平穏が燃えた日
その日、なんだか夜中に目が覚めたからお茶でも飲もうと思って起き上がるとなにやら鼻につく不快な臭いが漂っていることに気付いた。なんだろうか。ツンとしていて、どこかで嗅いだことのあるこの臭いは。
とりあえず下に降りてみよう。そう思って布団から出て階段の近くに行くと、どうやら臭いの発生源は一階であると理解した。
――なにか漏れたとか?
ぐるぐると思考を巡らせながら足を進める。本当に不快な臭いだ。鼻が曲がってしまいそうでしょうがない。眉を顰めながら鼻をつまむ。
階段の下の方に着いてみると、リビングに人影が見える。我が家は階段を降りるとすぐにリビングが見えるのでその人影を発見するのは極めて容易なことだったのだ。
家族の誰かだと思ったが目を凝らして見ると、昨日見かけた優男であることに気付いた。
叫びたくなるを必死に抑え音を立てないよう静かに洗面所に隠れることにした。階段を降りきると、既に一階の床には臭いの発生源であろう液体が撒かれている。少し滑りそうになりながらも足を進める。
見つかったら殺されるかもしれない恐怖で震える身体を叱咤しながらもなんとか洗面所に辿り着くとそこには液体が撒かれていなかった。何故だろうか。
「(ていうかなにあれ、どうしてうちに……!)」
引き戸の内側で縮こまって外からは見えないようにして考える。開いているところには暖簾が垂れ下がっているのでそう簡単には見えないと思う。
ふるふると動く身体を必死に抱えた。目を瞑って時間が過ぎ去るのを待った。
なにやら水の音がする。階段を上る音がするから上にも撒いているのだろうか。良くないことだというのに、こわくてたまらない。
音が止んで、また階段を下る音が聞こえてくる。
――見つかりませんように……!
神にでも祈る勢いで思う。多分、あいつは私が警察に話すと思って口封じに来たのかもしれない。一日のズレは気になったが、もうそんなことを気にしていられる余裕はなかった。
やりすごしているとふと何かが焦げるような臭いがしている。もしかして火を放ったということなんだろうか。
その考えに行きついて慌ててリビングのドアにある隙間から覗くと、確かにオレンジ色の炎がゆらゆらと揺れながらも勢いよく大きさを増していく姿が目に入った。液体の跡を辿るように成長していくそれに息を呑む。
とにかく、早く家族を起こしにいかなくちゃ。そう思った時である。
ゴッ
そんな音と共に頭に鈍い痛みが走りその場に倒れこんだ。
少しして、固いモノで殴られたという事実に行き当たった。意識が薄れていく中、誰かがなにかを言っている声が聞こえた。
「あんなにじっと見ちゃってさ、もしかしてオレに惚れちゃった? でも残念、好みじゃないしもしかしたら警察に相談しちゃうかもだし、しょうがないよね?」
ああ、なんという無念。こんな勘違いをするような奴に、家を燃やされるなんて。
『ねぇ、助けてあげようか? 君はこのままでは死んでしまう』
誰だろう。助けてくれる? 本当に?
『うん、僕の仕事を手伝ってくれるというのなら君の命は助けてあげよう』
なら、助けて。私、死にたくない。
『了解。契約成立だね。千雪さん』
そこで、今度こそ完全に意識が途切れた。
瞼がピクリと動く。消毒液の臭いらしきものが鼻に届いた。
「………」
目を開くと、視界には白が広がった。清潔感があって、窓ガラスもある。ここは……病院だろうか。ピーッ、ピーッという電子音が聞こえる。視線を横にずらすと点滴らしき袋が見えて、チューブのようなものは私の腕に繋がっている。
「起きたかい?」
不意に聞こえた青年の声に、私は身体をびくりと動かす。電子音以外の音の存在しない部屋に、彼の声はよく響いていた。
誰だ?
声の方を見るとさっきまでなにもなかった窓ガラスの前に、黒いコートを身に纏った銀髪の青年が立っていた。その青年を、私はどこかで見たことがあった。
「会うのは火事の焼け跡前が最後かな? 話は君が意識を失う前にしたけど……覚えているかい?」
ああ、覚えている。あれが幻聴でなければ、私は彼の仕事を手伝うことと引き換えに命を助けられたということになる。しかし、彼はあの状況の中、どうやって私に話しかけたのだろうか。
「単刀直入、かな。簡単に言えば僕は人間ではない、君達の言葉でいうといわゆる悪魔ってやつなのかな。まあ、いいや」
彼はそこで言葉を切る。あまりに非現実的な話だ。この場合は妄想として馬鹿げている、と一蹴するのが正しいのかもしれない。悪魔など、おとぎ話や物語にしか存在していないだろうに。
「僕は人の復讐を手伝う、という目的があるのだけど、実のところ人間と契約しなくては活動できなくてね。丁度出会った君と契約しよう、と思ったのさ」
彼はつらつらと意味不明な言葉を繰り返している。ナースコールで看護師を呼ぶべきか、と思ったが起き上がる段階で頭に鈍痛が走ってそれは難しくなった。
ああ、昨日今日とおかしなことばかりが続くものだ。
「疑っているね? まあ当然のことか、とりあえず看護師さんを呼ぼう。状況を把握しなくてはどうにもならないからさ」
そう言ってのけた彼はナースコール押して看護師さんを呼んだ。
ゆるゆる復讐屋の始まりです。
気を抜いてお読みいただければと思います。