめの翼にあった傷は塞がっていた。少し目を離した隙に、あれだけの重傷(人間基準)が癒えてしまうのだから、めざめだって十二分に吸血鬼である。
夜の空を舞台としたチェイスはなおも白熱した。
百貨店の外壁を彩る垂れ幕が、吸血鬼の通り過ぎる勢いで暴れ狂う。
高度を下げ、道路標識や信号機の隙間を縫って走ると、ビルの隙間を走るよりもずっとけたたましいほどに風が鳴った。
「めざめちゃん! 血!」
真昼が叫ぶ度に、めざめは血を飲んだ。
飛び込んでくる攻撃を全て完璧に避けるのは困難である。めざめはトップスピードを維持して空を滑空し、避けきれないものは甘んじて受け入れた。
その傷の即時回復を、真昼の血液で補う。
消耗戦にもつれ込んでいた。
けれどそのコンビネーションは、うまく機能している。
(私の血が、翌朝までもてば――いいんだけど)
その時には干からびてしまっているかもしれない。
チェイスがどれほどの時間続いたのか分からないが、かなりの長時間にわたったことは確かだ。めざめの体力的消耗が色濃くなってきた段になって、追いすがる夕片翔子の気配が消えてなくなった。
「はぁ……はぁ……はぁ、諦めてくれたのなら、いいんだけれど……」
「だと、いいね……はぁ、はぁ……」
二人して息を切らしている。何時間も全力で空を飛び回っためざめと、おそらくは一回の献血よりも多くの血液を提供した真昼。
体力的に消耗が目立ってしまうのも、無理からぬことであった。
繁華街を離れ、郊外に流れる川の近くに舞い降りる。
静けさと、そして制止の中に佇むのはとても久しぶりのことに思えた。
「途中から速度を上げることに集中したから……一時だけ、撒けたようね……」
「傷は大丈夫? めざめちゃん」
「貴女の方こそ。沢山血を飲んだわ」
「私は大丈夫だよ……っとと」
ガッツポーズして見せようと右腕を持ち上げたとき、その勢いに負けて身体がよろめいた。そこをめざめに支えてもらう。
こんなことでふらついてしまうとは、どうやら自認以上に体力を消耗しているらしい。
額にうっすらと浮かんだ脂汗を腕で拭って、改めて顔を上げた。
「うん……そこそこは、大丈夫」
「そ。私もそこそこは大丈夫よ」
つかの間の平穏だ。
少なくとも、刃状のものや強大な膂力で命を奪おうとする刺客の存在はない。ビルの壁面に叩きつけられる心配も、地面に墜落する恐れもない。
だが、それが一時のものと二人は理解していた。
待っていればいずれ、第三継承者は現れる。
夕片翔子――。
今にも闇が彼女の姿になりそうで、真昼は背筋が寒くなった。




