第一話『目覚めと異界の眼』
不定期更新になると思いますが、よろしくお願いします。
唐突に、意識が揺さぶられる。
曖昧な感覚が徐々にその形を取り戻していく。
やがて意識だけではなく、自分自身の両肩も揺さぶられていることに気づいた。
瞼を開く。何も見えない。そう思ったのは一瞬で、網膜とそれを繋ぐ脳神経は正常に働いているようだった。
黒髪のショートヘアー、切れ長の両目、睫毛の一本一本がはっきりと確認できる距離に、少女の顔があった。ただし、その顔は全て上下逆さまだった。
「あなた、何故こんなところで寝ているの?」
そうか、と妙に納得した。顔が逆さまなのは、仰向けに倒れた俺の上方から、少女が俺の顔を見下ろしているからだ。
そして、少女が俺の両肩を揺らしていたことが原因で、俺は目を覚ました。
ここまでの過程ははっきりとしている。しかし、それ以前の問題、つまり俺が「何故こんなところで寝ているのか」が判然としない。
「あなたがダンジョンマスターを倒したわけ?」
聞き慣れない語句が聞こえたような気がする。
「ダンジョン、マスター?」
「頭を打って記憶が飛んだの? それとも元々頭がおかしいのかしら」
言葉の毒を認識できるほどには正常だ。俺は起き上がって、少女に問う。
「ちょっと待ってくれ、ここはどこなんだ?」
「ストラウスの迷宮。私が知る限り、というか十中八九そうだけど、ここが最深部よ。あなた、本当に大丈夫?」
大丈夫ではないかもしれない。
ストラウス?
迷宮?
最深部?
俺は、今まで何をしていた?
そもそも、俺の名前は?
疑問符が脳内を覆い尽くす。深く考えるまでもなく、単純な結論に達した。どうやら、俺は記憶喪失らしい。
辺りを見回す。洞窟としか表現のしようがない。床、壁、天井のうち、ほぼ全てが土と岩で構成されている。俺の後方には透明度の高い紫色の水晶岩が鎮座し、異様な存在感を放っていたが、今はそんなことを気にしている余裕もない。
自分の名前も知らず、ここがどこであるかも分からない。突然、言い様のない不安がこみ上げてきた。こんなときに行くべき場所といえば……
「俺を、警察に連れていってくれ。原因はわからないけど、記憶がさっぱり消えているんだ」
「ケーサツ? よくわからないけど、記憶がないのは一大事ね」
そう、一大事だ。もはや俺は、目の前の少女に助けを求めることしかできない。
「お願いだ。俺を助けてくれ」
少女は顎に手を当て、考える素振りを見せる。
「ダンジョンマスターが消えても、残った魔物はまだうろついてる。迷宮の外に出るなら、あなたも戦力になってもらう必要があるわ。私も、人の御守りをしながら戦えるほど器用じゃないから」
「戦う? 魔物ってつまり、モンスターみたいなもの?」
「そうよ。っていうか、あなた本当に記憶喪失なの?」
「疑っているのか」
「当たり前よ」
確かに俺以外の人間からすれば、俺が記憶喪失であるかなんて確かめようがない。確かめる方法すらないのである。
「信じてもらうしかない。本当なんだよ」
「じゃあ、行動で示しなさい。あなたも戦うの。第一、ここまで到達できたんだもの、それなりの素質は持っているはずよ」
戦闘の素質か。俺は、自分の服装を確認する。地味な色のシャツに、穿き古したようなジーパン。戦えと言われても、武器になりそうなものさえ持っていない。
立ち尽くす俺を見かねたのか、少女は腰の後ろから何か細長いものを取り出し、差し出してきた。それは、黒光りする無骨な短刀だった。刃渡りは三十センチメートルほどで、持ってみると以外に軽い。
「それ、使っていいから」
「そう言われたって……」
「私はほら、沢山もってるし」
少女はそう言って、背中と腰から更に二本の小刀を抜き出した。
「いや、そういうことではなくて」
改めて少女を観察すると、なかなかミリタリーな格好をしている。淡い緑を基調とした軽装だが、腕や脚には大量のベルトが巻かれ、様々な小道具を収納できるようになっている。刀の他にも小型ナイフやニードルなど、物騒なものが覗いていた。
なんだかゲームみたいだ、と感じた。
ゲーム? 突然脳裡に過ったその単語に、俺は戸惑う。ゲームとは一体何だ。
頭が混乱する。これも、記憶喪失の影響なのだろうか。失った記憶が、強烈な違和感となって俺を襲うような感覚。
「あなた、どうしたの?」
少女の声が、どこか遠い所から聞こえる。
意識を繋ぎ止めようとすればするほど、逆に離れていく。
記憶の抜け落ちた穴に吸い込まれる。
駄目だ、俺はおかしくなっている。
ダメだ、心の中の自分が言った。
まるでもう一人の自分が心の中にいるかのように。そして、それは俺の失われた記憶であるに違いない。
意識が暗転するかに思えた瞬間、目の前の少女とは違う女性の声が聴こえた。
『自分自身を見失わないで』
声は優しく力強く、どこか懐かしいような響きを持っていた。不思議なことに、精神が安らいでいくのを感じる。俺は深呼吸をして、瞼を強く閉じた。
「大丈夫? やっぱりあなた、おかしいわよ」
俺は膝をついて座り込んでいたらしい。少女の声が今度は明瞭に聞き取れた。返事をするために、俺は目を開ける。
先ほどと変わりなく、少女はそこにいた。だが俺の視界には、異様なモノか写り込んでいた。
[ステータス]
名称:不明
性別:女
体力:B
総魔力量:750
攻撃力:C+
耐久力:D
魔導力:C
敏捷性:B+
スキル:疾風(敏捷性上昇)
淡い青で縁取られたウィンドウが中空に浮いている。俺は思わず、手を伸ばしてそれに触れようとした。しかし、指は空を切って何の感触も得られない。
「これは、何だ?」
「何を言っているの?」
青い窓越しに少女が問う。
「見えないのか?」
指を差しながら、眉を寄せた少女に問い返す。
「何が見えてるのよ」
少女は俺の指先を追って、洞窟の壁に目を凝らしていた。演技には見えない。どうやら、本当に見えていないらしい。
「いや……」
ここで我を通すのは得策ではない。より正気を疑われるだけだ。俺はひとまず、[ステータス]と表記された得体の知れない文字の羅列を、思考の中心から追いやる。
だが、その問題を後回しにすることはできなかった。
『名付けて[ステータスウィンドウ]、気に入ってくれましたか?』
俺は絶句した。頭の中で響く女性の声。それは目の前の少女からではなく、俺の精神の中に直接語りかけるように聴こえた。さっきと同じだ。
『話さなくても大丈夫です。あなたと私は一部の神経回路を通して繋がっているので、思考のみで意思の疎通が可能ですから』
もし声で会話していたのなら、話の半分も頭に入っていなかっただろう。只の声よりも鮮明に響くその『声』は、俺の脳内に確かな刺激を与えた。
君は誰だ?
『理解が早くて助かります。私は、あなたの眼球です。正確にいえば、左目ですが』
いや、理解不能だ。そう思っていても、左目の近くへ自然と指が動く。
『試しに、左目を閉じてみて下さい。ステータスウィンドウが消えるので』
言葉に従うと、なるほど青いウィンドウと文字が消える。だが、これに何の意味があるというのか。
『私もこのようなことは初めてなので、戸惑っていないと言えば嘘になります。けれど、もはや私とあなたは一蓮托生、運命を共にする仲になってしまいました。私もあなたも、受け入れる他ありません』
受け入れるとは、何を対象にして言っているんだ?
『私があなたの一部であるという事実に対してです』
打てば響くように返答が返ってくる。訳がわからない。
『今はまだ完全に理解する必要はありません。許容する、という方向性で妥協しましょう』
つまりは諦めるってことだな。よし、こうしよう。俺は一旦、心の中を無にする。気持ちを落ち着ける時間が欲しい。君は少し黙ってくれ。
『承知しました』
謎の声は、それでひとまず沈黙した。
問題は山積している。まずは記憶の消失。これはどうにかして解決する問題ではない。ふとした拍子に戻ることを期待するしかない。
もうひとつは、場所の問題。少女はここが迷宮の最深部だと言った。当然だが最深部とは、最も深い場所という意味だ。この洞窟から抜け出すのは容易ではなさそうである。
最後に、俺の左目。これは何かのトリックなのか。それとも精緻なロジックが関与しているのか。さしあたって今の俺には、考えるだけ無駄な現象であることは間違いない。
「やっぱりあなた、頭おかしいんじゃない?」
疾風少女が言う。
「ああ、お前が思っている以上に、取り返しがつきそうにないよ」
俺は少女に背を向けてため息をつく。石壁から突き出た巨大水晶の存在に改めて気が付いた。
顔を近づけると、ほの暗い洞窟の明かりによって、俺の顔の鏡像が水晶に映った。同時に、ブルーのウィンドウが左目の網膜に投影される。
[ステータス]
名称:不明
性別:男
体力:D
総魔力量:10000
攻撃力:D
耐久力:D
魔導力:D
敏捷性:D
スキル:異界の眼(私のことです)
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俺のステータスはわかった。おそらく各種パラメーターを高い順に並べると、ABCDEFGHIとなるのだろう。俺は中の上といったところだ。
『ちなみに私が設定した最低ラインはFなので、GHIは存在しません。Dですと、中の下ですね』
黙ってくれ。
『失礼しました。申し遅れましたが、私のことは、アイとでも呼んで下さい。眼、つまりアイですね。あなたのことは、どのように呼べば宜しいでしょうか?』
自分の名前を知る前に、自分の左目の名前を知ってしまった。こんな経験をしたのは、世界でも俺くらいのものだろう。
破れかぶれで、どうしようもなくなったって生きてやる。そう決意した瞬間だった。