悪魔の名前
青年が呼んだ看護師さんは目を覚ましている私を見るとハッとした表情になった。ひどく驚いているようだが、私は目が覚めないということになっていたのだろうか。そしてそのまま部屋を出て行ってしまった。
いや、そもそも無関係の他人、しかも自称悪魔の変質者が普通に病院にいることには何故なんの言及もしないのだろうか。私は彼の名前も知らないというのに。
薄く笑う彼をぼんやりと見つめる。さっきまでは気付かなかったが、彼は顔色が良くない。瞳に光がない。目の下にも濃い隈がある。歯もギザギザだ。髪の毛が銀髪であることといい、なんというか、病的な見た目の人であると思う。
妄想癖でも抱えているのだろうか? それならばさっきの悪魔を自称する妄言にも納得がいく。
そう思っていると、突然にドアが音を立てて開き、数人の足音が聞こえたので私は慌てて視線をそちらに移した。
「目が覚めたというのは本当なんですね、水倉さん」
「本当に良かったです」
穏やかなインテリといった容貌で眼鏡をかけたその男性は穏やかな笑みを浮かべて私に話しかけてくる。ここは病院、白衣を着ている、つまり彼は医者だろう。当たり前の結論にたどり着いた私はこちらの意識が確たるものか理解するためなのかはわからないが言葉を紡ぐ彼に対し相槌を打つ。
確認を終えたらしい彼は納得したように息を吐くと、近くにいる看護師になにやら話しかける。
私は、いつ退院できるのだろうか。多分私の家は燃えてしまっただろうし、大事な漫画もゲームも全て灰だ。なんて虚しい話だこと。
内心溜め息を吐くと青年はひどく愉快そうに医者の目の前にピースをしている。というのにまるで気付かれていない。どういうことだ。彼は私以外の存在には認識されないとでもいうのか。
そんな馬鹿な、ありえるわけがない。
そう思って唖然としているが、一向に彼の存在を指摘する者はいない。
「? どうかしましたか?」
「あの……ここに、その、銀髪の人が来ませんでしたか? なんか顔色が悪い……」
「いえ、そんな方はいらしていません。そもそも、ここには病院関係者以外には誰も入ってませんよ」
医者の言葉を聞いて思わず息を呑んだ。どういうことだ、私が幻覚と幻聴を患っているのでなければ彼は私以外の存在に認識されないという仮説は事実ということになる。
青年に視線を向けると、彼は笑壺に入るかのように笑っていた。
「どうだい? 少なくとも僕がおかしな存在だってことは理解してくれただろう?」
「そうだね、悪魔かどうか置いておくとしてだけど」
認めよう、この青年はただの人間ではない。ただ一人の人間以外に認識されない人間がまともであるはずがない。
「今日のところはそれをわかってくれただけで上々、か……」
「で、君の仕事ってやつは一体なんなの? 復讐がどうたらとか言ってたけど……」
「そのまんまだよ、人ならざる力を使って誰かに頼まれた復讐を代わりにやる、いわゆる復讐代行ってやつかな。君だってそういう漫画を読んだことがあるだろう?」
「まあ、あるっちゃああるけど……」
確かにジャンルに偏りがあることは否めないとはいえ、そういう漫画だって読んでいる。だけど、あれは漫画の世界だからありえるわけだし、本当に復讐なんて行ってはいけないだろう。江戸時代は喧嘩両成敗とかいう決闘という形では認められてただろうけど、現代はその限りではない。
「第一、復讐代行ってなに。物騒」
「でもさぁ、約束しちゃったじゃんか、君」
「確かに、そうだけど……本当だったとしてもちょっとしかやらないからね。法律的にアウトだしそれ!」
「はいはーい」
彼はそう言って飄々とした風に笑ってみせる。だというのに、顔色などの悪さのせいかやはりひどく昏いものを感じ取った。
「あ、そうだ、僕の名前を名乗ってなかったね」
「まあ、忘れてたけど……随分唐突だね」
「名前って大事だろう?」
彼は肩を竦める。確かにそうであるけど、流れを切られたような気がしたのだ。
「僕の名前はレアクト、よろしく頼むよ、水倉千雪さん?」
「まあ、よろしく……」
差し出された手を、私は渋々握った。
一話一話短いです。すみません。