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第10話 十字架の衝撃

校舎裏にひっそりと佇む体育倉庫は、グラウンドを渦巻く運動部の喧噪を浴びてどこか寂しげだった。


陸上競技や野球、サッカーボール、ラインパウダーやラインカーといった道具がしまい込まれているが、部活動で使うような新しい物品はここではなく、部室で管理されている。

そのせいで、この体育倉庫に用事がある学生は少なかった。


体育倉庫の鍵を解錠する。

そして真昼は、グラウンドの方を見た。

盛んに声を出しながら、陸上部やソフトボール部が走り回っている。彼女らの姿は、夕日の逆光で薄ぼんやりとしたシルエットに見えた。


「よしっ、掃除頑張りますかぁー」


運動部の活気を少しだけ分けてもらった……ような気になって、真昼は体育倉庫の掃除に取りかかった。


体育倉庫の掃除は定期的に行われるが、頻度は多くない。だから、一ヶ月近く蓄積された汚れを一気に洗い流さなければならなかった。

倉庫の扉を開いてすぐに分かるほこりっぽさや、土や泥で汚れた床。それらを掃除することの手間を考え、これはやり応えがありそうだと真昼は腕まくりする。


(実際のところ、体育倉庫の掃除当番をきちんとこなしている人は少数派だろうなぁ)


ささっとやり過ごしてしまう方が、ずっと楽だ。

部屋の隅に積もった埃の分厚さは、半年近く放置されていたことを物語っていた。


「これをすっかりキレイにするのは、ちょっと難しそうかなぁ……」


できる範囲のことはしよう。

真昼はテキパキと手を動かして、効率よく汚れを落としていった。

床の土をホウキで掃いたり、棚や四隅の埃をたたき落とすと、呼吸を躊躇ってしまうほどの塵芥が舞い上がる。

マスクをしているおかげで掃除は快適に行えたが、真昼の髪が埃を被ってしまった。


「はぁ、はぁ……えっ、もう三〇分経ったの」


掃除の手を止め、ぐるりと体育倉庫を見回す。

代わり映えはない。けれど確かに、ある程度キレイにはできたはずだ。


「これで……いいかなぁ」


あまりに雑な仕事で済ませてしまうと、夕片翔子に迷惑がかかってしまう。だが、説教されるいわれのない程度には掃除したはずだ。


額に浮かんだ小粒の汗を拭いながら、「帰ろう」と呟いた。


体育倉庫を出て鍵を施錠する。そして、掃除を始めたときと同じように夕日へ視線を向けた。学校の敷地を取り囲むフェンスや、住宅街の屋根がシルエットになって、日差しの中に溶けている。


夜までの、ほんの僅かな間隙。

どうしてこうも、美しいのだろう。


「ん…………?」


真昼はふと、人の気配が感じられないことに気づいた。

ついさっきまで、遠巻きに運動部員の声が聞こえたはずなんだけれど。

校舎からは吹奏楽部の演奏が、道路の方からは車のエンジン音が聞こえたはずだ。どれも距離があるけれど、確かに真昼の耳朶に触れた音のはずである。 


今は……不気味なほど、静か。

早朝のような静粛。


(まさか……第三継承者⁉ でも、まだ日差しが出てる……)


間もなく夜が訪れる。けれど太陽は確かにそこにあって、真昼の影も、校舎の影も長く伸びて地面に落ちている。


(大丈夫な、はず……だよね)


不安から逃れるために、首からぶら下げているロザリオに触れようとした。

その時、真昼の動きを制するように声がかかる。


「お久しぶり――佐伯真昼さん」


「ひっ……!」


「どうしたの? そんなに、怯えた顔をしてぇ?」


校舎の影に、人が立っていた。

たった一度しかお目にかかったことがない。けれど、忘れようもない容貌。

背にコウモリの翼を持つ、『第三継承者』だ。


「あれ、学校のお友達はいないの?」


第三継承者が、わざと持って回ったような言い方をする。

確かに、グラウンドからも校舎からも人の気配が消えていた。

三〇分で部活動が完全に切り上げになるとは思えないので、第三継承者が何らかの手回しをしたのだ。


真昼は自分の立っている位置を確認した。

大丈夫……日差しの中だ。


「それにぃ、可愛らしいボディーガードもいないみたいね?」


「…………」


めざめには、三〇分だけ待っていてと伝えてある。

だから彼女は校舎のどこかにいるはずだ。


真昼は表情を変えず、狼狽していることを相手に悟られないようにしながら、必死に脳をフル回転していた。


めざめがもし、第三継承者の使う人払いのナニカに巻き込まれていたとしたら、彼女にも第三継承者襲撃の事実が伝わっているはずだ。

そして、吸血鬼の恐ろしさを誰よりも理解している第三継承者が、そんな手段をとるはずがない。


彼女の――第三継承者の狙いが真昼なのだとしたら、めざめに気取られる前にことを済ませてしまいたいと思うだろうから。


(まだ陽があるうちに姿を現したのも、それが理由……?)


真昼が一人になるのを待っていては、めざめに合流されてしまうから。


「いろいろ、考えてるみたいね。あんまり意味ないと思うけど?」


「……? どういう、意味ですかっ?」


「敬語って、のんきねぇ。気が抜けちゃうわ」


第三継承者が肩をすくめる。

彼女は、真昼が日差しの中に立っている限り、手出しをできないはずだ。なのに、一向に焦る様子がない。


(思い切って、グラウンドの方に走る……?)


背中を飛び道具で狙撃される恐れがよぎって、その選択肢を選べずにいた。


「じゃあ、意味がないことの理由を説明してあげる。ちなみに、そっちの方へ逃げなくても良いの? 日差しの方へ逃げれば、わたしには手出しができないかもしれないのに」


「……!」


やっぱり、日差しへ逃げても意味はないのだ。

真昼はぐっと身体を硬くして、固唾を呑んだ。


「いいのねー。なら……ほら!」


第三継承者がぱちんと指を鳴らした途端、変化は成った。

吸血鬼の背後から、望遠鏡で観察したときのような夜空が出現する。宇宙にも似ていた。米粒のようなサイズの星々と、闇と呼ぶには美しすぎる濃い青色。


星空の垂れ幕――。


それは瞬く間に真昼の周囲を取り囲んだ。

真昼の足下から、影が消える。


(違う…………)


全てが影に閉ざされたのだ。

この場が、日差しの届かない空間になった。


「『常闇の結界』……ってわたしは呼んでるんだ。キレイでしょう?」


「………………」


怖い――それが率直な感想だった。

闇は吸血鬼の領域だ。そして吸血鬼自身が、闇を再現して見せた。


ずるい。強すぎる。


……いや、そもそも太陽を背にしていたって、真昼にはどうあがいても吸血鬼の身体能力には及ばない。不平不満を述べるのは一旦あとにして、まずはこの場を生き延びることだけを考えよう。


(昼の中に、夜を作り出す力……でも、無敵なわけないよ)


もしこの結界が盤石なら、第三継承者は昼を恐れる必要がなくなる。

だがそうではないはずだ。彼女は姿を現すとき、必ず影の中に現れるから。


「思考するのはいいけれど、意味ないとは思わないの? 佐伯真昼さん」


「意味がない……って、どういうこと、ですか」


「例えばあなたが、この結界の弱点に気づいたとするよね。じゃあ、その弱点を利用してわたしを打倒することができるの? 当然、できるはずがない。わたしとあなたの身体能力の差は、ちょっとのアイデアや工夫で埋め合わせることができるものじゃないのよ」


「…………」


それは事実だ。

けれどこんなところで死ぬなんて――絶対にいや!


「……心折れないんだぁ、じゃあ……痛めつけて再考を促すわね」


「ひっ――」


身体の左側面を蹴り飛ばされて、真昼の身体はバスケットボールよりも簡単に吹き飛ばされた。


(十メートル以上は離れてたのに!)


真昼は、初めて第三継承者と遭遇したときのことを思い出した。そう、彼女は十メートル以上の間合いを、ほんの瞬く間に詰めて真昼の首を掴んだのだ。

人間の動体視力では、彼女を捉えきれない。


地面を転がり、壁にぶつかってとまった。


(壁…………?)


それは、第三継承者が展開した『常闇の結界』だった。

結界と、外との境界らしい。

真昼の身体が勢いよくぶつかった程度ではびくともしないほど、壁は頑丈だった。


「人間の腕力では結界を破ることはできないよ。吸血鬼でも、どうだろう?」


真昼は地面に転がっていた上体を、なんとか起こした。激突したときの衝撃で呼吸しづらい。胸のあたりが詰まって感じられ、それから逃れようと何度も咳をした。


視線を上げる。

奇しくも体育の時間と同じように、寝転がった状態で吸血鬼を見上げていた。

意味合いは全く違ったけれど。


「ねぇねぇ、心は折れた? わたしに完全に順応する覚悟は決めた?」


「…………っ」


第三継承者の瞳は、真っ赤だった。

まるで、血液の色だ。


「まあこのくらいで音を上げてもらっては困るもの。我慢して、ねっ!」


脇腹を蹴り上げられて、真昼の呼吸は数秒間、完全に止まった。息を吸い込もうとしても口をぱくぱくとさせるだけで、肺を含めた身体機能が正常に機能しない。


たった数秒間でも、十二分に死を意識させる瞬間だった。

ようやく酸素を取り込んだとき、開放感からかどっと汗が噴き出す。


(私に残されてるのは、ロザリオだけ……!)


制服の内側、胸のあたりに感じる冷たい感覚。

ストラップにくくりつけたロザリオだけが、第三継承者に刃向かう唯一の手札。


それをどう使うべきか。


「ほら、休んでないでっ!」


首根っこを掴まれて、無理矢理に立たされる。

その状態を『立っている』と表現するのは無理があったかもしれない。だって操り人形のように第三継承者の腕にぶら下がっているだけだったから。


視界が、きつすぎる魚眼のように歪んで見えた。


「ねぇ……あなたの血、干からびるまで飲み干してあげようか?」


「……っ」


第三継承者が空いている方の手で、真昼の首筋を撫でた。

そこにはめざめの吸血痕を隠すため、絆創膏を貼っている。

その事実に気づいたのか、第三継承者は喉奥をくつくつと鳴らしながら絆創膏をゆっくりと剥がした。


「痛々しい。こんなに深々と……傷」


「やめっ、て……!」


「い、や、だ」


わざと音を区切った発音が、厭らしいニュアンスを帯びていた。

第三継承者は自分の長い舌で、真昼の首筋を撫でた。途端に真昼の全身を走り抜ける、いかんともしがたい不快感。


「いやっ!」


真昼は第三継承者の腕を払いのけようと腕に力を込める。けれど、まるでコンクリートの壁を押しているみたいに手応えがなかった。


ざらざらとした舌は真昼の総毛立った肌に構うことなく、無遠慮に這い回る。

気持ち悪いっ、気持ち悪い――!


「くうぅぅっ……おりゃあっ!」


嫌だ、そう思った。

そしてその感情が、ぐわんぐわんと揺れる視界の中、折れかけた真昼の心に反抗心を宿す。

だらりと垂れ下がっていた腕をやっとの思いで持ち上げると、彼女はやたらめっぽうにそれを振り回した。


「うあああっ!」


「ちょ……っ」


第三継承者とて、それが痛かったわけでも恐れたわけでもないだろう。

けれど生理的な反応として、彼女は真昼を解放した。

その間隙に、真昼はできる限り距離を取ろうと走り出す。


「無駄なのに――ねっ!」


(この瞬間だっ!)


猛スピードで第三継承者が真昼の背中へ迫る。

人間の反射神経をもってして捉えることのできないその動きに、カウンターでロザリオをぶつける。

そうすれば人間の非力な腕でぶつける、何倍もの効果になるはずだ。


だから第三継承者の声が空気を震わせた瞬間――。

真昼は振り返って、掌底を突き出した。


その手のひらには……ロザリオ。


吸血鬼と十字架が、凄い速度でぶつかり合った。



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