蟻の女王
「蟻の女王をご存じですか?」
それはとても蒸し暑い夜のことだった。
仕事に行き詰まって私は夜の街に泳ぎ出た。私には帰りを待つ妻もなく、年老いた両親は田舎で平和に暮らしている。都会は独り身の男に優しい。纏わり付く空気は、夜になってもなお湯気に満ちた浴室みたいで、私は肺が溺れていくように感じていた。
やっとのことで辿り着いたのは、ある一件のバーだった。初めての店だったが、溺れる者が藁を掴むように私はバーのドアノブを握った。
鰻の寝床のように狭く奥に深い作りの店は、入口からまずカウンター席が並ぶ。その奥には、ボックス席が見えた。私は隣のスツールの先客に会釈しながら、カウンターに腰を滑り込ませた。
「蟻の女王? なんだね、それは。女王アリのことかい」
その夜、隣の席の先客は若い男だった。バーの赤っぽい水族館の深海生物の水槽に似た暗がりでは、おおよその容貌しか見て取ることができない。彼の横顔の鼻梁は山脈の峰のように青みを帯びて美しく尖っていた。私は横目で不思議な言葉を発した男を窺いながら、汗を拭っていたおしぼりをテーブルに置いた。熱かったおしぼりは、もうひんやりとしている。
「いいえ、蟻の女王です。ご存じない?」
彼は素直に答えた私に対し僅かに顎を上げた。それがいささか不遜に感じられ鼻白みかけたところ、彼はカクテルの置かれたコースターをひっくり返し、胸元からペンを取り出すと、白い円の中央に字を書いた。
【蟻の女王】
私は、その字面の言葉で聞いたのとは別の不気味さを滲ませたコースターに見入った。一画ずつ視線でなぞってから、また青年を窺うと、彼は横顔のまま唇の端をつり上げた。
「なんだい、蟻の女王なんて勿体ぶって、女王アリのことだろう」
「お知りになりたいですか?」
素知らぬ顔で次の注文を待つカウンターの中のマスターにも、私にも、彼の生きてきた月日は及ぶまい。私は、若者の戯言を年長者らしく聞いてやろう、くらいのつもりで鷹揚に頷いた。
「聞こうじゃないか、その蟻の女王とやらの話を」
そこで私は、この青年が随分端整な顔立ちをしていることに気づいた。神話の英雄をモチーフにした彫刻を私は思い出す。英雄達は、みな不幸に散っていったものだ。
彫刻家が技巧を尽くして彫り出した横顔は、今は赤い闇に染まっている。ふっくらと優美な曲線を描く唇が、海鼠のように動いた。
「蟻の女王というのは、蟻の女王になるために生まれ、蟻の女王として死ぬ。――蟻の女王は、生まれた巣を飛び立った後、同じように巣から出てきたばかりの雄達と、交わるのですよ。それも何匹もの雄達と。若い女王に、何匹もの雄が群がって」
それはまるで砂糖に群がる蟻そのものの図だ。
彼は目を眇め、私は卑しい口元を慌てて手で覆った。
「彼女は、働き蟻を生まなければいけない。その為に、女王は胎にたっぷりと雄の精を飲まなければならない。その後すぐに、女王は巣を、自分が卵を埋めるだけの小さい穴を地面に掘って、そこに入って卵を産みます。それきり、女王は自分の王国からは出てこない。羽蟻の時期はとても短いのですよ」
羽を捨てた蟻が穴の中で小さい卵を幾つも幾つも産んでいく。生まれた蟻が穴を掘る。
その度に蟻は地の底へと深く潜っていく。
「巣を出たばかりの若い、美しい女王に、何人もの雄が挑んだことでしょう。女王を犯した雄は幸運です」
青年は酒で喉を湿した。私は、「なぜ」と彼に問うた。
彼は、
「女王のために、死ぬことが出来たからです。雄の蟻は、交尾をすれば役目を終えて死ぬのです」
と、静かに答えた。
キィ、と椅子が軋んだ音を立てる。私に向き直った青年の顔は、芸術家の作った仮面のように、暗がりにも白く浮かび上がった。暗く、赤く、そして、白く。
彼は、たかが蟻の話をするには美しすぎるように、私には思われた。
「これから話すのは、蟻の城の、ひとつの国の終焉の物語です。終わりは、小さな命の誕生から始まりました」
目を閉じれば、いつも浮かんでくる。
あなたはいつも、遠いところを見ていた。
闇に支配された世界で、あなたが見上げ続けたのは、果てのない青だ。
目をこらすほど、闇は深く、手探りする、伸ばした指の向こう。
蟻の王国に白い蟻が生まれたのは、ある冬の夜のことだった。
黒髪黒目の蟻の国に生まれた白い蟻は、白い髪と青い目をして、弱々しく産声をあげた。
加えて、女しか生まれぬ土塊でできた国に生まれたその白い蟻は、雄であった。女王の卵ではなく、何の間違いか娘のひとりが産んだ卵から孵った蟻である。
蟻の城では、役に立たない蟻は女王が食らう習わしであった。そうして女王の血肉となり、また新たな卵となって生まれてくる。
しかし、その赤子の泣き声があまりにも細かったので、女王は母となった娘に言った。
――この赤子はきっとすぐに死んでしまうだろう。こんな蟻は、食っても腹の足しにならん。
だから、その子を産んだ娘の、その子の母の好きにするがよいと、女王は告げた。
母になった娘は、自分の身に起こった奇妙な出来事によって、女王に罰せられるのではないかとひやひやしていたから、女王の寛大な決裁に喜んだ。女王は、女王の城の片隅に親子の家を与えた。
女王の国は、地下の迷宮。逃れ潜む場所はいくらでもあった。それでも、女王の膝下に置かれたことで、親子はようよう長らえた。
娘達は女王だけを崇めている。娘達は、互いを仲間と認識する。その男児は、おそらく娘達の誰にも、仲間だとは思われぬ。誰も彼もがうつらうつらと春を待つ冬であったのも幸いした。母になった娘も、そのうちに白い蟻のことを忘れた。
ある日、女王が男児のもとを訪れた。
男児はろくに母に構われもしないのに、幸いにして、すくすくと育っていた。女王に抱き上げられて、青く澄んだ瞳に女王を映して、男児は機嫌良く笑った。
女王の気まぐれは一度では終わらなかった。
――あの子は大きくなったろうか。また、あの青い瞳で、笑いかけてくれるだろうか。
もう一度だけ、いや、またもう一度、女王は足を運んだ。その都度、男児は女王に青い瞳で笑ってみせた。
そのうち、女王は、もう足繁く訪れている、というようになった。
女王は城に入ったが最後、城より出ることはならぬ。
娘達は、生まれたなりから自分たちで餌を取り、命じもせぬのによく働く。
城の全てが円滑に進んでいる限り、女王は玉座に座っているだけで良い。
玉座に収まり、卵を産み続ければよい。その限り、国は地中深く広がっていく。
自然と、男児は女王を慕うようになった。子供らしく、女王に話をせがみ、歌をねだる。果たすべき役割のない、少しの黒さも纏わない蟻の子は、まるで人の子のように女王に懐いた。
蟻の女王は、乞われるままに、男児をあやし、遊んだ。女王のたどたどしい話や、調子外れの歌に、男児はよく笑った。
男児の母は、女王の立派な娘のひとり、当然、男児を育てるより、自分の責務に熱心だった。よく働き、よく女王に仕えた。役に立たない白い蟻は、土壁の模様か何かのように扱われた。それについては、男児は何の感動もなかった。蟻とはそういう生き物なのだから。
それでも、精巧な歯車が一分の狂いもなく働く城で、女王だけが白い蟻に関心を払ったのだから、男児が女王を慕うのは、詮無いことだった。理無いことでもあった。女王は、蟻の城の女王。唯一無二の高貴なるお方。美しさの権化であるのだから。白い蟻の目にも、それは明らかだった。本能よりも深いところで――魂とかいう何かだろうか――誰しも、女王にはひれ伏さずにはいられないのだ。
そして、白い蟻はまだ幼くて、ただただ、この美しい女王が、自分のもとを訪れるのが、嬉しくてならなかった。
「あなたは知らないでしょう。女王がやってくるのが、待ち遠しくて、いつも暗い通りを、耳を澄ませて、あの宝石を打ち鳴らすような足音。それが聞こえた時の、溢れるような喜び。きっと、あれを無上の幸せというのでしょう。ねえ、あなたは知らないでしょう。どんなに、どんなに――白い蟻が、彼女に焦がれたか」
やがて春が来て、蟻の城は一層忙しくなった。春から夏は、蟻たちの最も忙しい時期である。冬を越すだけの餌をかき集め、女王に蜜を差し出さねばならない。過酷な冬は、あっという間にやってくる。
めまぐるしく働く娘達に驚いた白い蟻の少年は、外の世界について女王に尋ねた。
女王は彼女の知る限りのことを少年に教えた。
――王国の外には、空があり、どこまでも高く、青い色をしている。時に赤く、白く、暗くなり、星が光ったり、雨といって、水が降ってきたりするのだよ。
少年は、暗く湿った蟻の王国しか知らず育っていたから、女王の言葉に大いに驚いた。
女王は少年の頬に、繊手をそっと添えて、青い瞳を覗き込んで言った。
――大概、空はお前の瞳のような、澄んだ青色をしている。
少年は、女王に、空を見たことがあるかと尋ねた。
――あるとも、お前が生まれる前、大昔のことだ。
女王は少年に話して聞かせた。
川には魚が泳ぎ、空には鳥が舞う。噛むと酸っぱい味のする草や、よい匂いのする花、引き抜いて吸うと甘い蜜。柔らかく湿った茎の寝床。日の光を浴びた青々とした葉は、時に鋭いこと。
女王は別の蟻の城で羽を持った次代の女王として生まれた。蟻の穴を出て、あまりの眩しさに目が潰れるかと思った、と言って女王は珍しく声を上げて笑った。
羽に風を受けて、女王は飛んだ。
大昔といえども、蟻の女王は年を取ることがない。死ぬその間際まで、美しいままで君臨し続けるのだから、少年には、その大昔の見当がつかない。
女王は男児の目をじっと見て、それから遠いところを見つめた。
男児は女王の耳元に唇を寄せて囁いた。
「その、蟻の少年は、外に出てみたいと言ったのか」
私の推理を、彼は俯きがちの笑みで否定した。
「いいえ、少年は、女王に尋ねたのです。あなたは、外に出たいのですか、と」
女王は、否とも応とも、答えなかった。
彼女の大勢の娘達は王国の外を見る。空を、彼女に似た黒い瞳で。
女王の黒い瞳は、特に黒々として、この世の憂いを全てかき集めても、こうも切ない輝きを宿すであろうか。女王とは、蟻の女王とは、まさに美しいばかりであった。
――わらわが、この国の女王となる以前、わらわはただ一匹の、羽の生えた雌蟻であった。広く青い空を飛んで、若い雄達と交わった。彼らは、わらわにお前達の種を残して死んだ。わらわは腹に卵を持って、この地に城を作った。わらわは、多くの娘達に恵まれ、国は栄えている。
――わらわは死んでも、この城を離れられぬさだめだが、これ以上のことはあるまい。
少年は、さだめという言葉の意味について、女王に尋ねた。
――お前、白い蟻、お前は、本当は生まれるはずのなかった白い蟻。さだめなど、お前は知らずともよいのだ。
女王の言葉を聞いて、少年は悲しげに首を振るしかなかった。
少年の容貌は、この城の全ての娘達と同じように、女王によく似て、たいそう美しかった。ただ、その瞳は、娘達がみな夜空を映しているのに、少年だけはよく晴れた空の色を映していた。
からりと晴れ上がった空に似た瞳、太陽の光や、月の光を紡いだような白い髪。
「憂い顔の女王にたまらず、いつか、僕が、女王様を連れて行くよ、と蟻の少年は言ったのです。毅然として、優しい女王。悲しみを……弱さを見せない女王。少年は幼く、愚かで、浅はかだった」
私は想像した。私は、充分に年を取った大人だったから、おそらくその女王のような心情を経験したことがある。澄み切った子供の、打算も何も無い眼差しは、時に、ひどく胸を刺す。
ここは蟻の王国、彼女は蟻の女王。地下の迷宮王国の、女あるじ。
幾千幾万、幾億のしもべを従えた、彼女は王国そのもの。娘達と繋がった髪の一本一本は、彼女を地下に閉じ込める献身の桎梏。
――連れて行ってくれるというのか、お前が。
どこへ。
いつかなど、出口など、女王にはないのに。
深く深く穴を掘り、まるで天に向かって手を伸ばすように、巣を張り巡らせた。大きく手のひらを広げ、いっぱいに腕を伸ばすように。
けれども、伸ばすほどに、天は、空は女王から遠ざかり、地の底深くへと閉ざされていく。
空は広く、何の境もなかった。かつて、女王は思うままに羽を動かして空を飛んだ。あの青く、美しい空を、風に乗って自由に。
本当に自由だった。
背中の羽を、女王は自ら折ってちぎり取った。羽は地上に置いてきたから、きっと朝焼けの空や、雲が広がる空、夕焼けや、灰色の空から落ちる雨を見上げて、朽ち果てたはずだ。幾昼幾夜、空を見上げ、空に、土に還ったのだ。
ああ、本当に自由だった。
それから、女王は、少年のもとを訪れることをやめた。
女王は、女王の仕事をするのだ。甘い蜜を流し込まれるままにしこたま飲み、腹をぱんぱんに膨らませ、卵を産み続ける。
白い蟻が生まれた冬の、次の、次の冬、白い蟻は、彼女の王国を出奔した。
これを聞いて、女王は娘のひとりに言った。
――春を待てば良かったろうに。
彼は、酒で唇を湿した。私はいつしか、彼の作り話に引き込まれていた。
「……女王は、白い蟻を心配していた?」
「女王はこんな風に思ったと思いますよ。白い蟻は、あの子はとても賢かったから、外敵から逃れ、うまく餌を取り、葉陰に休み、清水に憩いし、外の世界で生きていけるかも知れない。どこかで若い雌と出会って、卵を作り、種を存続させるかも知れない。自分には関係のないことだけれど、だって、あの蟻は、城にとって不要な蟻だったんだから。ただ、外の世界は――特に冬は、厳しいのに、ってね」
「少しばかり冷たくないかね」
「冷たいも何も、蟻なのですから」
「蟻に心はない?」
「……人とは、不思議な生き物ですね。すぐに矛盾する。目的を見失う。蟻は、生まれてすぐに働き出します。白い蟻は、とても弱い蟻でした。自分で這うことは愚か、食うこともできなかった。ただ、泣くだけ。ふやけるほど泣いて……人間の赤ん坊のようですか」
生まれたばかりで、脂肪が栓をした瞼を開くのは、力が要った。霞む視界を、瞬きすると、涙が溢れ出る。すると、目の前にあったものの輪郭が、明晰になる。
そこにあったのは、白い面、黒々とした長い睫に覆われた、漆黒の瞳。上品に収まった形の良い鼻、赤い唇。美貌のあるじ。蟻の女王。この世界に生まれ出て、眩しいほどに瞳に焼き付いたあなたの麗姿。
「蟻であったか、ひとであったか……もうそれも忘れてしまいました」
終焉は、その次の年の冬にやってきた。
城の井戸に毒が投げ込まれたのだ。事態が発覚した時には、縹渺とした城の広間は、死の匂いに満ちていた。
女王は黒い花びらのように折り重なった娘達に埋もれるようにして立ち尽くす。女王の髪の一本一本は娘達と結ばれ、娘達の終の一息まで女王に伝えてみせた。
じょうおうさま じょうおうさま おかあさま
さざ波のように、娘達の声が、細い糸を揺らした。それも、いつか雨が止むように、静かになった。
娘達は、最期まで、己の働き蟻としての生を恨むことがなかった。善き蟻であり、愛しい娘であった。
「ああ、新たな女王となる卵まで、死んでしまった」
彼女は抱いていた卵を、静かに下ろす。卵は屍となった娘達の間に、ぽつんと星のように落ちた。
女王の頬は透けんばかりに青ざめて、涙は水晶のごとく。
折り重なる屍の山の向こう奥には、宝玉で飾られた玉座がある。
女王は血の裳裾を引いて、娘達の遺骸を避けて進む。やっと辿り着いた玉座に倒れ込み、肘掛けに顔を伏した。
この城はもはや、女王ただ一人を残し死に絶えた。
累々たる死屍の黒い海、王宮の高く冷たい天井に、女王のすすり泣きだけが響く。
そこへ、甲高い足音が遠くからやってきた。深く深く地の底へと広がり続けたこの城の、どこからか。じめじめと湿った死の空気が揺れた。
彼女は濡れそぼった顔を上げる。漆黒の双眸に僅かな期待が宿ったが、すぐにかき消えた。
玉座の下、娘らの死骸の山の間に、彼女とよく似た顔をした、しかし、真っ白い髪と真っ青な目をした、青年が立っていた。
青年はほほえみを浮かべ、跪く。
女王はくたりと玉座に沈み、青年に、「お前が帰ってくるとは思わなかった」と言った。
あなたに、空を見せてあげたかったと、今や青年となった白い蟻は、女王に答えた。
「ずっと、あなたの目に、あの青い空を映そうと、そればかり願っていたのです」
「お前が毒を井戸に毒を」
「そうです」
「お前を追い出したこの国が憎かったか」
「いいえ」
「お前を捨てた母が憎かったか」
「いいえ」
「ならば、わらわが憎かったのか」
「いいえ、いつか言ったでしょう。あなたを連れ出して差し上げると」
「お前はおかしなことを言う。わらわは蟻の女王、ここから先、どこへもゆけぬ。もうすぐ待てば、この国は滅び、新しい国が興る。わらわは蟻の女王として生まれ、女王として死ぬ。わらわは女王としてなすべきことをした。お前を生かしたことだけだ。わらわが、女王としてなすべきことをしなかったのは」
「習わしの通りに、あなたが食べてくれれば良かったのです」
女王はぽつりと続けた。「本当に、お前はまるで、二本の足の獣のような――人間のようなことを言う」
王国の完全な調和、秩序。役目を持って蟻たちは生まれてくる。ただの一匹たりと、役目を持たない蟻はいない。
「僕は役目を持たなかったのではない。それは、あなたに食らわれるという役割を、あなたが奪ったからです。役割を持たずに生まれてくるのは、人間だけです」
「人は人を食らうまい。わらわに食らわれたいとお前が言うのなら、蟻は蟻でしかない」
「ずるくて美しいあなた。人は罪を犯すのです。僕を蟻から、人にしたのは女王、あなたです。あなたの罪です」
「何を罪とする」
「あなたの憧れを」
目を閉じれば、いつも浮かんでくる。
あなたはいつも、遠いところを見ていた。
闇に支配された世界で、あなたが見上げ続けたのは、果てのない青だ
目をこらすほど、闇は深く、手探りする、伸ばした指の向こう。
女王は、痛みを堪えるように、青年の言葉を反芻するように、しばし目を閉じた。
「……偽りを申すな」
「僕はあなたの憧れの化身となる役目を、あなたから託された。僕は、あなたの望みを叶えます。何としても叶えなければならないと、心の底から思うのです。これが、僕が狂った蟻だからか、それともなり損ないの人間なのだからかわかりませんが、僕に思い当たる理由はたった一つ。人間の言葉で言う、あなたへの愛なのではないですか。
「愛を知って蟻を捨て、愛を知って人になったのか、蟻だったから愛に焦がれ、人だから愛を願うのか、どちらにせよ、これはもう、揺るがない、僕とあなたの間にある、たったひとつのまことなのですから。この愛しか、僕にはないのですから」
「……まこと、人のようなざれ言を」
女王はかっと目を開くと叫んだ。
「お前は狂っている! お前はわらわの娘達を殺した! わらわの国を滅ぼした! わらわの……! わらわの……!」
「愛しているからです。蟻の女王、あなたを愛しているから、僕からあなたを奪う全てを、僕は壊すのです」
白い蟻は、血に血を塗り重ね、玉座に向かう。
女王の黒く美しい瞳はかつて、青く澄んだ空を映し、彼女の心に消えぬ憧れを刻み込んだ。ならば、それも壊さねばなるまい。
かつて空のようだと言った青だけを、彼女の瞳に与えるために。
青年の血の抱擁に、滅びた王国の女王が、悲鳴を上げて抗う。
「あなたは憐れんだ。僕を、そしてあなた自身を。あなたの憐れみが、僕を人にした。だから、僕はあなたにこう告げるしかないのです」
闇は深く、伸ばした指の向こうで、ただあなただけを。
「女王、蟻の女王、僕はあなたを愛しています」
青年は、「僕の話は、ここまでとしましょう」と言って話をやめた。
汗をかいたグラスの中身は透明と琥珀色の層に分かれていて、マスターはバックヤードに引っ込んでいて、店は彼と私きりになっていた。
「続きがあるのだろう」
引き留める私を遮って、彼は立ち上がった。
「妻が待っているのです」
「細君がいるのに、夜遊びとは」
「妻はいま、身重でして。情緒不安定なのです」
私は尋ねた。
「どんなひとだね」
「美しく、気品があって、誇り高い、女王のような女です。美しい黒い目をしていましたが、もう潰してしまいました。やっと僕の子供を孕みましたから、腹が重たくて、巣からどこへも出られません」
その時、立ち上がった彼の頭が、店の赤い照明を遮った。深海生物の水槽は、洞窟の暗がりに変わる。その仄暗い闇のうち私は気づいた。彼の髪が、非常に薄い色をしていて、同じように薄い目の色が、青いということに。
「本当は蟻の女王なんていないのだろう!」
私の問いかけに、青年は答えず、扉を開ける。
夏の夜の闇に、青年の後ろ姿が飲まれ、扉が閉じた。