第1話 通学する女の子
真っ青な瞳の少女を見た。
佐伯真昼は地域のゴミ拾いボランティアに参加したため、その日の朝はいつもと違う通学路を通っていた。
普段は足を踏み入れない丘の上の閑静な住宅街。
ピカピカの新築でできた家並みは、同じ街だというのに異界に迷い込んだ気分にさせる。舗装されたばかりのアスファルトの歩き心地がなぜだかよそよそしく思えた。
真昼は視界の左方に、異質な建造物を捉える。
それは、驚くほど豪奢な作りの門扉だった。
レンガ造りの外壁と装飾がこらされた鉄扉は、とても時代がかっている。
作りだけでなく、コケやツタでびっしりと覆われているせいで余計に時代を感じさせた。
(豪邸だぁー)
普段なら、それでおしまいだった。
わざわざ足を止めて観察するほどの建物だとは思えなかったし、そもそも人の家をじろじろと観察するのはマナーとしていかがなものかと思うから。
けれど真昼はなぜか、足を止めた。
「…………っ」
ふと、視線を上げた先。
真っ青な瞳の少女がいた。
豪邸の二階に、観音開きの窓がある。そこから、少女の上半身が確認できた。
年頃はきっと真昼と同じ――十五から十七くらい――だ。
肌は作り物のように真っ白で、全体的に線が細い。邸宅の中が影になっているせいで、容貌の子細までは分からなかった。
けれど同性の真昼がはっと息を呑んでしまうほど、浮世離れした美少女だった。
そして――。
「青い……瞳……」
少女は影の中から、眩しげに天を仰いでいた。ともすれば、忌々しげなほどに眉根を寄せている。
その少女の視線が、すうっと滑って真昼とぶつかった。
気まずい間。
真昼が慌ててぺこりと頭を下げると、少女はついと視線を逸らす。そしてそのまま、屋敷の奥へと引っ込んで行ってしまった。
(嫌な気持ちにさせちゃったかな……)
しかし、真昼の心には罪悪感よりも引っかかっているものがあった。
瞳――。
少女が視線を逸らす時、彼女の動きに合わせて瞳の色が変化したように見えたのだ。さながら、複雑な輝きを帯びる未知の鉱石のごとく。
真昼はすぐに自分の考えを打ち消して、歩き始めた。
そんなものは光の加減でいくらでも誤認できる。
それに真昼と少女の間には、少なくとも十数メートルはあった。
相手は屋敷の二階、自分は屋敷に面した道路。
そもそも瞳の色が真っ先に目についたこと自体が、不思議なのだ。
(それにしても、とても可愛い子――)
別に得るものがあったわけではない。
けれど真昼は、なぜだか得した気分になっていた。
◇
靴底ごしにアスファルトを踏みしめる感覚が、真昼は好きだった。
だから彼女は登校するとき、必ず分厚いスニーカーを履く。
可愛いスニーカーも、歩き心地のいいスニーカーも大好きだ。
それらを履くだけ、持っているだけで、ルーティーンである通学がぐっと解像度を増すから。
真昼は朝の通学路を、まるで思いつきのダンスを踊るように歩いた。
傍から見れば、よほど機嫌のいい人に見えるかもしれない。
同級生から、「どうしてそんなに楽しそうなの?」と訊かれたことがある。
真昼が軽やかなステップを踏むのは、特別に楽しいからではない。ただ、毎日が漫然と楽しいからだ。
何もなくたって、楽しい。
「相変わらず機嫌いいね~、おはよっ!」
声をかけられ、真昼は振り返った。
真昼より十センチほど背の低い女の子。
ふくよかな胸元に、同級生であることを示す赤色のリボンが揺れていた。
ちょこんとくっついている小さな鼻と、少し厚い唇。それに、くりっとした目元がキュートだ。
彼女の名前は佐藤綾。真昼が知る限り、一番女の子らしい女の子だった。
「おはよう、綾ちゃん」
綾を待って、横並びになってから再び歩き始めた。
「真昼ちゃん、こっちの通学路だっけー? 反対じゃなかった?」
「そうなんだけど、今朝はゴミ拾いボランティアに参加したの」
「ええー、スゴいっ」
「すごくないって……それで今日はこっちから」
「ボランティア参加とは感心ですなぁー。まさに化けぬ狸が野良仕事だね」
「化けぬ……なに?」
「アタシが作ったことわざー」
「褒められてるってのは伝わったよ」
真昼は、自分の歩幅が僅かに広いことに気づいて、少しペースを緩めた。
綾と比べて真昼は背が高いが、そもそも真昼は長身な部類だ。一人で歩いていたときのペースだと、綾を置き去りにしてしまう。
「そういえばさー、二組のミワが彼氏にフラれちゃったらしいんだよねぇ」
「え、それって私が聞いていい話?」
「あっ……いいよー……多分」
「…………」
ぷいと視線を逸らす綾。
ホントにいいの?
「なんか中学からの付き合いだったんだってー。で、高校は別れちゃった」
「ウチ、女子校だもんね」
「遠距離恋愛みたいな? 週一でちゃんと会ってたりもしたんだって~」
真昼は恋愛経験が薄い。
なので、遠距離恋愛がどのようなものかもいまいち想像できなかった。
そもそも別の高校に進学することを遠距離恋愛と表現するのかもよく分からない。
「でも、その彼氏に新しい好きな人ができて、フラれちゃったんだって」
「ええー、ヒドいっ」
「だよね! ヒドいよねぇっ! そもそも、高校が別になっても愛し合っていようねえって約束し合ってたのに。ホント最っ低ー!」
「愛し合う……」
聞き慣れない言葉に、思わずたじろいでしまう。
高校生同士の恋愛がくだらないものだなんて、思ったことはない。だって、真昼の友だちはいつもそれに頭を悩ませ、心を弾ませ、涙をこぼしているから。
けれど――。
それでも、高校生の恋愛と「愛し合う」という表現が、繋がらなかった。
今の真昼にとって、就職や進学が絵空事であるかのように。
「でも、男子ってそんなモンだよねー。バカばっかだ全くモー!」
「ぜ、全員そうってワケじゃないと思う、よ?」
「全員そうなの! 真昼ちゃん、いい?」
「え、なに?」
隣を歩いていた綾が小走りで真昼を抜くと、くるりとターンして人差し指を立てた。
「あー、この人好きかもなー、うーん、この人ならエッチしても大丈夫かもなーって思った男子がいたら、まずはこのアタシに面接させなさいっ」
「え、えっちって……」
思わず言葉に詰まる真昼。
だが、綾の表情は真剣そのものだ。彼女の場合、ふざけたことを言うときもずっと真顔なので、おそらく冗談を言っているのだけれど。
「分かりましたか⁉」
「わ、分かりました……」
「よろしー」
「綾ちゃんは私の……店長?」
「バイトリーダーかなー」
「何か違うの?」
「時給が違うの」
「学校に時給はないと思うんだけど……」
「なら何にも違わないのかも。えへへ」
真昼はつられるようにあははと笑った。綾との会話は最終的に力が抜ける。
「でも、私の男の子を見る目って、そんなに信用ないかな?」
「え、うーん……」
「確かに、私ってそんな、経験豊富……じゃないけど」
「信用が無いっていうかぁー……」
「おはよ、二人とも」
真昼と綾が、同時に声の主を見た。
彼女らと同じ二年生。
背丈は佐藤綾と同じくらいだけれど、容貌の印象は違った。
おそらく腰のあたりまで伸ばした髪を、ざっくりと一つのポニーテールにしている。切れ長の目元はどこか美青年のようでもあり、薄い唇に笑顔を浮かべると、雑誌の表紙を飾るモデルのようでもあった。
仁多京子。
真昼の友人の一人だ。
「何の話よ?」
「おはよう、京子ちゃん。えっと……」
真昼が説明しようとするのを意に介さず、綾が腕組みしながら口を開く。
「別に、真昼ちゃんの選球眼に信頼がないってワケじゃないんだなー」
「選球眼? 野球の話?」
「あ、男性を見る目の話だと思うよ……」
「ただ、なーんか頼りないっていうか、危険球に手を出しそーって感じ?」
「草野球でもすんの、あんたたち」
「た、たぶん違う……」
真昼が「危険球?」と首をひねっていると、綾は下唇を突き出して、
「つまり、サイテー男に引っかかりそうってこと!」
「あー……あたし分かるわ、綾の言ってること」
「えっ、そうなの?」
話の流れを察したらしい京子が、鹿爪らしい顔をして何度か頷いた。
綾の真顔と違って、京子が真剣な表情を浮かべると、ぐっとシリアスさが増す。いや、綾には失礼なんだけれど……。
「真昼はダメな男に尽くしたり、悪い男にコロッと騙されそうよね」
「遺憾なことにねぇー」
「私が遺憾だよ……」
「つまり話を戻すとー」
三人の前方に、学び舎の姿が見えてきた。
白の外壁にオレンジ色の屋根が眩しい。
数年前に建て替えられたばかりの本校舎は、公立高校とは思えないほど洗練されたデザインだ。広々とした校庭には、朝練に精を出す陸上部の姿が見えた。
節海女子高等学校。
真昼たちの通う高校だ。
「真昼ちゃんと付き合う男は、まずアタシを通すこと! ってことねー」
「ならついでにあたしも通して貰おうかしら」
「お父さんじゃん……」
思わず笑いが零れる。
綾と京子は一見すると正反対だ。
ゆるふわガールと、さばさばレディ。
けれど、つかみ所がない点と感性が似ていた。だから二人も馬が合うのだろう。真昼はそんな二人の姿が頼もしくも、微笑ましくもあった。
真昼は二人に続いて、学び舎へ足を踏み入れる。
スニーカーを下駄箱に押し込んで、上履きに履き替えた。
女の子の足のサイズに対して、真昼は大きなスニーカーを履いている。
だからいつも、学校の下駄箱はいっぱいいっぱいだった。
彼女はスニーカーの形が崩れてしまわないように、スニーカーを寝かせるようにして下駄箱にしまう。
分厚い生地のスニーカーは履き心地が最高だ。
けれど、ひらべったい上履きの歩き心地も真昼は嫌いじゃなかった。
上履きのつま先で、軽く床を蹴ってみる。
薄い上履きの内側で、足の親指が押された。
「真昼ー、行くわよ」
京子に促され、三人で教室に向かう。
彼女らはクラスメイトだ。だが、真昼の通学路が綾や京子とは異なるせいで、三人で登校することは珍しい。
真っ青な瞳の少女に、友人とばったり出会って登校した朝。
なんとなく、今日は特別な一日になりそうだった。




