第11話 下校する女の子
第三継承者の身体は、面白いくらいに吹き飛ばされた。
ロザリオは吸血鬼の身体を「痛めつける」わけではない。
そうではなくて、「拒絶」するのだ。
だから第三継承者の身体は十字架によって致命傷を負ったわけではなかった。ただ、徹底的に拒絶された挙げ句身体を吹っ飛ばされたのである。
第三継承者は自分が作った『常闇の結界』の壁面をぶち破って、校舎の壁に叩きつけられた。
不幸中の幸いというべきか、むしろ真昼にとっては不運なことに、そのまま日差しに焼かれて死んではくれなかったけれど。
だが、万事がうまくいったわけではない。
真昼の身体は吹き飛ばされた。
第三継承者が飛び掛かったときのエネルギーが、直撃ではないにしろ彼女を襲ったのだ。真昼の身体は風に吹いて飛ばされそうなビニール袋のように、『常闇の結界』の中を転がる。
「きゃあああああっ!」
叫ぶことしかできなかった。
視界が暴風雨のただ中のようにぐちゃぐちゃになって、身体の至る所を痛める。
擦り切れただろうし、切れただろうし、打撲や、もしかしたら骨折もしたかもしれない。
そのくらい激しく、彼女は地面を転がった。
(このまま私も壁にぶつかれば――)
死。
吸血鬼と違って、その衝撃に耐えるほど頑強な身体を持ち合わせていない。
なんとか転がる身体を止めようと、真昼は暴れた。
けれど視界が絶えずグルングルンと回転している中で、人に何ができようか。
「死ぬうううぅぅぅっ!」
「真昼っ!」
次の瞬間、真昼の身体は浮かんでいた。
いや――宙にぶら下がっていたのだ。
「よかった……無事、かしら……真昼ちゃん」
「め、ざめちゃん……はぁっ、はぁっ……ううぇ、ぎぼじわるい……」
「三半規管を揺さぶられでもしたのかしら?」
「たった今ね……」
第三継承者の身体でぶち破られた結界の穴から、夜庭めざめは駆けつけた。
彼女は翼を活躍させて高速で空を飛ぶと、壁にぶつかって破裂する寸前だった真昼を拾い上げたのだ。おかげで真昼の身体は、五体満足。
「あ、あの、助けてくれてあり――」
「よかった……貴女が無事で……」
「は、え……?」
宙に漂ったまま。天蓋を結界に覆われたまま。めざめにしがみついたまま。
真昼はめざめに抱きしめられた。
吸血をするとき、めざめはしなだれかかるように真昼を抱きしめる。
けれど今回は、力強くも優しく抱きしめた。まるで、そうすることで真昼の存在を確かめるように。
(暖かい……)
耳のすぐそばにめざめの胸元があった。
バレないようにそっと耳を沿わせると、とくん、とくんと心臓が鼓動しているのが分かる。
平常時の心拍数がどの程度なのか分からないけれど、それがいつもより早く脈打っていればいいなと、真昼は思った。
(どうして……そう思うんだろう?)
宙に浮かんだままめざめに抱きついていると(抱きしめられていると)、自ずと彼女に初めて会ったときのことを思い出す。
夜の空。
振り落とされないように、真昼は必死に彼女の身体へしがみついた。
(あ…………)
真昼はその時、めざめの翼に視線を奪われた。
艶やかでしなやかな翼の端に……燻った、黒い炎。
めざめはこの結界に飛び込んでくるときに、日差しに晒されたのだ。
(ほんの一瞬かもしれないけど……私の、ために)
「ぁ、めめ、めざめちゃん……第三継承者は……?」
「ああそうだった」
ぱっと離されて、真昼は地面に着地した。
唐突だったので綺麗に着地できず、危うく転びそうになったけれど。
「これは……『常闇の結界』というヤツかしら」
「その通りよ」
パリン、と甲高い音を立てて結界が崩れ去った。
夜に閉ざされていた空間は瞬く間に校舎裏、体育倉庫の近くへ変貌する。
いや、元に戻っただけなんだけれど……。
結界を壊したのは第三継承者だ。
彼女は校舎の影に立って、鬼の形相を浮かべている。ぎょろりと見開かれた瞳も眉間に刻まれた縦の皺も、全てが佐伯真昼への殺意へと向いていた。
「衝突の衝撃で、あばら骨が全部砕けちゃった。佐伯真昼さん?」
「う……ごめんなさい」
「謝らなくていいんだぁ、だってもう治ったから」
軽くノビをするような調子で、第三継承者は胴をひねって見せた。
確かに、あばら骨が全部砕けた人間の動きではない。あばら骨が全て砕けた後あっさりと治癒した吸血鬼特有の動きである。
「疲れた上に、夕刻で、しかも愛らしいボディーガードが駆けつけちゃったから……今日はこのくらいにしておきましょうか。次はもっと痛めつけてあげる、真昼さん」
「懲りないんだ……」
さっさと殺していればこうはならなかったのに。
真昼としては九死に一生だが。
「大失敗したからリベンジしたいんじゃないかしら、あのアホ吸血鬼は」とめざめ。
「それじゃあ、次に会うときはきちんと殺すわね」
第三継承者はめざめの挑発を意に介さず、身体を霧散させた。
人が目の前で霧に変わって、跡形もなくなってしまうのは、少し心臓に悪い。
(殺されかけた方が心臓に悪いけど……)
ひとまず窮地は脱した。真昼は胸をなで下ろす。
「改めて、ごめんなさい。真昼ちゃん」
「どうして? 私、助けてもらったのに……」
「貴女、何を言っているの? 私を学校に通えるよう協力する代わりに、第三継承者の襲撃から守って欲しい。貴女が言い出したことじゃない」
「ああー……そういえばそうだったね」
めざめは眉を八の字にして、肩をすくめた。
彼女が困ったような表情をするのは珍しくて、真昼はこっそりと得したような気持ちになる。
「でも、謝る必要なんてこれっぽっちもないよ。だって体育倉庫に掃除に行きたいから、待っててって言ったのは、私だよ? めざめちゃんが責任を感じることじゃないって」
「そうね。私は全く悪くないわね」
「…………」
「むしろ、この世のありとあらゆる悪性の根源は真昼ちゃんかもしれないわね」
「ちょっと⁉」
「冗談よ。貴女が気にしていなくても……それでも、ごめんなさい」
ついと視線を逸らすめざめ。
そうして佇んでいると、本当に一人の少女でしかなかった。
小さくつくった握りこぶしも、針金のように細い髪のベールに隠れた目元も、ぽつりと独りごつ声音も。
真昼は思った。
今、めざめの瞳は何色に見えるのだろう――。
「めざめちゃん」
「なにかしら?」
「これから、寄り道して帰ろうよ」
「どこに?」
「どこに行くか決めないから、寄り道なんだよ。さ、ほら」
手を差し伸べる。
するとめざめは、おずおずとそれを手に取った。
二人は普段、帰宅する時間を選んでいる。
本を読んだり雑談したり、宿題をしたりして、できるだけ学校敷地内で時間を潰してから帰路につくのだ。
理由は単純。
日差しに晒されるリスクを軽減するためだ。
日の入りの少し手前を狙って学校を出れば、帰路に濃い影が姿を現す。
それらを踏んで帰っているうちに真昼の家に辿り着いて、そこからめざめは夜空を飛んで自宅まで帰る。
真昼はここ最近を、何の疑問も抱かずそうして過ごしていた。
「ねえ、めざめちゃん」
手を繋いで影の中を歩きながら、真昼は隣にいる吸血鬼へ訊ねた。
「なにかしら? お金ならもうないわよ。許して頂戴」
「さもカツアゲしていたように扱うのはやめてよ⁉」
「分かっているわ。先生には言わない……だから殴らないで」
「極悪非道だよ!」
佐伯真昼(仮称)が。
そんなことはどうでもよくて――。
「朝に日傘を差しているなら、夕方にも日傘を差せばいいんじゃないの? ほら、こうして影を選んで歩くと時間もかかっちゃうし。私は別にいいんだけど」
通学する時、めざめは真っ黒な日傘を使っている。
確かに暮れに日傘を差しているのは少し不自然だけれど、その方がずっと楽なはずだ。
「まあ、そうかもしれないわね」
「傘を差すのは嫌い、とか?」
絆創膏の薬臭さと同じように。
真昼と繋いでいる反対の手には、瀟洒な装飾が施された日傘の取っ手が見える。かつん、かつんと傘のつま先で地面を叩いて、めざめは歩いていた。
隣を歩くめざめが、ゆるりとかぶりを振った。
「一人で歩くのが好きじゃないのよ」
「……うん、そうだね。私もそう」
繋いだ手を軽く掲げるめざめ。
傘を差して歩くと、人と並んで歩けない。
影を選んで歩くのは小学生の頃を思い出して楽しかった。
白線や影だけを踏んで家に帰るのは男の子のイメージが強いけれど、真昼も中学年の頃は毎日の様に遊びながら帰っていた。
特に孤独がちな少女時代は、そうやって一人遊びしている時間だけが無心になれて好きだったのだ。
(我ながら暗い趣味だったな……)
一人で歩くのは好きだ。
でも今は、二人で歩くのも好きだった。
「あら……」
めざめが立ち止まった。それにつられて、真昼も足を止める。
ブロック塀の上に覆い被さっていた伸び放題の庭木が、目の前で途切れていた。
必然的に、二人がずっと歩いていた庭木の影も途切れている。
ほんの五十センチの間隙。
「仕方ないわね……」
日傘が持ち上がった。
「差さなくていいよ」
「?」
真昼は繋いでいた手をほどいて、その日向に近づいた。
そしてめざめの方を振り返る。
「ほらっ、きて」
「………………!」
真昼の身体で影ができた。
そこへめざめを導くように、真昼が手を差し伸べる。
二人の指が、再び繋がれた。
次回以降、デート回です




