第17話 残り香
真昼の反応は、驚きの声をあげることでも、めざめの裸体に絶句するでもなかった。
まず身体を半身にする。
そして片腕で胸を隠し、もう片方の腕で下腹部を隠した。
それだけでは真昼の本能は安心できなかったのか、右の太ももを持ち上げてめざめの視線に対する壁を作る。
「めめめめめめめざめちゃんっ⁉」
「慌てすぎよ、真昼ちゃん」
二人の声が狭いシャワールームで乱反響した。
大慌ての真昼に反して、どこまでも水平な水面のように落ち着いているめざめ。
彼女は後ろ手でシャワールームの扉を閉めると、奇声を上げる真昼が落ち着くのを待っていた。
「い、一緒にお風呂入る、の……?」
「いいえ」
「じゃあ、その……どうして?」
ざあざあとシャワーが降り注ぐ。
真昼が言葉を紡ぐ度に、唇の端で小さくしぶきが上がった。けれどめざめの乱入に驚きすぎて、シャワーを止めようという発想に至らない。
「血を……貰いに来たのよ」
「血?」
思わずめざめの瞳をのぞき込む。
彼女の目は真っ直ぐに真昼を見つめ返していた。
そこに迷いはない。
だが――それはおかしかった。
(だって…………血は……)
昼は人の領域。吸血鬼が活動するにはリスクが大きすぎる。
だから真昼が血を与えることで、太陽光への耐性をあげているのだ。
しかし今は、夜。
めざめの――吸血鬼の時間である。
外部からエネルギーを補給する必要は欠片だってない――はずだ。
「夜だから、血はいらないんじゃ――」
真昼の言葉を遮るように、めざめが大きく一歩前へ踏み出した。
だだっ広い印象のあったシャワールームとはいえ、あくまでも一人用。めざめの決して広くはない歩幅でも、優に距離を詰めることができた。
手を伸ばせば触れる距離に、めざめの素肌が晒されている。
「確かに夜だから、血はいらないわ」
「な、なら……」
「でも……それでも、今は貴女の血が飲みたいの」
ほんの少しだけ、めざめが近づいた。
裸体でいるとき、人のパーソナルスペースは広くなる。
それはきっと、動物としての防衛本能が働くからだけではない。
衣服を纏っているだけで、人は誰もが裸で生まれた。
そしてむき出しの裸体には、誰の心にも性愛が潜んでいる。
それら野ざらしの野生を生暖かいベールに包んで、互いに指摘しないように生きていくことに慣れすぎてしまったせいだ。
だから、肉体という最後の自分を余人から守るため、人はパーソナルスペースを外へ外へと広げていった。
だが、真昼はめざめに迫られていることに恐れを抱いていないと気づく。
どうしてだろう?
何度も吸血のために身体を重ねたためだろうか。
それとも、他になにかあるのか。
「ダメ……かしら」
「いい、よ」
ぽつりと返答した途端、薄もやに包まれていた真昼の意識が呼び起こされる。
理解していたはずの状況を、真昼は理解しなおしていた。
頼りなげに自分の身体を抱きしめていた真昼は、いざなうような手つきのめざめに解きほぐされていく。彼女は真昼の手首をそっととると、二人の距離を縮めるのに邪魔にならないよう身体の脇にどけた。
そうすると、いよいよ二人の肉体同士を妨げるものは何もない。
めざめの全容が、真昼の網膜へと飛び込んできた。
「………………っ」
絶句。
さっきから絶句しっぱなしなんだけれど、それでもやはり言葉を失う。
最初に連想したのは、この世に存在しない氷像だった。
羽毛よりも柔らかな筆先で一息に描いてしまったような、現実離れしたしなやかな輪郭。絵や写真でしか目にできないような、一面銀世界の純潔。
そして何よりも、それら幻想的美しさを肉体へと堕落させてしまう、筋肉や脂肪、そして浮かび上がった陰影。
夜庭めざめは美しいけれど、そこにいた。
絵でも像でもなく、肉体的なメリハリがそこにあった。
「いくわよ………………」
鼻と鼻が触れあってしまいそうな距離にまで、めざめは迫っていた。
見慣れたはずの彼女の顔立ちは、やはりそばで観察するとぎょっとするほどに端整。
大きな瞳には、まるで万華鏡のようにチラチラと異なる色彩を放つ虹彩がきらめく。
小さくて可愛らしい形をした鼻の頭から、降り注ぐシャワーの水がぽたぽたと垂れていた。うっすらと桃色の唇の隙間にいつも真昼の首筋へ穴を穿つ八重歯が覗いており、これからの行為を予感させる。
普段なら、一本一本が意識を持っているかのように風にたなびくめざめの頭髪も、ずぶ濡れになって、いくつかの房でめざめの額や頬に引っかかっていた。
顔がすっと横にそれて、めざめの肩が目の前にくる。
それから数秒待っていると、やがて首筋に鈍い痛みが走った。
「ん…………っ」
胸や腹に、他人の身体を感じる。
熱を感じ、肌を感じ、そして体重を感じる。
真昼の手首を掴んでいためざめの両手が、するすると腕を伝ってのぼっていった。やがて彼女は、首筋に噛みついていられやすいよう、真昼の両肩を抱く。
制服越しではなく、むき出しの肌をなぞられていることがくすぐったいような、恥ずかしいようなワケの分からない思考へ陥りそうだった。
しがみついてくるめざめを抱き留めるように、真昼も両手をめざめの腰のあたりに回した。骨や内臓が包まれているのか疑わしく感じられるほど、腰回りが華奢でほっそりとしている。
きっと真昼が彼女の母親なら、無理矢理にでもご飯を食べさせるところだ。
ふと、手のひらに固い感触があった。
皮膚越しに、うっすらと感じる程度だけれど……骨盤だ。
「は、ぁ…………っ」
少しずつ血を吸い上げられる。ペースは緩やかで、いつもの何倍も慎重に血を吸っているのが真昼にも分かった。
(夕方にも一度吸っているから……気を、つかってるのかな……?)
血を吸われる量が少なければ、身体としては楽だ。
けれど、少しずつ吸われるのがもどかしくもあった。隔靴掻痒、指が絶対に届かないところがむず痒いのと同じだ。
「はぁっ、はっ…………あうっ」
真昼は身体の芯に感じるむずがゆさから逃れようと、腰をひいて、両脚をとじ合わせようとした。
しかしそこへ、めざめの片脚が割り込んでくる。吸血のために密着を維持する、そのために足を真昼のそばに置こうとしたのだろう。
だが、思いがけず真昼の両太ももでめざめの太ももを挟み込むような形になって、先ほどよりも緊密な距離感になった。
「……んっ……ねぇ…………」
首筋から牙を抜いて、真昼の耳元で囁く。
誰かに聞かれるわけでもないのに、あるいは浴室の反響を嫌ってか、押し殺した声音だった。ただ、そうしているとめざめの透き通った声帯が余計に強調される。
耳たぶや耳の縁に、ぞわぞわとこみ上げるものを感じた。
「夜も遅いわ。また、第三継承者が貴女を狙うかも」
「うん…………そう、だね」
「だから、今日は客間を用意してあげる」
すっと、めざめの身体が離れた。
彼女の顔立ちは壮絶だ。
真っ白な肌に、まるで作り物のような顔立ち。色素の薄い髪もあって、とても生物的には見えない。真昼が彼女の瞳に何を見ているのか、今の瞳は真珠のように濁った白を湛えている。
だが、口元だけが鮮烈に朱だった。
唇の上にうっすらと残る、真昼の血の跡。
「真昼ちゃん」
至近距離で見つめ合って、めざめが厳かに口を開いた。
吸血中の甘えるような声音でも、普段の凜とした声音でもない。
お母さんのことをぼそりと呟いたときのような、呼吸混じりの苦しげな声だった。
どうして苦しそうなんだろう?
真昼は頭の片隅に、消えゆく水泡のような疑問を抱いた。
「ありがとう……感謝、しているわ」
「…………」
「私を、学校に導いたこと。私を、買い物に連れ出したこと。……私に、血を与えてくれていること。貴女はそうではないと言うけれど、私は貴女に、何も返せていない」
「そんなこと――」
本当に、そんなことはないのに。
けれど、伏せられためざめの目を見ていると、二の句が継げなかった。
「だから……感謝を伝えたいの」
「感謝……?」
「ええ。感謝は言葉と態度で、示すものだから」
そのあと二人は、一言も交わさずにシャワールームを出た。
寝間着に着替え、寝室に潜り込んだ。
それから、寝た。
◇
瞼を開いて真っ先に視界に飛び込んできたのは、シーリングファンの規則的な運動だった。
ファンの動きをじっと見ていると、自分が追いかけているのが残像なのか本体なのか分からなくなってきて、少しだけ乗り物酔いに似た心地を覚える。
「ん…………」
身体を起こし、大きくノビをした。
背中がぽきぽきとこぎみよく鳴って、一息つく。
「よく寝たぁ……いつもより早く、ベッドに入ったもんね……」
彼女は、視線を落として自分の身体を見た。
めざめから借りたパジャマ。上下とも白と黒の縦縞である。めざめが着用するものだからか、サイズが小さかった。袖なんて七分丈みたいになっている。
けれど寝苦しさのようなものは感じなかった。
(体格差があるって言ったって、男女の違いほどはないもんね)
真昼はベッドの右方へ視線をやった。
そこには、自分の胴体と同じくらいの大きさがある枕に頭を預けて、すやすやと寝息を立てる夜庭めざめがいた。彼女もおそろいのパジャマに身を包んでいる。
「めざめちゃん…………」
昨夜、彼女が抱えている孤独のなんたるかに触れた。
(私にできることなんて、ないかもしれないけれど――)
それでも、孤独だった真昼に声をかけた小学校教師と同じように。
ほんの些細なことがめざめの心のどこかに居座ってくれるかもしれない。とても小さな可能性だが、そのために自分にできることをしよう。
真昼はこっそりとベッドを抜け出すと、窓に近づいた。
遮光カーテンの裏に、眩いばかりの太陽光が満ち満ちている。
薄暗い室内にいた真昼は思わず目を細めた。
この光を、めざめは忌々しげに眺めていたのだろうか。
真っ青な瞳の少女。あの時見かけただけの少女と、まさかこんなにも懇意になろうとは真昼にも想像ができなかった。
「ぁ…………っ」
ふと、唇の裏をそっと舐めたときに、気づく。
昨日の、血の味。




