第16話 糸しとど
空を、ゆっくりと漂う。
夜空を遊泳するような、静かで緩やかな時間。
後方へと消え去る町並みや街灯を眺めるのも爽快だけれど、こうして家々をつぶさに観察しながら揺蕩う夜も心地が良かった。
めざめと片手だけを繋いで横並びで飛行するのも、恐怖心は消えた。
墜落死がまったくよぎらないわけではないが、きっとめざめが助け出してくれるだろう。そんな風に楽観して構えられる。
(不思議……夜空の散歩がはじまって、どのくらいの時間が経ったのだろう)
とても長い時間にも思えた。
とても短い時間にも思えた。
所在なさげに空を流れていく一ちぎりの雲のように、そこだけが自分の人生から浮かんでいるように思える。
日常ではない。
日常の中の非日常でもない。
完全な、純粋な、混じりっけのない非日常。
あり得なかった、今はあり得ている瞬間だった。
「めざめちゃんはどうして――学校に、いたの?」
「………………」
本当は一番聞きたかったことだ。
そして、一番踏み入りづらいことでもあった。
そもそも真昼がめざめと接点を持ったのは、めざめが節海女子高等学校に籍を置いていたからだ。不登校状態で、完全な幽霊学生ではあったけれど。
ただ……彼女は吸血鬼。
学校にまともに通うことなど不可能だ。
不登校であることには納得できるけれど、そもそも在学しているということについては、疑問符が残る。
「少し前――知り合いの子供が、あの学校に入学したって聞いたの」
「それで、学校に……?」
「ええ」
それきり、ぱたりとめざめは口を閉ざした。
知り合いの子供……それはつまり、友達ということだろうか。
正直な感想、意外だった。
めざめが誰かのためにいそいそと入学の手続きをして、日差しを躱しながら学校に通い、その人とコミュニケーションをとったのだと思うと。
(今はその人と、交流が続いていないの?)
訊ねたかったけど、そこに踏み込むほど真昼は愚鈍ではなかった。
十六年という短い人生の中で培った対人関係のコツでもあるし、それ以上にここから先は足下がガラガラと崩れてしまう確信があったから。
硝子のようなめざめの肌が、無残に崩れていってもう二度と触れられなくなる。
そんなのはゴメンだ。
「どうやって入学したの? たぶん、めざめちゃんは普通の戸籍とかないよね」
「吸血鬼には簡単な催眠術が使えるのよ」
「催眠術でどうにかなるもの⁉」
「ええ。普通の人間に、吸血鬼の催眠術に抵抗することは難しいわ」
「なら、悪いことなんでもし放題なんじゃ……」
効力の程度は分からないが、相手に絶対遵守を強いることができるのだ。
それは魅力的である。
「馬鹿ね。使いどころは難しいのよ」
「そうかなぁ。ほら、巨乳は重くて大変だからいいことないよー、みたいな話じゃないの? あとは、背が高くていいね、スタイルよく見えるからー、みたいな」
背が低い方が愛らしく見えることが多いのは事実だ。それに、ヒールなど底の厚い靴を履くことでカバーすることができる。
真昼はそれなりに背が高い程度なのでそれほど悩むこともないけれど、中学生の時に同級生の男から「俺より高い女はちょっと無理だわ」などと陰口をたたかれているのを耳にしたときはショックだった。
ショックといっても、感じなくていいコンプレックスを押しつけられたこと。そして、男性的な視線を押しつけられたことへの不快感が大半を占めていたけれど。
(私は背が高いのもチャームポイントだと思ってますから!)
閑話休題。
「貴女ねぇ、例えば夜庭めざめという人物がこの国の総理大臣だと催眠術をかけて回るとして、どれだけの人間に施さなければならないと思っているのよ」
「果てしないね……」
「それに、日をまたいで催眠をかけて回るとして……私のことを総理大臣だと思い込んでいる一と、そうでない人が出くわして会話でもしてみなさい。コミュニケーションがかみ合わずにガタガタになって、不審に思われるでしょ」
「それもそうだ」
「そのうえ、それがきっかけで催眠術がかけられているんじゃないかって疑いを持って、最終的に自力で催眠術を抜け出してしまったら最悪ね」
「人間の力でも抵抗できるの? 難しいんじゃ……」
「一人の力ではね。大人数で会話を繰り返していけば、催眠術が甘い部分を押し広げられてしまう。記憶の違和感に気づかれて、最終的には自力で抜け出すわ」
「なるほど……万能じゃないのは分かったよ。でも――」
それでも、かなり便利な力だ。
宿題を忘れたとき、先生に使って減点を取り消して貰うこともできる。あるいはお店の店員に能力を使って、堂々と万引きしてしまうことだって可能だ。
夜庭めざめは吸血鬼の能力自体が薄弱だと説明していた。
なら、彼女は吸血鬼の中でも催眠術の力が弱いということだろうか。
「ねえ真昼ちゃん、一度私の家に戻りましょうか。貴女のオシャレなハット、私の家に放置したままだしね?」
「ふふっ、そうだね」
夜空に道はない。
だから二人は自由気ままに歩みを進めた。時に真っ直ぐ夜庭邸へ進み、時に曲がりくねりながら、時に歩みを止めて眼下を眺める。
文字通りの散歩だ。
三十分ほどかけて、二人は夜庭邸に舞い戻った。
地面に降り立つと、身体が上下左右にふわふわと安定しないのに慣れていたせいで、逆にぐらぐらと不安定に感じられた。
自分の足取りが、目を回したときのようにおぼつかないのが、間が抜けていて楽しい。
「そうだ真昼ちゃん。せっかくなんだから、シャワーでも浴びていったら?」
「うん。せっかくだし、ご厚意に甘えようかな」
「場所は分かるでしょう? タオルは好きに使っていいわ」
「ありがと」
「狭いのは我慢しなさい。女の子でしょ」
「その言い回しは初めて聞いたよ?」
真昼は廊下を歩きながら、日々のルーティンを思い返していた。
学校に向かう前、真昼は必ず夜庭邸に立ち寄る。
そして、羽化の直前まで葉っぱの内側で丸まっている芋虫のように、ベッドで縮こまっためざめを抱き起こす。
朝一の吸血をしたあと気絶して、めざめがシャワーと着替えを終わらせるのを待つ。調子がよければその間は気絶しないで、紅茶を啜って待った。
その時、浴室の場所を教えられたのだ。
(確か一階にもあるんだよね)
真昼が今向かっているのは二階のシャワールーム。
一階には大浴場のような施設があるのだという。
めざめの言葉を信じるなら、大浴場という言葉の響きほど広くはないのだそうだが、それでも優に十人以上が使ってのびのびと足を伸ばせる浴室があるのだから、十分広大だと思う。
ところで真昼は、夜庭めざめをネコのような人物だと捉えている。
ツンとしているところ、吸血中に身体をすり寄せてくるところなんかが分かりやすいところだが、そう考えるに至ったのは湯上がりの姿を見たときだ。
細くしなやかな頭髪が水を吸って、シルエットがしぼんで見える。
青白いほどに白い肌がうっすらとゆだって、普段にない露骨な可愛らしさがそこにはあった。
そんな彼女がなぜだか、湯上がりに身体を震わせて、水滴を払うネコの姿と重なったのだ。
(こんなこと言うと、めざめちゃんは怒り出しそう)
一階の大浴場は大人数が使う想定だから、かなり広々としているらしい。
対して二階のシャワールームは個人用だから、一般家庭にあるような広さの脱衣所だった。
衣服を脱ぎ去って、それらを編みカゴに畳んで仕舞う。
いつもならそんなに丁寧に衣服を片付けたりせず洗濯機に放り込むか、制服はさっさとハンガーに掛けてしまう。
けれど真昼はあくまで客人だった。
自由に振る舞うのは彼女の気持ちが許さない。
シャワールームへ足を踏み入れる。
「十分広いよ。これで狭いって言ってたの?」
湯船がないからだだっ広く感じるだけで、こんなものなのだろうか?
格子縞の床は室内灯の光を美しく照り返した。足の裏に、石材の冷たさが伝ってくる。
夜庭邸は基本的に廃墟同然の有様だけれど、めざめの生活圏内は綺麗に保たれていた。どうやらこのシャワー室も同様らしい。
自分の歩く音がひたひたと鳴り響く。
勝手の知らない浴室は、いつも迷ってしまう。少ない旅行の経験でも、毎度どこから水を出せばいいのか、どれがシャンプーかリンスかで手間取った。
夜庭邸でもそれは例外ではない。
おそらくは銀製の調度品に、全裸の自分の姿が薄ぼんやりと反射している。
屈曲した面に映り込んだ姿だとは承知しつつも、自らの垢抜けない姿にはがっかりしてしまった。
背は高いけれどスタイルがいいわけではない。
筋肉質な部分はあるけれどスポーツマンではない。
佐藤綾や仁多京子が、あるいはクラスメイトたちが素敵だと褒める自分のチャームポイントは、佐伯真昼という人間の中から消去法的に選ばれた魅力だと重々承知していた。
(……シャワー浴びよ)
ネガティブ思考に囚われるのは自分らしくない。
けれどなぜだろう、最近はふとしたタイミングで今のようなことを考えてしまう。
考えられる理由は一つ。
夜庭めざめだ。
自分では冗談めかして言うけれど、彼女は正真正銘の美少女だ。
そしてそれだけではない。
吸血鬼であるが故なのか、人間離れした気配を帯びている。
長らく不登校状態だった彼女にクラスメイトが群がるのも無理からぬことだと思った。彼女には近寄りがたい雰囲気と、お近づきになりたいと強く思わせる存在感とが同居している希有な存在だから。
そんな彼女にとっての『特別』が、佐伯真昼でもいいのか?
さして特徴もない、ただの女子高生の自分が。
世界中の人が一目みたいと願ってやまない一品の絵画を、自宅の屋根裏にずっと置きっぱなしにしているような心細さと、罪悪感。
(考えたって仕方ない――分かってるんだけどね)
暖かい水で全身が濡れそぼつ。
めざめを学校へ連れ出したことへの罪悪感、自分が普通であることへの罪悪感、めざめに責任を感じさせたことへの罪悪感。
それらが瞬く間に洗い流されていくような気がした。
――ガラッ。
突然背後で扉が開いて、慌てて振り返る。
そこには、自分と同じように一糸まとわぬ、めざめが立っていた。




