あの公園で、もみじが散ったら
僕は窓際の席に座れなかった。夢を語り合うのが好きだった時分、といっても将来なんて度外視で、ただ空想や絵本にあるような、鳥になりたいだとか星になりたいだとか、そういう夢を語り合っていた時分のこと。楓はいつも僕より先にバスに乗り込んで、必ず最後部の窓際に腰かける。そのうえ決まって左側だった。彼女の言によると、左側でなければ竹林が見えないらしい。
バスは黄金山経由の紙屋町行きで、始発から乗るとがらんどうなのだけれど、コンビニの前にある次のバス停で数人が乗り合わせる。その中で一人でも最後部に座ろうとする人がいれば、僕はほんの少しだけ楓のほうへ身を寄せようとする――けれど彼女の鞄がそういう僕を阻むのも、これまた常のことだった。
トタン屋根や瓦屋根を見慣れている僕らにとって、黄金山の東側に次々と建っていく家はどれをとっても近代的に見えて、ほとんどが二階建てだった。僕と楓の家は両方とも一階建てで土壁、縁側はあってもベランダとかバルコニーなんてものはなかった。だからそんな家々のあいだをバスが通るときは、もし家を建てるなら何階建てか、バルコニーにするかベランダにするか、会話はこれらに尽くされた。
この町は生まれ変わろうとしているらしい。都会なんて言葉に目がくらんだわけじゃない。もっと住みやすい場所にすることが、市民への思いやりだと感じているのかもしれない――楓はともかく、僕はそんなこと望まなかった。僕にはどうして楓が車窓の外をあれだけの微笑をもってながめているのかわからなかった。
「もうすぐ竹林が見えるよ」と楓は自分の鞄を僕らのあいだから膝へと移しながらも、僕に言ったというより、自分自身の思い出とそんなふうにして語り合っているとでもいった口調で、なおも笑顔を絶やさなかった。
僕は迷わず楓のほうへ身を寄せて、窓外を見ているふりをしながら、楓の横顔をぬすみ見た。伸ばし始めた横髪が、ほんのちょっとだけ邪魔だった。
そうして竹林が見える場所をバスが通りかかっても、僕らは特にあれやこれやと会話を弾ませるわけではなかった――ひたすら黙りあって、お互いに幼少期の思い出に浸るばかりだった。
僕と楓は、あの竹林の中に秘密基地を作ろうと企てた。世界征服や地球防衛基地だとかいろいろな名目で試行錯誤のすえ出来上がったのは、床に笹を敷きつめ、そこいらに転がっていた、なぜだか短く切られた、子どもには手頃な長さの竹を支柱にして隙間に笹を括りつけただけの秘密基地だった。つまるところ、僕らは世界などまるで知らなかった。物騒な思想はなく、ただ二人が気兼ねなく遊べる場所を設けたかっただけのことなのだ。そして、僕らの計画をいち早く察知したのが竹林の管理人で、あの都合のいい短い竹も、彼の仕業だった。もう顔は覚えていない。十年も前のことだ――あのささやかな居場所でさえ、もうあるのかどうか。……
「楽しかったよね。なにも知らなかった頃って」楓はまたひとりごとのように呟いて「ね?」と僕の顔色をうかがった。
僕はなにか、ぼんやりと寂しそうにしている楓に気の利いた言葉を向けようとした――……だがそれは無理だった。楓がそうしてなんともやりきれない、寂しげな微笑を浮かべているとき、僕は僕で、時間が遠ざけてしまうものは、どうしていつもそう絢爛な輝きを絶えず示し続けているのかと、考え出していたから。……
竹林が見えなくなって、僕はようやく楓に微笑みかけることができた。が、急に恥ずかしくなって視線を車内に戻してしまった。
記憶の旅から戻った僕は、ここがバスの中であると理解するまでに二、三秒の時間をかけた。車内の色彩は鮮やかで、公園に出来た新しい遊具かなにかが点在しているかに見えた。が、どれも、手すりか椅子に他ならなかった。覚えている限り、昔、バスの床は木でできていた。路面電車だって、床は木だったのに――そういえば、最後の、被爆した路面電車が姿を消したのは、いつのことだったろう。……
「紅葉もちょっとは寂しいでしょ」と楓は僕の名前を呼んだ。からかいでもするような台詞だったが、彼女の口調には霧のような哀愁が漂っていた。
しばらくは黙っていた。そうして黙ったまま、バスが二号線を渡るまでずっとどこを見ていたのか思い出せないほど、僕の意識はなんだかぼんやりしていた。
「思い出した」僕は急に声をあげて、窓外を指さした「ほら、いまちょうど新しく橋を架けているところ。あのそばに公園があって、真向かいにお菓子の家があったんだ。ピンク色の屋根で……覚えていない?」
「ううん。おいしそうな家だった」楓は少し笑いながら言った。
お菓子の家。ピンクの屋根で、壁はチョコレート色で、扉はビスケットみたいな小麦色の家が、たしかにあの公園の前に建っていた。
そこは段原という地域で、レンコン畑や古民家、診療所なんかがあった。道路は狭く、ほとんどの道は一方通行。それでは救急車の駆けつけが遅れるという理由から、数年前から再開発が始まり、いまはほとんどの再開発が終わっている。先の話題にあがったお菓子の家も、その過程でなくなったものの一つ。
僕と楓は、幼少期を段原で過ごしてきた。祭りの出店で買った大きな飴を楓が落として、砂利や草がこびりついて泣きじゃくりそうになったとき、エアブローでそんな異物を全部取り除いてくれたクリーニング屋のおじちゃん、僕がよく夕方に家を抜け出しておしゃべりしに行った自転車屋のおばちゃんとか。あれがあった、これがあったと言えば、だいたい段原でのことだったりする。……
「公園にあった木ってさ。結局、もみじなのかな、それとも、カエデだったのかな」と楓は思い出したように言った。
お菓子の家の反対側、猿猴川に面した公園には僕らが物心つく前から木が一本だけあった。
「どっちだっていいさ。花言葉だって同じなんだから」
このとき以上に、あの公園で一本だけ植わっている木が、カエデか、もみじではなく、もっと別のものであったなら、僕は居心地がよかった。だが、どういうわけかあの木だけは、町の再開発とは疎遠で、いまもなおあそこに植わっている――同時に、僕の心はいささかの矛盾も孕んでいた。僕はあれが、もみじであるとずいぶん昔から知っていたのだ。
「打ち明けてしまえば、どうなるのだろう」……と、ひとり、呟いた。
公園の前を通りすぎると落ち着きが戻ってきた。
次に現れたのは平和橋。段原と蟹屋を結ぶ橋。覚えている限り、この橋はもっと古びていて、もっと細かった。バスでここを通ると、子どもにとっては苦痛なほど長い渋滞に毎度あわされた。
「変わってないものって、なにかあるのかな?」楓は言いながら、こちらを見ているらしかった。
僕はそういう姿を目の端で認めながら、思惟にとらわれているとでもいったふうをして、重苦しい溜息をつき、なんとか彼女の興味をそそれるようつとめていた。だが上手くいかなかった。楓はなおも、先ほどと同じ口調で繰り返すだけだった。
「変わってないものって、なにかあるのかな?」
バスは赤信号で止まった。僕が答えなければならなかった。
「いろいろ変わった――ああ――いろいろ変わったんだ。でも、もしかしたらあるのかもしれないよ」僕はとうとう楓のほうへ目をやり、そのときにはもう、自分がいましがたなにを言ったかどうかなんて、覚えていなかった。僕の胸に残っているのは、寂寥の念であったり、未練であったり……どれであれ、心地の良いものじゃなかった。
バスが広島駅まで来ると、僕はゆっくり立ち上がった。
「ばいばい」と楓が言った。
僕は静かに手を振るだけにとどまった。
バスから降りると、入れ替わりに数人がバスに乗り込んだ。その中の一人が、バスの最後部。左側、窓際に腰かけるのを見た。
広島駅前で降りて、僕は最寄りの駅ビルを見上げた。建ったばかりのこのビルは、広島県で一番高いビルだ。これを見上げるだけでも怖かったのに、東京タワーとやらはこれより高いという事実が、やはり僕らは田舎っ子であるに違いないという確信にご丁寧なラッピングまでほどこしてくれた。
季節は冬。ただ肌寒いだけの日々である。こんなに雪が積もらないものだっただろうか。僕が子供のころは、銀世界とはいかないまでも、そこここに雪の遊び場ができていた――もっとも、僕は外で雪が積もっているのを見つけたところで、真っ先にそこへ出て行ってはしゃぐような真似はしなかった。僕は雪が積もっているのを見ると、暖かい服を着て、玄関の前で座り込む。そういう日には、楓が必ず僕の家にやってきて、扉の向こうから決まって、
「紅葉あそぼう!」と声をかけてくる――だが、僕はすぐには答えなかった。もう一度、彼女が声をかけてくるのを待ってから、
「ちょっと待ってて」と小さい声で言った。雪のことよりも、僕はどうしたら怪しまれないだろうかと考えていたのである。……
広島駅から球場のほうへ歩きだすと、ぼんやりと雪が降りはじめた。野球のシーズンであれば、この球場へと続く道は真っ赤に染まる。赤いユニフォームを着た、広島の血液――球場はさながら心臓と言えるだろう。血液が経済をまわし、それに応じて、温室で育つ野菜かなんぞのようにすくすくと、立派で、近代的なビルが育っていく。変わりゆく景色の中で、僕はどれだけ、昔を思い出せるだろう――変わった世界で、僕はどれだけ、変わらないものを見出せるだろう。
僕はそのまま西蟹屋まで歩いた。人間が油断と結びつくとき、なりたくなかった人間へと変貌を遂げる。球場までの中途にあるコンビニの前で煙草に火をつける。持ち合わせていなかったけれど、いつもなら葉巻を吹かすこともしばしばあった。僕は煙草がなにより嫌いだった。だが今では体を悪くするだの、短命になるだのといった脅し文句にはなにも思わなくなった。そうして煙草を吸っているときに限って、僕の中で、詩ではなく、ありふれた言葉や単語が群がりはじめる。裸でさらし者になった罪人に群がる民衆のように――なかんずく稚拙な言葉は僕を気に入っている。だから、僕がどれだけ高尚な言葉で楓になにか告げようとしても、結局、好きとか愛しているだとか、身近な言葉しか出てこない。ああ、君がいないことを、寂しいとしか言えない僕は、どれだけ罪深いのだろう!
それから平和橋のほうへ向かおうとする頃には、白々しい雪が点々と積もっていたりした。平和橋まで行くと、見通しのいい街並みがあった。電信柱のない、球場へと続く道。広く、近代的で……それが近代的になればなるほど、僕を思い出の中へと引き戻していく。……
例の公園に着いたよ。君がカエデかもみじか気になっていた樹木がある公園だ。僕らはこの公園で遊んだ思い出があるわけじゃない。いつもバスの中から見えるだけ。それなのに君は、ずっとあの木がお気に入りだった。ひょっとして、君もこれがもみじであることを知っていたんじゃないか、今になってそう思うことがある。それでもお互い、知らないふりをして、答えをひた隠しにしたままにしておいたのは、僕らの会話を、強いては思い出を、たった一つでも失いたくないという気持ちを、僕らが無意識に感じあって、子どもが捨てられそうになった宝物を抱きしめるのと同じように、ああして黙りあっていたのではないか。話さないという選択は、僕になにを残してくれたのだろう。……
もみじのそばには雪がうっすらと積もっていた。僕はおもむろにその木の傍まで歩み寄って、緩慢な手つきで雪をかき分けた。雪は手を加えるたびにいっそう固くなっていく。雪の下に埋もれた落ち葉。一枚を摘まみあげて、公園を後にした。時間は僕らから思い出を遠ざける。ちょうどいま、もみじの落ち葉が雪に隠されていたように、僕が見つけるまで、そっと音を立てずに隠してしまう。ようやく見つけ出したって、虚しくなるだけだというのに。
タイヤ痕がぼんやりと残っている道のすぐそばに街灯がある。僕はそこへ、さっき拾ったばかりのもみじを置いた。
「楓はいつも、変わらないものはあるのかなんて言っていたよね」と僕は無理に笑おうとつとめ、自分の吐く息ばかりが視界を端から端へ揺らめくのに気が散って、とうとう目を閉じた。
「ひとつだけ見つけたんだ。僕は昔と変わらず、君が好きで……」
自分の声が震えだしたのは、寒さのためだろうか……
「ずっと、窓際に座れないでいるんだ」