第一章 聴きたくないこと1
第一章聴きたくないこと
休み時間の間、行きたくなかったが生理的なものは仕方なく日に何度かのトイレの一回をこなして教室へと戻ってきた。中学二年生の吉井沙羅は、次の時間までまだ余裕があったので机に座って読書を始めた。チャイムが鳴る少し前になるとみなが教室に戻り始める。吉井沙羅は読書をしていた本をしまうと次の時間の教科書とノートを取り出し机の上に置く。軽く目をつぶって小さく息を吸った。
吉井沙羅の様子に気付いた他の生徒は授業に入る前の集中をしているかのように感じていた。次の時間の授業に対する覚悟をしているかのように。
始業のチャイムが鳴り始めると、静かになりそうだった教室に急いで数人が駆け込んできて慌ただしくなる。教室の後ろで大きな音がすると少し目を開けた吉井沙羅は下唇を軽くかんだ。
「いやー、間に合った」
{うるせーよ}(間に合ってねーよ)(はやくしろよ)
「次なんだっけ?」
(はあ?)(さっき数学だって言ってただろ)(あっ、まだ準備していなかった)(聞かねーで、自分で調べろや)
ギリギリになって教室に入ってきたのは、桐生、高崎、沼田の3人の女の子だったが、いつものことだった。席に着きながら桐生が言ったが、それ以外の声も吉井沙羅には聞こえていた。それが吉井沙羅がなかなか友達ともなじめず、あまり人と接しようとしない理由だった。
教科の先生が前の扉から入ってくると、同時に後ろの扉からまた一人入ってくる。沙羅は教科の先生を見上げつつ、後ろから入ってきた生徒を感じていた。いや、聞いていたと言った方が正しかったのかもしれない。
(おっ、みんないるな。それにしても熱くなってきたなー。大泉はおとなしく座るかな?)
(何で、みんなおとなしく座っとんねん。やってられるか)
先生が心配している大泉の怒りのような言葉にならない圧迫した感情が沙羅に流れてきて目を細めた。なかなかこれには慣れられなかった。
「はい、号令」
「起立、礼、着席」
「お願いします」
授業が始まるとクラスの中は静かになる。みなが先生の指示を待つ。その間も沙羅の頭の中にはクラスのみなの声が流れてくる。
(暑いな)(早く終わらないかな)(かったるいな)
絶え間なくクラスのみなのつぶやきが大小様々聞こえてくる。沙羅はその中で先生の実際の言葉を拾うのに口元を見つめ必死になっていた。
小さい頃からずっとそうやってきた。授業中などはもう慣れたものではあったが、人が多い程大変な作業に変わりはなかった。小さい頃は耳をふさいでみたり、耐えきれずに叫んで教室を出て行って「問題行動」の児童として注意されたりした。それでも低学年の頃は、学校に行けなくて家で勉強を教えてもらっている時期もあった。さいわい両親がそういったことにたいして寛大だったのがせめてもの救いだったが、沙羅の気持ちに対しては理解してくれなかった。
高学年の頃「自閉症スペクトラム傾向」という診断がされたそうだ。最初、両親はその言葉で心配していたようだったが、自分の力のことを理解し、受け入れることで落ち着いてきたことから、最近は全く心配しなくなった。自分としても普通の子と同じようにできているつもりでいた。
「この問題の解き方は、分かるか?」
先生の言葉を聞くと一緒に黒板に書かれている数式を見た。沙羅は考えようとした瞬間。
(あっ、これもう塾で習ったな。えっと、片方の式に数が合うようにもう一つの式をかける奴やったな)
沙羅が考える前に答えが聞こえてきて、がっかりして下を見た。それでも、もう慣れたものだから落ち着いて板書をノートに写す作業を始めて考えるのはやめてしまった。いつものことだった。
落ち着いて受けられるのは体育や美術などの実技教科だった。皆の声が聞こえてはくるけれど、ほとんどが自分には全く関係のないことだったから無視していればいいだけで、先生の指示もみなが心の中で復唱してくれるので遅れずに行動できた。
放課後の部活動なども入学していろいろと迷ったが、人が少ない環境が良く、ここでも親に無理を言って校外のテニスクラブで硬式テニスをやっていた。だから、知り合いがあまりいない。
(あっ、沙羅また本読もうとしている)
「さ~ら、トイレいこっか?」
沙羅に声を掛けてきたのは、小学校から一緒の吉岡恵だった。人付き合いも良く、活発で明るい子だったが、いつも沙羅のことを気づかってくれた。
「うん、いいよ」
前の休み時間にも行ったばかりではあったが、ぶっきらぼうに断ることもできず席を立った。
(よかった。一人で行くのはちょっと嫌やもんな)
沙羅の言葉に吉岡が助かったのが分かってうれしくもあった。それでも、仕方ないことではあったが、できればあまりトイレに行きたくなかった。
昨日のテレビの話しや好きなアイドルのことなどを吉岡は一生懸命話してくる。その時は、心の声はなく耳から入ってくる音だけで話すことが出来るので、沙羅に取っても吉岡はいやすい人でもあった。ただ、トイレが近づいてくると沙羅は不安な気持ちになる。
(あいつほんとにむかつく)
トイレに近づくと話し声と共に、苛立ちや怒りなどの負の思いが伝わってくる。移動教室などの関係で、変にトイレがすいているときもあれば、今のように人がたまっていることがある。沙羅は人がたまっているトイレが嫌だった。外のデパートなどのトイレは何ともなかったが、学校のトイレは中学校に入ってからできるだけ避けたかった。
トイレに入ると視線が注がれるが沙羅はすぐに目を逸らしてしまう。
(なんだ)
個室は空いていて吉岡とそれぞれ入る。トイレにたまっていたメンバーが自分達に興味なさそうにしていて助かった。洗面台付近には相変わらず話しをしているようで、聞き取れない程の声が聞こえたり、時々盛り上がったりしていたが、話しに夢中になっているようで嫌な声は聞こえてこなかった。
沙羅は無事にトイレを出るとため息をついた。吉岡は全く気にしていなかったようで、再び興味があることを話し始めた。
沙羅のクラスには、他にも行動を気にしている人がいた。授業の時は眠っていたようで沙羅の気にはならなかったが、いつも周りでトラブルの絶えない男の子が大泉だった。
(あっ、うるせえなー)
沙羅に聞こえた大きな声はクラスのみんなには聞こえていないようだった。続けて寝ていた大泉がクラスの騒がしさに起こされて強い気持ちで思ったのだ。
(誰だよ。騒いでいるのは?)
大泉がクラスの様子を見ているのに気付いているのは沙羅だけのようだった。
「沙羅、どうしたの?」
トイレから戻っても教室で一緒に話しをしていた吉岡が沙羅の様子に気付いて声を掛けた。
「うん、大泉君が起きたようで、何だか怒っているの」
沙羅が言うと吉岡は大泉の座席に目をやる。
「あっ、ほんとだ。起きたみたいだね。すごいにらんでる」
大泉を見て吉岡恵は軽い気持ちで言うが、沙羅からすると気が気ではなかった。沙羅に聞こえてくる言葉は、大泉が今にも誰かに殴りかかりそうだった。ただ、騒がしいのはクラス全体であって、大泉は寝起きの不機嫌さからゆっくりと解放されているようだった。
「めぐ!」
いつまでも大泉を見ている吉岡を沙羅は呼びかけた。
「大丈夫そうかな」
(沙羅は心配性だなあ)
頷きながら珍しく吉岡の心が聞こえてきて、沙羅はドキッとした。でも、その後は何もなかったので、一人で勝手に慌てて、安心した。
授業が終わると掃除がなければすぐ下校する。吉岡は吹奏楽部で活動していて、放課後は忙しい。学校の生徒のほとんどが部活に所属していて、沙羅と同じように部活動に所属していなくても野球やサッカーなど外のクラブに所属している。
沙羅はすれ違う友達に挨拶して、グランドの部活動に行く生徒と一緒になって校舎を降りていく。玄関で下足に履き替えて外の部室に行く生徒と学校を出る生徒が別れる。
沙羅の住む町は京都市の寺社の多い地域だった。学校の周囲は車の通りは少なく、少し行くと大きな通りもあったが、学校から沙羅の家までは細い道を抜けていけば着く。学校に通う生徒の中には自転車通学者もいたが、ほとんどが徒歩圏内の生徒で占めていた。
歩いて十五分程で沙羅は家に着くと、カバンからお昼の弁当箱を出してすぐに自分の部屋へと行く。部屋にはいつものようにテニススクールに通うためのバッグが用意してあり、タオルや着替えなどを確認するとバッグを閉めて自身もジャージに着替えた。身軽になったところで、カバンを背負って家を出た。
普段母親は家にいたが、時々買い物などに出掛けていていないこともある。今日もそのようで鍵を閉めて出る。家からテニススクールまでは電車で二十分程。家から駅までも遠くないので不便なことはなかったが、往復のことなどを考えると学校で部活しているよりは帰りが遅くなる。ただ、それは最初から分かっていたことで、塾に行っていることを考えるとそれほど負担でもなかった。もちろん、人がいるところは避けたいので、塾は行っていない。
難点を言えば、電車内だった。人が少ないところを求めて外でのクラブ活動にしたにもかかわらず、駅や電車内は人が多い。最初は、電車での往復か学校の部活動かで悩みもしたが、やっぱりいろいろ聞こえてくるとはしても、学校内の面倒くさい人間関係から離れられることはとても良かった。今では学校から帰り家を出るときはイヤホンで音楽を聴いてやり過ごしていた。
(右)
試合形式の練習中の相手からの言葉で沙羅は相手が打つ前に左に動く。相手にとって、決まったと思われた球に沙羅は余裕で追いつきフォアハンドで強く打った。
「沙羅にはかなわんな。何だか先を読まれているみたいに決められちゃうんやけど。あかんわ」
練習が終わった相手から言われて、「そんなー」と言いながら、沙羅はドキッとすると同時に、何だかずるいことでもしているような気持ちになった。
テニススクールでは、二、三時間のメニューをこなして帰宅する。
「ただいま」と言ってリビングに声を掛けると「おかえり」と母親が言う。
「今日のご飯は何?」
帰宅はだいたい二十時前後になる。小学生の下の妹はだいたい十九時頃に母親と一緒に食事をとる。沙羅が帰ってくるまで待つには小学生には少し遅い。だいたいいつも、ご飯を済ませていろいろな家事をしているときに沙羅が帰ってくる。
「今日は焼き魚なんだけど」
母親の答えに「えー」と言いながらリビングのドアを閉めて、洗面所で洗い物を洗濯機に入れる。そして、二階の部屋に荷物を置いてリビングに戻る。沙羅は練習で疲れて、お腹がすいていた。
「ねえ、今日お父さんは?」
「ちょっと遅くなるって、だから悪いんだけどあなた一人で食べてくれる」
妹が母親と一緒に夕食を食べるので、父親が気にして早く帰ってきたときも沙羅を待って一緒に食べるのが習慣になっていた。「うん」と返事をして椅子に座る。
リビングの奥では妹がソファーに座ってテレビを見ていた。今時のアイドルがゲストといろいろなアトラクションをこなしていく番組だ。めぐも見ているんだろうなー、と思いながらすでにテーブルに並べられているサラダを口に運んだ。少しして母親が味噌汁を持ってくる。そして、メインの焼き魚とご飯が並び沙羅の夕食の準備が終わった。
「最近、ほんとに元気になったね」
夕食を済ませた母親は一人で食べさせている沙羅に悪いと思ったのだろう、沙羅の料理が出ると向かいの椅子に座って話しかけた。沙羅は、テレビを気にしながらも母親を見て「そう?」と返した。