第15話 喧噪の頭上で
「あそこに降り立ちましょう」
めざめが目で合図したのは、地域でも一番背丈の高いビルだった。
全国的に知られた通信教育ブランドを持つ、国内屈指の有名企業、その本社ビル。周囲がまばらな高さの建造物であるのに対し、抜きん出て長躯だ。
二人はビルの屋上に降り立った。
さすがの大企業といえど、屋上の施設拡充にまでは手が回っていないようだ。
背の高い手すりに囲まれた屋上には、ベンチがいくつかと喫煙所のようなものが設けられているだけ。その喫煙所も「使用禁止」の張り紙がされてあって、長らく人の訪れがなかったことがうかがえる。
「夜空の散歩、どうだったかしら?」
「なんというか、もう……言葉にできない凄さだったよ」
「髪、乱れているわ」
空中散歩の余韻で乱れていた呼吸を正そうと、真昼が息を吸い込んだときだった。
めざめがそばに寄ってきて、あちらこちらに跳ねた真昼の髪をなで始める。
手櫛で元に戻そうと、何度も何度も。
不意に距離が縮まって、真昼はなぜか息を止めてしまった。
自分の息を彼女に吹きかけてしまってはいけないと、確信めいたものが胸にあった。
「心拍数が乱れているようね。貴女、そんなに怖かったの?」
確かに、心臓が早鐘を打っている。
空中散歩のせいかもしれないし、呼吸を止めているせいかもしれない。
どきん、どきん。
「ええ。こんなものかしら」
めざめが再び距離を取ったので、真昼は気取られないように大きく息を吐き出した。短い時間とはいえ呼吸を止めていたせいで、耳や頬のあたりに熱が集中している。
「私の髪も、整えてくださる? 姫君」
「仰せつかりました……お姫様」
「あら、私もお姫様なのね。悪い気はしないわ」
乱れに乱れためざめの髪を、手櫛でといていく。
髪に触れるのは初めてではない。吸血の最中に、ふとしたタイミングで触れることはあった。
だが、改めて彼女の髪質のしなやかさに驚く。
まるで水面に指先を差し入れたときのように、手櫛の動きが妨げられない。
指先が水を押しのけるように、髪がするするとほどけていく。
めざめは目を閉じて、まるで喉元を撫でられる猫のように心地よさそうにしていた。
そんな姿が、普段の言動や超能力とはまるで違う、愛らしい少女然としていて、真昼もつられて笑顔を浮かべる。
「うん……バッチリ。整ったよ」
「ありがとう」
小さく頷き、散歩するような足取りで屋上を歩くめざめ。
真昼もそれにつられて歩き始めた。かつん、かつんと屋上の静けさに踏み入るのは少し恐ろしくもあり、そして心地よくもあった。
「めざめちゃんの家の門に、十字架のデザインが彫られていたんだけど……吸血鬼って、十字架に弱いんだよね? 事故で怪我したりしないの?」
前から疑問だったことだ。
第三継承者が吹き飛ばされたことから、十字架の効力も知っている。
「少しだけ触れたことがあると思うけれど、私の『爪』が特殊なのよ」
「吸血鬼としての特性?」
「ええ。私の特性は――」
そこで言葉を句切って、めざめはくるりと器用に振り返って見せた。つま先を始点に、まるでバレリーナに成り立ての少女のような所作だ。
「――『信仰に赦される力』なの」
「信仰に赦される……」
「ええ。本来、不死と奇跡の再現が可能な吸血鬼は、信仰によって厳重に罰せられる。十字架や聖水、聖域に吸血鬼が弱いのはそれが理由よ。でも、私の『爪』があれば、それを軽減することができる。完全に無効化することはできないけれど」
「それってスゴく……強い能力じゃない?」
だってそれは、弱点がない――あるいはほとんど無視できるということだ。
「そんなことはないわ。その証拠に、私は吸血鬼として『強くない』」
「それは、身体能力が……ってこと?」
「ええ。でもそれだけじゃない。私の不死は不完全なの」
再び身体を反転させ、歩き始める。真昼もそれに追従した。
ビルの足下では盛んに車が行き交っている。クラクションや加速するときの音、タイヤが道路をこするときの音が騒々しく折り重なっていた。
この屋上に満ちた静寂とは、全く対照的に。
「不完全って……不死身は、不死身じゃないの? 素人質問なんだけど」
「例えば上半身が消し飛ばされても、完全な不死性を持っていれば数時間のうちに上半身を再生することができるわ。その間に太陽に焼かれれば完全に消滅するでしょうけど。でも私の不完全な不死では、何十倍もの時間がかかってしまう。あるいは……」
再生できないかもしれない。
最後の呟きだけが風に攫われた。けれど真昼の耳にも、確かに聞き取れた。
「吸血鬼なら翼はみんな持っている。それに簡単な結界もね。私が他の吸血鬼に比べて優れているところなんて、『爪』と、吸血効率が良いことくらいじゃないかしら」
「じゃあめざめちゃんの家にあった十字架の意匠は、めざめちゃんの特性があるから無視できるってことなんだね」
「そういうことね」
めざめは自分が優れていないと表現した。
けれどやはり、「信仰に赦される力」というのは相当に強力な『爪』ではないだろうか。他の吸血鬼の特性がどのようなものなのか、全く知らないからなんとも言いがたいけれど。
(第三継承者は「隠匿」……だったかな)
霧になったり、姿形を変えるのが得意だとか。
めざめはぽつねんと据え付けられたベンチに腰掛ける。
そして真っ赤な瞳を真昼の方へと向けた。闇の中でも、まるで瞳自体が輝きを持っているかのようにはっきりと視認することができる。
「あの十字架は、家を結界のようにして守っているって、母が言っていたわね」
「お母さん?」
「…………ええ」
しまった、というような表情を浮かべたのが真昼の目にも分かった。
口を滑らせたのか、言うつもりがなかったのか。
(ごめん、めざめちゃん……っ!)
「お母さんは、亡くなられているの……?」
訊ねたのは、決して興味本位ではない。彼女の身の上に興味があるわけではなく、夜庭めざめという少女が背負い込んだ孤独にこそ関心があった。
ただ、それは彼女からすれば関係ない。
本心から慮った発言か、ずけずけと土足で踏み込んでくる発言か。
だから不快に思われることを覚悟して、言葉を紡いだ。
「……ふふっ、私の母が気になるの?」
「不快に思ったなら、ごめん」
「いいえ。――死んだわ。大昔に」
夜庭邸の敷地内にあったお墓。
やはりあれは、めざめの母のものか。
不揃いに彫り込まれた『ママ』の文字。
「吸血鬼の母が死んだなんて、不思議かしら?」
「正直ね。お母さんは吸血鬼……だったの?」
「そう『だった』わ。真昼ちゃんは吸血鬼の力を継承する方法を覚えているかしら?」
「相手の吸血鬼の血を吸って、継承する……?」
「そう。だから互いの力と『爪』を巡って、吸血鬼同士は殺し合う」
真昼はおじおじとめざめの隣に腰掛けた。
薄っぺらいつくりのベンチが、女の子二人程度の体重でも僅かに軋む。
自分の体重が重いと思われたのではないかとよぎって恥ずかしかった。きっとめざめは、そんなことを気にしたりはしないんだろうけど。
制服のスカートの内側で、めざめが脚を組んだ。
布から伸びた肌は、暗がりの中でぎょっとするほどに真っ白だ。
「ただの人間が吸血鬼の血を吸っても、継承は為される」
「…………っ!」
「母は先代の第四継承者だった。私は母から生まれ、母から力を継承された。吸血鬼の力を失った母は人として死に、吸血鬼の力を得た私は吸血鬼として今ここにいる」
がつんと側頭部を殴られたような衝撃。
思いもしない、いや、きっと頭の中では想像していたことが事実として確定した。
夜庭めざめはかつて、人として生きていた。
「私の実年齢、気になる?」
「実年齢……?」
「吸血鬼は不死の存在なんだから、もしかしたら何百歳かもしれないわよ。母の死っていうのは、侍の時代の話かもしれない。美しく月明かりを浴びる美少女の正体は、醜く痩せ衰えた老婆なのかもしれない。……そうは思わない?」
組んでいる脚の上に頬杖をついて、めざめが真昼を見やった。
瞳は先ほどと違って、真っ青だ。
まるで彼女自身の翼が覆い隠してしまった、蒼穹のように。
「気に、ならないかな……そもそも吸血鬼だから」
「? どういう意味」
「年齢とかより、空飛べる方がおかしいと思うんだけど……だって、人間だって長生きするよ? でも、翼を生やして空を飛び回るなんて人間じゃできないよ」
「……ぷっ、変なの」
「空飛べる方が変――いや、でも吸血鬼には普通のことなんだよね。ごめん」
ダイバーシティの精神性を忘れていた。
別段、普段から高尚なことを考えて生活しているわけではないけれど、些細な言い回しや仕草で誰かを傷つけないようにいられたらとは思う。
「母は寂しがり屋だったわ」
真昼から視線を逸らして、彼女は遠くの空へ目を向けた。
二人は月を背にベンチへ腰掛けているから、そこには何もない。
雲一つない、宇宙めいた闇が漠々と広がるだけだ。
「母は何年も吸血鬼で、何年も孤独だった。
私が生まれたことよりも、愛し合った男を失ったことばかりに囚われていた。
だから私は孤独だった。
母は私に血を与えるとき、泣きながら謝っていた。
けれど私は、母を孤独から解放できるのだと嬉しかった。
母が死んだときも、少しも寂しくなかった。私は母のために、生きていくことを選んだ」
「………………」
「なーんてストーリーがあったら、感動的だったかしら?」
低く、冷たい声音が一転、明るく跳ねた。
けれど、その軽薄なまでにうわずった言葉尻が、とても寂しく耳に響く。
「何か感想はあるかしら?」
「えーっと……吸血鬼って子供産めるんだね……」
そして生まれた子供は人間なんだ。
「そこ?」
「適切な感想が浮かんでこなかったよ、ごめん」
確かに不適切だったかもしれない。
真昼の心は真っ黒な重責にのしかかられていたから。
夜庭めざめという「人間」が抱えた孤独を、たった一人で、ただの学生の身分で癒やそうなどという考えがあまりに傲慢だと痛感したせいだ。
彼女が抱えたものは、ほんの少しコミュニケーションをとった程度で取り除けるものではない。
(お母さんがいなくなってから一人で、あの家にいたの?)
あの、廃墟同然の豪邸に。
「吸血鬼の力を誰かにあげてしまおうって、考えたことはないの?」
「ないわよ。誰かに押しつけてしまうなんて、恐ろしいわ」
「……なら、その……眷属を作る、とか?」
よく知らないけれど、吸血鬼というのは眷属を従えているイメージがある。
「私、眷属を作るのは苦手なのよ。言ったでしょ、私は吸血鬼としては弱いって」
「そうなんだ……」
「それに私、一人でいるのは嫌いじゃないわ。ぼうっとしているのも、本を読んでいるのも、寝ているのも、絵を描いているのも、嫌いじゃない。真昼ちゃんが心を痛める必要はないのよ」
「うん……」
「でも――貴女といる時間も、悪くないわよ」
「!」
顔を上げると、めざめと視線がバッティングする。
彼女の口元には、明確に微笑みが浮かんでいた。




