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Series lacrimarum ad lunam

月を望めぬリラの花

作者: 弐村 葉月

「テーム川上流区。橋の西側端から3つか4つ目の、ライラックのサンドロ家……か」


 皺くちゃのメモ紙に走り書きされた簡易な説明を読み上げ、そこに書かれた雑な地図と街並みとを交互に見ながら、一人の男が石畳の広い通りを歩く。白昼堂々、顔の半分程までを覆う大きなフードのついた外套を羽織ったその姿は、白に近い灰色の石造りの街並みには不釣り合いで、少しばかり怪しく見える。立派な屋敷が立ち並ぶ、ここエシグイの街上流区の中とあれば尚更である。しかし、長身痩躯で目立つ彼が、そこかしこの門番からの視線を少々集めながらも何とか詰め寄られないで居られるのは、しゃんと伸びた背筋とはだけた外套の隙間から覗く、黒のシャツと白のベスト、ズボンといった身なりがしっかりしているからだろう。


「ロンドさんも紹介するなら、もう少しちゃんとしてくれても良いのに」


 地図を書いてくれた、自身の兄貴分でもある人物へ独り文句を言いながら、男は一旦立ち止まった。街の中央を走るテーム川にかかった橋から大きな屋敷を数えて4件目に差し掛かる。ライラックのサンドロ家、との事だがそれが一体どういったものなのか彼には理解が及ばなかった。サンドロ、という名前らしい事は辛うじて分かるが、ライラックの花畑でもあるのか、はたまた家紋か。これまでの全ての家には大きな塀と門があり、立派な前庭もあった為、そんな抽象的な表現で判断するなど不可能に近い。

 これ以上歩きまわっても仕方がない。もう出来るとすれば、一軒一軒訪ねて行くか、通りを行く人々に聴きこむかしかない。しかし、彼としてはあまり気が乗らない方法に、項垂れて大きく溜息を吐いた。


「もし」


 息が吐き切られるか否か、というところへ声がかかる。凛とした女声に、男は慌てて居住まいを正した。目の前には、ロングスカートのメイド服を着こなした女が、切れ長の目で見つめている。


「もしや、ディルク様ではありませんか?」


「あ、はい! そうですが」


 女のきりりとした雰囲気に呑まれ、男――ディルクは思わず少し大きな声で返事をした。ほんの少し前までぼやきながら溜息を零していた男から、そんなはっきりとした返事が来るとは思っていなかったのだろう、女は一瞬驚いたように眼を開いたが、すぐに平静な顔になり、両手を組んで深々と頭を下げた。


「失礼致しました。私はサンドロ家に仕えさせて頂いております、アレイディアと申します。本日、ディルク様をご案内するよう仰せつかっております」


 アレイディアと名乗ったメイドの丁寧な対応に、ディルクは両手を伸ばして振って拒否を示す。


「いえいえ、そんな畏まらないでください。こちらも突然約束を取り付けてしまったみたいで」


 数日前、走り書きの地図を「仕事だ」の一言で押し付けてきた友人の事を思い出すディルク。


「これが此方の仕事ですので。お気になさらず」


 そんな彼の気遣いなど気にも留めず、アレイディアは言い放った。困った苦笑いしか浮かばないディルクへ、さらに彼女は言葉を続ける。


「では、お部屋へご案内します」


 メイドは踵を返し、二人のすぐ近くにあった格子状の門扉を開く。所作の一つ一つに切れのあるアレイディアに若干気圧されながら、ディルクはその後を着いて行った。






 正門をくぐり、広い中庭を、向かって右側のライラック畑へ抜け、塀の内側に立ち並ぶ広葉樹の影を進み、ディルクは裏口よりサンドロ家屋敷内へ案内された。アレイディアはただ黙って先を歩むのみである。屋敷の中は静かで、裏口からすぐ右手に、貴族の家のものにしては随分と狭い、すれ違うのも大変そうな階段が見えた。裏口、ということだからか、壁や床などの内装は塗装もされていない木で出来ており、壁紙や装飾品の類は一切見えない。簡易的なキッチンが左手側に、小さな椅子とテーブルだけが狭い部屋の中央に置かれ、その向こうに、これまた内装と不釣り合いな、薄紫色の細やかな細工がされた、重そうな鉄扉が据えられている。まるで後から仕方なしに作った空間に、ディルクは見えた。


「足元にお気をつけください」


 短くそう警告し、迷いなく階段を行くアレイディアの後ろを、ディルクは少々の不安と戸惑いを見せながら続く。案内された入り口や貴族とは思えぬ謎の一室の存在もあり、もはや自分が一体何処に、誰の下に案内されているのかが気がかりで仕方なかった。しかし、努めて事務的で毅然とした態度のアレイディアに、そんな弱音は吐きづらい。

 一段上がる毎に少し軋むのに、掃除は徹底されているようで誇り一つないその階段。何度か切り返し、やがて終点の扉を開いた先で、アレイディアは止まり、振り返った。

 続いてドアから出てきたディルクは思わず辺りを見回す。どうやらここはちゃんと屋敷の一画らしく、内装は立派で、白の壁紙も緑のカーペットもされており天井も高い。恐らくは屋敷の上階、正門から見れば右端に当たるのだろう。ディルクの右手側には長い廊下が続いていた。

 アレイディアは、登ってきた階段から真っ直ぐのところにある扉を数回ノックし、中の人物とやり取りをしていたようだが、すぐにディルクへ軽く頭を下げ、横へ一歩ずれながらドアノブに手をかけた。


「お待たせ致しました。こちらへどうぞ」


 言って、彼女は素早く扉を開けて部屋の中へディルクを招き入れる。そこが誰の部屋で、どうしたら良いのか、もう少し説明をしてくれてもいいのではないか、とディルクは未だ戸惑いが抜けないが、ここまで来て言っても仕方がない。

 観念して招かれるがままに部屋に足を踏み入れ、同時に眼を見開いた。後ろでアレイディアが部屋に入り扉と鍵を閉める音がする。しかし、ディルクにその音は届かない。彼の眼には、ただ、白。それだけが映っていた。


「……これは、何かの冗談ですか?」


 数秒の沈黙の後、ディルクは後ろに首を向けて問う。部屋は、何もなかった。いや、何も見えないようにされていた。白いタイルの床。同じ色の無地の壁紙、天井。天井に仕掛たれた白光を放つ呪印。そして、唯一の出入口である扉のすぐ横から、向かい側の壁まで伸びた、真っ白なカーテン。高さは天井まで達していないものの、180を優に超えるディルクの身長でも、つま先立ちをしてもカーテンの向こうは見えそうにない。

 一体これは何なのか、この部屋が何を意味しているのか、ディルクには理解が及ばなかった。


「少々お待ちくださいませ」


 問いには答えずに、アレイディアは壁とカーテンの隙間から、向こう側へとその姿を消す。この部屋の状態に何か意味があるならば、一言の肯定くらい残してもバチは当たらないだろうに、とディルクは憤るが、それはすぐに霧散した。部屋を仕切る白い布の真ん中辺りが、僅かに開き、そこからアレイディアが顔を出す。


「どうぞ、こちらからお入りください」


 台詞から考えても、やはりこのカーテンは仕切りらしい。そんな事を考えながら、ディルクは白い布の隔たりを掻き分け、くぐり抜けた。

 広がるは、一つの少女の部屋。最初に感じたのは、足元の柔らかさ。毛の長いふわふわとした絨毯が敷かれていた。ディルクから見て右奥には天蓋付きのベッドが。向かいの左手側の壁にはタンスが。そして。ロッキングチェアに座る、両の瞼を閉じた少女。紫丁香花のような色の床につきそうな長い髪は、よく整えられて乱れなく真っ直ぐで、肌は新雪のように白い。灰色のゆったりとしたロングのワンピースに身を包み、静かに佇んでいるその姿は、精巧な人形のような、無機質さに震えるような美しさでそこにあった。ディルクは思わず、息を飲む。


「貴方が、ディルク様ですか?」


 小鳥の囀りのような、小さく響く声。声音に聴き惚れて、ディルクは返事をするのを数秒忘れた。無言を疑問に思った少女が小首を傾げる頃、ようやくディルクは慌てたように一歩前へ出る。


「こっ、この度はお招き、ありがとうございます」


 ディルクは、ぱさりとフードを落とし、その顔を顕にした。緩くウェーブした男にしては少し長い金髪。中性的な整った顔立ち。少し頼りなさ気なタレ目気味の碧眼。何より、ボリュームがある髪から突き出て見える、斜め上に尖った特徴的な耳。

 その姿に、アレイディアだけが少し呼吸を乱した。


「エルフの里、ダ・ルフヘイムより参りました。霊薬師れいやくしディルクと申します」


 胸に手を付き、お辞儀するディルク。

 人に似て非なる存在、エルフ。そして、霊薬師。それは、種々様々な薬と霊呪術に精通し、その二つを持って病を治す技術を持った者の名だ。病、薬に関する確かな知識と、才能の有無が左右する術の行使が出来なければ成ることの叶わない、この世界を見回しても稀有な職業。

 エルフの霊薬師。それが、ディルクだった。


「私はフランソワーズ。このような座ったままでの対応ですみませんが、許してくださいね」


 彼が頭を上げるよりも少々早く、フランソワーズはそう言った。見た目や口調や声音の割にせっかちなのだろうか、とディルクは考えるが、目を閉じたまましんとしている様子を見る限り、よくわからない。そのまま、フランソワーズの事を観察しているのもディルクとしてはやぶさかではなかったが、今回は友人の紹介で仕事に来ているのだ。失礼にあたってはならない、と彼は意を新たにする。


「それで……如何されましたか?」


 医者のように、ディルクは問う。友人ロンドからは詳しい話を聞くことは出来なかった。急ぎの病ではない、との事で彼も霊薬師が必要な理由までは伝えられていなかったらしい。その為、ディルクは悉にフランソワーズを観察する。

 一見して、少女が病に侵されているようには思えない。椅子に座ったままあまり動かないが、エシグイ領主分家たるサンドロ家の娘だとすれば、年齢の割に落ち着きがあって何ら不思議はない。気になる点と言えば、二つ。ずっと座ったままで、また本人もそれを「すみません」と言っている事。足か腰か、わからないが自力では立てない可能性。そして、もう一つ、少女がずっと閉じている目。意図してか、それとも。


「あの、ですね……」


「僭越ながら、私からご説明させて頂きます」


 歯切れの悪そうなフランソワーズの言を、隣に控えていたアレイディアがばっさりと遮り、一歩前へ出てくる。

 俯くフランソワーズ。唇を固く結び、言葉を待つディルクへ、メイドは淡々と語った。






――エルフの里、ダ・ルフヘイム。ロンドの家樹。

 木造、というよりは樹そのものが居住空間と化している、エルフ族特有の家樹かじゅの中、ディルクは、ぐるぐるに巻いた太い枝で出来たテーブルを挟み、友人であり兄貴分でもある男、ロンドと向かい合っていた。無精髭を生やした、線の細いディルクと対照的な男臭いエルフは、手元に転がる数々の小ぶりな宝石を、モノクルを通した瞳で眺めている。


「内々でお前を紹介してくれ、と言われた時も何かあるとは思ったが、まさかそんな依頼とはなぁ」


 口角を上げながら、ロンドは皮肉った。対面のディルクは、テーブルに投げ出した上半身から顔だけを持ち上げ、睨む。


「仕事持って来てくれるのは助かるけど、もう少し事前情報が欲しかったよ……」


 弱気な文句を言いながら、ディルクは組んだ腕に顔を埋めた。


『お嬢様の眼を、治して欲しい』


 メイド、アレイディアから告げられた短い依頼の言葉。フランソワーズは、ディルクが思い立ったように、やはり全盲の少女であった。ただし、生まれながらの。


「先天的に見えないんじゃ、手の施しようがねぇだろ。それこそ、薬なんかでどうにかなるもんじゃねぇ」


 ロンドの投げ捨てた小さな宝石が、ディルクの顔の横まで転がってくる。


「……全てを見渡す宝眼、って魔具が昔話にあったよね。ロンドさん、似たようなの創れない?」


 伸びてくる手が、ディルクの視界から宝石を取り去った。


「馬鹿言え。俺はただの細工工だ。そんな恐ろしい術かけられるわけないだろ。それに、両目に宝石埋め込んだ人間なんて怖すぎる。お前、確実に訴えられるぞ」


 ロンドの意見も最もである、とディルクはそれ以上の追求も発言もしない。どうにも気分が晴れない様子の弟分を見て、ロンドは小さく息をついてモノクルを外し、宝石の鑑定をやめた。


「考えても仕方ないだろうに。向こうも、諦めをつける為に異種族の薬師に依頼したんだろうしな。また次の仕事どっかから探してきてやるから、今回は運がなかったって事にしときな」


 ロンドの言葉に、ディルクは昼間のアレイディアとの会話を思い出す。


――それは、眼を治してくれと依頼され、取り敢えずの診察をして一先ず終わりにした、後の事。フランソワーズの部屋を出てすぐだった。


「ディルク様」


 アレイディアの呼びかけに振り向くと共に、彼女はディルクへ少し重たい小包を手渡した。重さと感触、ちゃり、という軽い金属音からその中身が硬貨だとわかる。


「……これは?」


「今回の診察料です」


 そう言い切るアレイディアに、ディルクは怪訝な顔をした。彼は医者ではない。薬を処方したならばその代金を得るが、今回は何も持ってきていない為、金を受け取る道理などないのだ。


「受け取れません。代金は、次回持ってくる薬で判断致しますので」


 毅然と、包みを押し返そうとするディルクだが、アレイディアは両手を後ろで組み、全く受け取ろうとせず、首を横に振った。


「返却も、次回も、必要ありません」


 何を言い出すのか、と眼を見開くディルクへ彼女は続ける。


「フランの眼は生まれつきです。旦那様の命により、これまで何人もの医者に診ていただきましたが、結果は皆不可でした。その度に、悪戯に希望と絶望を押し付けられ嘆くフランの姿を、私はもう見たくありません」


 平静を装ってはいるが、それが見栄である事はディルクにもわかった。微かに震える声で呼ぶ主人の名は親愛を感じる呼び捨てだったから。


「挙句の果てには医者でもない薬師に頼るとは……いえ、失礼しました。ディルク様を貶しているわけではありません。ただ……」


 アレイディアは言葉に詰まっているようだった。その心根にあるのは、憤りであろう。ディルクに対してではない。数々の医者が駄目だったから、今度は薬師に、という家の主の判断に対してなのだろう。アレイディアの言い方は決して褒められたものではないが、間違いでもない。病を治すのは医者の仕事。薬師は、それに必要な薬を用意するのが仕事だ。

 自身の感情に翻弄されて、二の句が継げないアレイディアの足元へ、ディルクは硬貨の詰まった包みを投げ捨てた。音と行動に驚く彼女に、背を向ける。


「数日内に、また必ず来ます」


 そう言い残し、ディルクは行きしに案内された階段を下っていった――。


「呆れた」


 ディルクの語る事の顛末を聞き終えたロンドは、にべもなくそう言い放つ。


「結局お前も意固地になってきたんじゃねぇか」


 ディルクは言い返せず、テーブルに両肘をついて頭を抱えた。


「よくもまあ、対処薬の一つも思いつかない癖にそんな啖呵切ってきたもんだ。昔から勉強は出来ても後先考えれない頭の固さは変わらねぇなディルク」


「あなたったら、自分から紹介しといてその言い草は無責任でしょ」


 ずけずけと説教じみた事を言うロンドの後ろから、一人の女が大きな鍋を両手に持ってやってきた。ウェーブのかかった茶髪と口元のホクロが印象的なロンドの妻、サーシャである。


「とは言ってもだなサーシャ」


「手先しか取り柄のないあなたとでも、二人協力すれば妙案が浮かぶかもよ?」


 笑いながらちゃっかり酷い事を言うサーシャは、テーブルの真ん中に持ってきた鍋を置いた。湯気とともに立ち昇る優しい香りは、彼女の得意料理であるコーンクリームシチュー。もう夕飯の時間か、とロンドは散らばっていた商売道具の宝石を足元のから持ちだした箱の中に丁寧にしまう。


「それこそ、術を仕込んだ義眼くらいしか手はないだろう。とは言ってもそれは負傷した人間の兵士が行うものだ。ディルクには専門外だし、そんな技術を持った奴なんて知らん」


私達エルフには霊覚があるから、もし眼を怪我してもそんな困らないものね」


 会話をしながら、サーシャはロンドの隣で床に向かって手を振る。巻いた枝で出来た床の一部からまた枝が伸び、ロンドやディルクの座っているのと同じ椅子を形成した。エルフは生まれつき、このような術が使える。いや、正しく言えば術は後々覚えるのだが、その為に必要な霊力の扱いは生まれながらだ。人間に、それは出来ない。彼は生きて行くのに霊力を使わないからだ。草も木も動物を人もエルフも、全ての命は霊力を持っているが、それを扱うのには大きな差がある。人の中で霊力が行使出来るのは、長年その為の訓練を積んだ兵や術士といった一部の者だけだ。


「よしんば義眼が手に入ってもそれを手術しなくてはならないし、埋め込んだとて兵士ならいざ知らず、滅多に外に出ない貴族のお嬢様にその義眼を動かす術が使えるのに一体何年かかるんだ。才能がなけりゃ、一生出来ないかもしれん」


 それこそ、悪戯に希望と絶望を押し付ける事になる。

 ディルクは考えた。

 少女の眼を元に戻す事は出来ない。最初から存在しないものなのだから。

 術を仕込んだ義眼をつける事は難しい。今からそれを作成出来る技術者と義眼を埋め込める医師を探さなくてはならない。情報を集める事は出来るが、どれだけ時間がかかるかわからない上に、完全に他人任せだ。

 霊薬師として、ディルクが取れる方法。少女に光を与える方法。


「……霊覚」


 ディルクはそう呟いた。木の器にシチューを装っていたサーシャも、スプーンを頬張ったままのロンドも、彼を注視する。視線を返さず黙考する事5秒。ディルクは突然立ち上がった。


「ちょっと行って来ます」


 言って、ディルクは部屋の壁に手をかける。反応して、枝で出来た壁の一部が一人分の穴に開く。外はすっかり暮れて、微かに月が登っていた。


「今からか? もう夜だぞ」


「そうよディルク。せっかくのシチュー、要らないの?」


「後でいただきに来ます!」


 宣言し、ディルクは家樹から飛び出す。十数メートルの高さから降りて、地面を力強く踏むとともに全力で駈け出した。

 “窓”から見える、遠ざかっていく弟分の背を見て、ロンドは溜息を吐いて苦笑する。


「あいつ、やっぱ馬鹿なんじゃねぇかな」


 その日。日が昇るまで、ディルクはサーシャのシチューを受け取りには来なかった。






 ディルクがサンドロ家を訪ねてから3日が過ぎた。時刻は、3日前とほぼ同じ。天候は曇。大きなバッグを片手に、サンドロ家の正門をディルクはくぐった。

 見据えるは、屋敷に右側最上階。そこだけ、窓がない。そういえば、あの部屋には窓はなかったな、と固くディルクは唇を結ぶ。


「何者かな、君は」


 不意に、前方からそんな風に声をかけられ、肩を跳ねさせるディルク。慌てて見たその方向には、一人の少年の姿。襟元のレース飾りがされた服を着ていることから、貴族の子だろう事が伺える。背は、ディルクよりも頭ひとつ分以上低いが、その眼光は嫌に鋭い。


「薬師の者です。こちらの屋敷の方お声をかけていただき、参った次第です」


 驚いた事を悟られぬよう、礼儀正しく答えるディルク。少年は、何か考えるように暫し顎に手を当てていたが、やがてそれをやめた。


「僕はオーバン=E=サンドロ。この家の次期当主になる者だ。覚えておいて、損はさせん」


 鋭く指を突きつけ宣言し、少年はディルクの横を過ぎて屋敷を出て行く。次期当主、ということはサンドロ氏の息子か。尊大な態度とつまらなそうに眉間に皺を寄せていた様相は、儚げな雰囲気のフランソワーズとは似つかないが血縁なのだろう。

 気を取り直し、ディルクはライラック畑の方面から裏口を目指した。


 狭い階段を登り切った先。一度しか通ってないのに覚えてしまったその道の先にある、目的の部屋の前にアレイディアが居た。廊下に彼女しかいない事を確認し、ディルクはフードを上げる。


「本当にまたいらっしゃるとは思っていませんでした」


 皮肉っぽくもなく、純粋に驚いたようにアレイディアは告げた。続いて、一度居住まいを正してから続ける。


「先程、庭にいらっしゃったのはオーバン様です。フランの異母弟に当たりますが、お互いにその存在は隠されておりますので、どうかご内密に」


 一瞬、ディルクは脳内が空白になった。そんな家族が居ていいのだろうか。到底、理解出来る事ではない。事情があるにしても、それが本当に家族と言えるのだろうか。疑問は次々と沸いてきて、ディルクは逆に口を噤んだ。

 その無言を肯定と取ったのか、アレイディアが部屋の扉を開ける。


「入っても良いので?」


 先日は再訪を断った。のこのこと現れたからと、本当に招き入れても良いのか、敢えての問いだった。


「正直、期待はしていません。お嬢様に淡い希望を持たせるのも、心苦しいです。ですが、そんな隈だらけになってまで現れた貴方を追い返せる程、私は薄情ではありません」


 言われて、ディルクは自分の目元に触れる。触ってわかる筈はないのだが、アレイディアは隈があると言っていた。事実、前回この屋敷に来てからろくに眠れていないのだが。

 よく人を見ているのは、主人の代わりなのだろうか、そんな事を考えながらディルクはフランソワーズの待つ部屋の中へと入っていった。

 白いカーテンをくぐり、フランソワーズの居城へ足を踏み入れる。少女は、前回と同じ揺り椅子に座っていた。


「数日ぶりです、フランソワーズさん。ディルクです」


 物音だけでは誰が来たかわからない筈、と先んじて自己紹介するディルク。フランソワーズは、小さく頷いた。


「いらっしゃいませ、ディルク様」


 少し、声が固い。これまで何度も、希望と絶望を繰り返してきたとアレイディアは言っていた。今回もまた、そうなると思っているのだろう。

 それを、覆したい。その一心で、ディルクはここ毎日を過ごした。寝る間も惜しむどころか、眠る事を忘れる程に。そんな想いが、バッグを床に置く仕草を予想よりも乱暴にして、物音がなる。粗野な音に一瞬怯えたフランソワーズの様子に、横を過ぎるアレイディアから思い切り睨まれた。

 気不味そうに肩をすくめてから、ディルクは床に膝をついてバッグを開き、中身を漁る。小瓶や袋や製薬道具が雑多に入ったそれを数分かき回し、彼はガラス製の小ぶりな薬瓶を一つ、取り出した。


「最初に、ご説明致します」


 小瓶を手に立ち上がり、ディルクは真っ直ぐにフランソワーズを見つめる。


「フランソワーズ様に視覚を与える事は、私めの薬では不可能です」


 目に見えて、フランソワーズ、アレイディアの双方が落ち込むのがわかった。ですが、とディルクは声を大きくする。


「視覚ではなく、霊覚ならば、授ける事が出来るかもしれません」


 霊覚、聞きなれない言葉だったのだろうフランソワーズが首を傾げる横で、アレイディアは否定の意で首を横に振っていた。


「お嬢様は兵士でも術士でもない。霊力は扱えない」


 その台詞を、待っていたとばかりに、ディルクの口元は弧を描いた。


「その為の、霊薬です」


 小瓶を、フランソワーズの前のテーブルに置く。紫外線を除ける焦げ茶の透明の瓶の中には、7割方液体が入っているようだ。


「こちらは本来、重病や大怪我などで著しく生命力が低下した者に処方する薬を元に私自身が作成したものです」


 薬学がなくとも伝わるよう、言葉を選びながらディルクは説明を続ける。


「生命力というものは本質的には霊力と同じです。人はそれを通常生活する分にしか使用出来ませんが、先程アレイディアさんが言ったように、特殊な鍛錬を積んだ兵士や術士はそれを行使する事ができます」


 全ての命に霊力はある。その霊力を使い、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚そして直感の全てを包括した一段上の感覚として、霊覚は存在している。


「この霊薬は、一時的に服用した者の霊力を強くするもの。こちらを使いながら霊力の扱いを練習し、感覚を掴む事で日常的に霊覚の使用が出来るようにすることで視覚の代用とする。それが、私の考えた治療法です」


 フランソワーズはともかく、アレイディアの視線はテーブルの上の薬瓶に釘付けになっていた。未知のものを警戒する、当然の視線だ。


「副作用など、大丈夫なんだろうな」


 刺さるような瞳を向けるアレイディア。覚悟はしていたが、元々切れ長目の美人から向けられる凄絶な睨みに、思わず背筋を伸ばすディルク。


「昨晩より私自身が服用しております。僅かな体温の上昇と少々の気分の高揚は認められますが、これは霊力の行使の際とあまり変わっていません。薬は主に体ではなく魂の方へ作用するものですから」


 本当に患者に適用するならば、臨床実験を行ってからが望ましいのは当然だ。しかし、数日という期間ではそれは難しかった。故に、自身の体を使ったまでの事。


「安全性に疑問があるのであれば、本格的な実証試験ののちでも構いません。今日はプレゼンテーションが出来ただけでも、こちらとしては満足ですから」


 別に急ぐわけではない。解決の方法が見えた以上、その方法を精査して研ぎ澄ました方がよっぽど良い。今日はともかく、数日後にまた来る、という前回の約束を果たす為に来ただけである。

 それに、話も霊力に精通していなくてはよくわからないだろうから、判断するにも時間が必要だ。そう考え、テーブルの上の薬瓶を戻そうと手を伸ばした、その時だった。


「薬の方、頂いても?」


「フラン様っ!?」


 それまで黙って話を聞いていただけだったフランソワーズが不意にそう訪ね、驚いたアレイディアが声を上げる。ディルクも、手を伸ばしたままで動きが止まってしまった。


「フラン様、落ち着いてください。私にとっても、貴女様の回復はそれ以上ない望みですが、あまりに早計かと」


「アレイディア。心配してくれるのは、とても嬉しいです。でも、私はディルク様を信頼致します。ご自分の体をお使いになってまで、ご用意して頂いたものですもの」


 何とかフランソワーズを止めようとするアレイディアだが、主人の方は既に腹を決めてしまったらしい。

 最初に受けた印象より、よっぽど強い人物だ、とディルクは感心しながら手にとった薬瓶をフランソワーズの手元まで持っていった。


「一つだけ忠告が」


 小さな手で小瓶を弄ぶフランソワーズに、ディルクは苦笑しながら告げる。


「その薬は、少々苦いです」


「良薬口に苦し、ですね」


 微笑みながら、少女の手が薬瓶の蓋を開ける。匂いは、爽やかな、風が突き抜けるようなもの。


「では」


 一言、そして一息に瓶の中身を体の中へ流し込むフランソワーズ。心配が高じて、アレイディアは彼女の両肩に手を置いている。ディルクは、真剣な眼差しでフランソワーズの様子だけを伺っていた。

 それほど量は多くない。1秒程で全てを飲み干し、フランソワーズは咳き込んだ。


「けほっ、こほっ……本当に苦いです……」


 舌が痺れる程だったのだろう、上品とは言えないが、舌先を空気に晒している。


「み、水をお持ちいたします」


 主人の様子に慌ててアレイディアは部屋の外へ駈け出した。少し乱暴に扉が閉められ、足音が遠ざかっていく。


「効き目はすぐにきます。何か、感じますか?」


 ディルクの問いかけに、フランソワーズはまず手振りで応じた。右手が、自分の胸元を撫でる。


「少し、体の中が暖かくなってきたような気がします。それに、心臓も、ちょっと早いような」


 緊張も幾分か作用しているだろう。ほんの少し、フランソワーズの頬は朱を帯びてきている。体温が上昇している証拠だ。


「失礼しますよ」


 言って、ディルクはフランソワーズの前に膝をつき、胸を押さえる右手の手首を取った。


「え、あ、あの」


 視界がない彼女にしてみれば突然の事だっただろうか、少し後悔しながらディルクは脈を測る。通常よりは早いか。同時、彼は自身の霊覚を使い、彼女の内の霊力の様子を見る。通常、霊力を使わない人間はその胸の置くに僅かに光の塊が感じられる程度だが、霊力を扱えばその光が全身に輪郭より少し浮き出る。彼女の霊気は、まだ体外までは広がらないものの、その手前くらいまでは達していた。霊覚を使うには十分だ。


「これから、霊覚を行使する練習をします。まず初回では上手くいかないと思いますので、感覚だけ掴むつもりで」


 こくり、とフランソワーズが頷くのを確認し、掴んだままの手をゆっくりと自分の胸元へ持っていく。


「ここに、私が居ます。わかりますか」


 小さく、少女は首肯した。


「意識を、この手の向こうへ向けてください。少しずつで構いません。今感じている体の暖かさも心臓の高鳴りも全部、この手の先へ持っていくイメージで」


「ん……」


 喉を鳴らし、返事をする。

 薬を作る傍ら、ディルクは霊力学に関する本も片っ端から読んでいた。何でも、霊覚を習得するには五感を広げることから行うと良いらしい。通常、人は8割の情報を視覚から得ていることから、その視界を広げるイメージが最も習得しやすいらしいが、今回はそれは出来ない。とすれば、フランソワーズが最も信頼する感覚を伸ばすしかない。恐らくそれは、触覚か聴覚だろう。ディルクの出した物音に予想以上に驚いた事、渡された小瓶の存在を確かめるように弄んでいた事から、類推した。


「この手の向こうに、私が居ます。この声は、そこから聞こえてきます」


 意識を誘導するように、ディルクは言う。自らも薬を服用してきたのは臨床試験の為だけではない。少しでも、霊覚に引っかかりやすくする為だ。

 フランソワーズの手がディルクの胸て当てられる事数分。これ以上は疲れるだけだろう、そうディルクが判断し、フランソワーズの手首を離した、その時。


「色……」


 小さく、フランソワーズは声を零した。


「暖かい……これが、色? 光……?」


 ディルクが驚愕に固まる。

 ゆっくり、少女の手が離れ、もう一度触れた。確かめるように、そこにあるのがわかっているように。


「私……わかる。わかります、貴方が……!」


 感激に震える声。それと共に、部屋の扉が開く音がした。


「アレイディア!」


 思わずフランソワーズは声を張り上げ、反応したアレイディアが慌てた様子で部屋を仕切るカーテンの真ん中から姿を現す。その両手には、コップと水瓶がある。

 盲目の少女は立ち上がり、真っ直ぐに歩いた。

 主人が自分の方へ向かってくるのを、アレイディアはどうする事も出来ずに立ち尽くして待つ。一歩一歩、足取りは不安気だが、伸ばされた両手は確かにアレイディアの方を向いている。

 そして、両手がアレイディアに触れ、フランソワーズはそのまま彼女に抱きついた。


「ここに居る。アレイディア、私、貴女がここに居るのがわかるよ」


 涙まじりに、盲目の少女は言った。アレイディアもまた、鼻をすする。


「ずるい、ですフラン……私、両手が塞がってて、今、貴女を、抱き返す事が出来ないのに……っ」


 少女は辿り着いた。何も言わず、ただ立ち尽くしていたアレイディアの下へ。そう離れた距離ではない。だがこの日、フランソワーズという少女ははじめて、光に辿り着いたのだ。






「聞いてくれロンドさん!」


 息を切らしながら家樹を駆け上がってきたディルクを見て、ロンドはまたか、と溜息を吐いた。


「わかったディルク。上手く行って気分が高揚してるのは十分わかったから取り敢えず落ち着け」


「今日は違うんだ!」


 それもまたか、と早くも二度目の息を吐くロンド。

 ディルクがフランソワーズの治療にとりかかってから既に一週間が過ぎた。毎日のように足繁く通うディルクは、それこそ毎晩のようにロンドの家へ報告に訪れていた。初日からずっとの事だ、いい加減ロンドも慣れてきたが、それも過ぎて若干相手が面倒になってきている今日このごろである。


「今日は凄いぞ! こっちが部屋に辿り着く前に、彼女が自分で扉を開けてくれたんだ! アレイディアさんも、教えてはいないと言っていたしな!」


 まるで自分の事のように喜ぶディルクの姿を、久しく見なくなっていた弟分の無邪気な姿を、ロンドは半笑いだが優しい目で見守っていた。


「日に日に安定してきている。そろそろ投薬の必要もないかもしれない」


 通常、人間が霊覚を完全に扱いきれるようになるには数年の月日を要すると言われている。元々、フランソワーズという少女に素養があったにしても早過ぎる習得だろう。確実に、ディルクの霊薬の効果には違いなかった。


「お前、随分とその子に入れ込んでいるじゃないか」


 からかう調子で、ロンドは言う。


「ああ。フランソワーズはとても綺麗に笑うんだ。他人の笑顔なんて一度も見たことがないだろうに、いや、だからかな。彼女の笑顔には嘘がない」


 真っ直ぐな肯定の返事に、ロンドはもはや苦笑いしか出来なかった。


「なんだ、惚れたか?」


「い、いや、私は単にこれまでにない治療の方法を取った結果が上手く行っているから少し気分が上気しているだけであって別に彼女個人の笑みに魅せられたというわけではないというかそのなんだ」


 取り敢えず言っておいた程度の言葉に過剰に反応を示すディルク。


「うるせぇし今度は惚気話かてめぇ」


 あまりこちらから突っ込むと墓穴を掘りそうだと判断し、ロンドは取り敢えず黙らせる方向へ持っていく。

 今日話す事はなくなったのか、忘れてしまったのか、口を閉ざしたディルクがようやく椅子に座った。それを見計らい、ロンドは少し身を乗り出し、笑みを消した。


「一応、言っておくぞディルク。俺達エルフには掟がある。古くて黴臭くてしょうがねぇもんだが、今も生きているのは確かだ。それに、人間とエルフでは時間が違い過ぎる」


 ディルクの表情が目に見えて曇る。掟と、違い。いくらディルクがフランソワーズに入れ込もうとも、それが永遠に続く事はない。元々が、患者と薬師であり、患者が治ればもう関係はない。そして、二人は異種族。長くて100年と少ししか生きる事が出来ない人間に対し、エルフの寿命は軽く数倍以上はある。人にとっては一生の存在でも、エルフにとっては一時の存在にしかなり得ないのだ。


「……わかってるさ」


 絞りだすように、ディルクは答えた。組んだ両手を額に当てて項垂れるその仕草が、納得の行っていない時のものだと、ロンドにはすぐわかる。だが彼は何も言わなかった。

 不意に、ディルクは席を立つ。


「今日もう帰るよ。薬の成分を少し調節しよう。突然よりは、少しずつ外部からの刺激を減らしてならした方がいい筈だから」


 言い訳がましい、そう思っても、ロンドは口には出さない。


「おう。またあんま夜更かしすんじゃねーぞ」


 ディルクは背を向け片手を上げて返事をし、ロンドの家樹を出て行った。


「とうとうディルクにも春が来たのね」


 炊事場の方から、サーシャが現れてロンドの隣に座る。彼女の台詞は浮ついたものだったが、ロンドは渋面のままだ。


「しかしだな」


 苦言を呈そうとするロンドを、撓垂れ掛かって止めるサーシャ。


「貴方は私が人間だったら、私の事を諦めたのかしら?」


 意地悪くそう聞く妻の額を、ロンドの手が撫でる。


「……あいつは本当、馬鹿だ」







 サンドロ家、領主の部屋。薄色を主としたフランソワーズの部屋とは打って変わって、赤や黒といった重厚な色で、毅然としているが辛気臭いその部屋が、アレイディアは主共々嫌いだった。


「――以上のように、エルフの薬師による治療は、目的だけ見れば順調に進んでおります」


 彼女は今、その部屋の中で膝をつき、目の前に立つ男――現サンドロ家当主にフランソワーズの治療の経過の説明を行っていた。上品を気取ったバスローブに身を包み、偉そうに蓄えた髭を撫でながら、当主は嬉しそうな笑みを浮かべて頷く。


「流石はエルフ、といったところか。霊覚の習得を早める薬、か。なかなか、使えそうだ」


 何かまた良からぬ事を考えている、アレイディアはそう思い、一刻も早くこの場を離れたかった。

 昔から、この男はそうだった。使えるもの、使えないものの分別が早く、利用出来るものは骨の髄まで、出来ないものは屑籠に放り込んで蓋をする。今の発言と、視覚に障害を負って生まれたフランソワーズを、出生早々屋敷の上階の奥の部屋に幽閉し、存在を異母弟にすら伝えていないのが良い証拠である。


「つきましては、折り入って許可を得たい事がございまして」


 まだまだ何か語り出しそうだった当主を先んじて、アレイディアは口を開いた。用はあるが、早々に終わらせてフランソワーズの下へ帰りたかった。


「言ってみよ」


 尊大な物言いに再度苛つきながらも、平静を保ってアレイディアは顔を上げる。


「薬師ディルクの言によれば、霊覚の発現には他感覚への刺激もあれば尚の事効果があるとの事。故に、フランソワーズ様の外出許可を頂きたいのです」


 今日の昼間、いつもの時間に現れたディルクが、去り際にアレイディアに言っていた事だ。察しの良いディルクは、フランソワーズへ気を使ってわざわざ廊下に出た上でアレイディアにだけその事を話していた。

 当主はしばし、思案顔になる。思考の内容は、良い悪いの単純なものでないことを察するのは容易だが、アレイディアは堪えて待つ。やがて、当主はいやらしい笑みで答えた。


「良かろう。許可する。それで日時は」


「明日の午後にでも、と考えております」


 どうせ許可は出るだろう、と今日の内に馬車は手配済みだ。


「ふむ、わかった。その散策を終えたらフランソワーズ共々食堂へ連れて来い。そこで、会食を行い、祝おうではないか」


 何が祝うだ、とアレイディアは心を軋ませた。今の今まで、存在しない事にしてきた娘が、介抱に向かったからとこの手の平返しである。


「そうだ、オーバンの奴も同席させなくてはな。教えなくてはなるまい、あ奴が生涯をかけて仕える事になる姉の存在をな」


 異母姉の存在など知らされず、次期当主となるべくして育てられてきた、健常者であるオーバン。アレイディアは、父親譲りで尊大なその少年の事も快くは思っていなかったが、今ばかりは彼に同情した。突然、将来自分が立つ場所を奪わてしまった少年の事を。


 ――そして、もう一人。

 当主の部屋の外の廊下。人知れず、拳を握り締め歯を噛み締め、激情を堪える少年の姿。


「明日は良い夜になりそうだ」


 扉の向こうから聞こえる父の笑い声は、彼の心を一音毎に踏み躙っていた。







 次の日。晴天の下、アレイディアは前庭で馬車の整備を行っていた。馬は毛並みの黒い中型のものが一匹、小さな幌付きの馬車。幌の中には既にフランソワーズが乗り込んでいる。今日は、外での霊覚の訓練にしようと、ディルクが来た際に告げた。彼はそれを喜んだが、遠出の格好ではなかった為、一旦家に戻り、現地で集合する事にしていた。目指すは、エシグイの街より西方にある森の中。五感への刺激を得るなら、川などの水辺が好ましいかもしれない、とはディルクの談だ。

 馬車の点検を終え、アレイディアは颯爽と馬に乗り騎手を務める。いつものロングスカートのメイド服だが、そのままでも慣れているようだった。


「お嬢様、出発致しますが、よろしいですか?」


「ええ。早くしてくださいな」


 上機嫌で催促の言葉を返してくるフランソワーズが可愛らしく、アレイディアは思わず笑みを零す。急かされてしまったなら、と轅を手に取るアレイディアだが、まだそれは振られなかった。


「オーバン様……」


 正門から入ってくる、フランソワーズの異母弟。フランソワーズの世話役であるアレイディアとはあまり面識はないが、昨夜の当主の発言のせいで、彼女は彼を直視出来なかった。しかし、オーバンはにこやかな様子でアレイディアへと近づく。


「そう警戒するなアレイディア」


 馬に跨るアレイディアの真横まで来てから、オーバンは声を絞って言葉を続けた。


「後ろに、姉上が居るのだろう?」


 思わず、アレイディアは息を呑む。そうしてから、しまったと歯噛みした。もしこれが誘導尋問であった場合、最悪の反応である。しかし、オーバンは貼り付けた笑みを僅かも崩さなかった。


「いや良いんだアレイディア。僕は責めていない。それよりも、感謝しているんだよ。ひた隠しにされていた姉の存在を知っていながら、何一つできなかった僕の代わりに、姉上を守ってくれていて」


 以前から知っていた、そう聞こえる台詞。アレイディアは当主の命で、オーバンやその他の者にもフランソワーズの存在を気取られないようにしていたというのに。


「本当ならば、すぐにでも頭を下げるべきなんだろうけど、邪魔しては悪いし、今はやめておくよ。それじゃあ、また」


 オーバンは幌の方を一瞥しただけで、屋敷の中へと消えていく。言葉を返せず、生きた心地のしなかったアレイディアだったが、どうやら事は起こらずに過ぎて行きそうである。どうせ、今晩にはバレていたことなのだ、と思考を切り替え、馬を走らせた。


 馬車はゆったりと、森の中を進んで行く。からころと小気味の良い足音と車輪の転がる音。風も日差しも穏やかで、時折鳥の羽音や囀りが聞こえてくる。フランソワーズの為に、と馬を走らせてきたが、アレイディアにとっても思いもかけず良い森林浴であった。思えば、エシグイの街を最後に出たのは何時のことだろうか。フランソワーズと二人で外へ繰り出したのは、最近はまるでない。

 物心ついた頃には、アレイディアの将来は決まっていた。その頃、サンドロ家に長女が、フランソワーズが生まれたのだ。アレイディアの家、ラスフ家は古くよりサンドロ家に仕えてきた一族であり、彼女もその風習に従いサンドロ家に入った。フランソワーズと年の近かったアレイディアは彼女の遊び相手から将来的な世話役を仰せつかる。だから、これまでずっと共に生きてきた。フランソワーズの視力が無いと知れた時。オーバンが生まれ、本格的にフランソワーズの居場所がなくなった時。彼女の母が亡くなった時。あの、屋敷の右奥の幽閉部屋が出来た時。ずっと、アレイディアはフランソワーズと共に有り、彼女の為に生きてきた。それを、後悔した事はない。

 フランソワーズが、自身の境遇をただの一度も呪った事がなかったからだ。通例、貴族の嫡子といえば、第一子には男児が望まれる。その上で、視力を持たず、実の父から喜ばれぬ子だった。さらには異母弟が生まれ、実父にとって本当に邪魔な荷物扱いを受けたというのに、その辛さを問えば彼女は言うのだ。「私はまだ生きていられるから。アレイディアのお陰で、人として生きていられるから。それだけで、幸せって言えるんです」と。誰よりも綺麗な笑顔で。


 獣道を歩む馬車が、登りの曲がり角に差し掛かり、一旦アレイディアは馬の足を止めた。曲がった先から、道が細くなっている。どうやら山の方へ来てしまったらしく、左手側は山肌、右手側は急な斜面になっていた。道は山肌に沿うようにグルリと弧を描き続いている。斜面の終わりには川が見え、弧の道の頂点には小さな滝とも思える水が流れている。岩肌の面でそこそこ見晴らしはいいが、フランソワーズには関係のない事である。


「どうしました? アレイディア」


 馬車が止まったのがわかったのだろう、幌の中からフランソワーズが問う。


「いえ、ここから道が少し狭くなっていますので、ゆっくり進もうかと」


 急な斜面の上の狭い道。気をつけるべきではあったが、ここ数日は雨も降っておらず、地盤は安定しているだろう。それに、ディルクともまだ会えていない。そう考え、馬を進ませるアレイディア。

 そういえば、とふとディルクの事を思い出し、当たりを見回した。森の方で合流する事になっていたが、まだ彼は姿を見せない。本来ならば合流場所を指定するべきだったのだろうが、エルフは森の民とも呼ばれる存在だ。そんな事せずとも、庭みたいなものだろうとは、甘い考えだったのか。

 ぐるり、路の通りに巡らせた目線の終点。ちょうど崖を挟んで向かい側の路の上に、アレイディアは人影を見つけた。恐らく、ディルクだろう。そう思った彼女は安堵の笑みを浮かべかけ、言葉を失った。

 その男は、笑っていた。ディルクよりも頭二つ、低い身長。襟元にレース飾りがなされた、上品な服。手には、木漏れ日に光る弓矢が握られていた。


「フラン様!」


 轅を放り投げ、主人の名を叫び、幌の方へ飛び込もうとするアレイディア。しかし、全てが遅すぎた。

 鋭い風切り音と共に、鈍色の鏃が馬の臀部へ突き刺さる。高く悲鳴を上げ、前脚を高く上げ、暴れる馬は路から足を踏み外し、馬車もろとも崖の方へ転がり落ちた。






「う……あ……」


 うつ伏せに倒れたまま、呻き声を上げ、アレイディアは目を覚ました。霞む視界が、小石塗れの地面を写す。

 全身が痛い。ここは何処だ。私は何をしていた。体が痛い。これは何だ。体が冷たい。雨が、降っている。

 脳が目を覚まし、意識の靄が取れ始め、アレイディアは勢いよく体を起こし――


「ぐうっ!」


 再び倒れた。

 凄絶な痛みが、両足から体中に駆け巡ってくる。感じた事のない痛みの大きさに、それが何なのか理解出来ない程に。恐恐と、彼女が己の違和感の発端である足元へと向ける。そこには、有り得ない方向へとひしゃげ、骨が突き出し血塗れになった自身の両足があった。

 思わず、彼女は顔を背ける。その動きがさらに激痛を呼ぶが、歯を食いしばって堪えた。


「フラン、フランは……」


 両腕だけで体を起こし、視界を巡らせて主人を探す。崖から転げ落ち、川岸まできてしまったらしい。砕けた馬車の残骸がそこかしこに散らばり、讃々たる状況だった。そして、数メートル離れた木の一本に引っかかっている破れた幌を見つけ、その下に倒れ伏したフランソワーズを確認した。

 痛みに耐えながら、小石の地面を這ってそちらに進む。幌に守られたのか、フランソワーズの体に目立った外傷は認められない。


「フラン!」


 力を振り絞って呼びかけるが、返事はない。意識を失っているのだろう。

 必死に、フランソワーズの下へにじり寄るアレイディア。その眼前に、ブーツが振り下ろされた。小石と雨に濡れた泥が飛び、アレイディアの顔を汚す。


「オーバン……!」


 拭いもせず上げた視界に映った少年の名を、アレイディアは激情と共に吐き出した。名を呼ばれた当人は、酷薄な、薄ら寒い笑みを浮かべる。


「随分な言い様じゃないかアレイディア。次期当主……の生涯の駒、に向かってさ」


 しゃがみ込み、アレイディアの髪を掴んで顔を上げさせながら、オーバンは言った。


「……聞いていたの」


 それは、昨晩の当主とアレイディアの会話。


「いいや。聞こえていた、の間違いさ。姉上が居るってのは、最初から知ってたけど」


 歯を噛み締め、アレイディアは目の前の男を睨む。


「何故、こんな事を」


 その質問を待っていたように、オーバンは食い気味に答えた。


「困るんだよ。姉上が、出来損ない(全盲)じゃなくなるとさ。だってそうだろう? 元々僕は、出来損ないフランソワーズの代用品だった。それだけでも屈辱的なのに、その出来損ないに仕えるだって? 冗談じゃない」


 オーバンは狂気に満ちた目をしていた。時折、当主が見せる、アレイディアの一番嫌いな目だった。自分が特別だと信じて疑わない、全ての物が自身の為に存在していると思い込んでいる、そんな人間だけが出来る目。


「本当、姉上の運の良さには辟易させられるよ。父上が呼んだ細工工の知り合いに、メクラを治療出来る男が居て、崖の上から転げ落ちても気を失うだけで大した怪我もしないで、その上、自分の為にこんな必死になってくれるメイドが居てさ」


 猫をあやすように、オーバンの手はアレイディアの顎を撫でた。身の毛のよだつような感触に首を振って抵抗するが、掴まれた髪のせいで逃れる事が出来ない。


「まあでも、その頼りになるメイドは、両足が折れて役に立たなそうだし、放っておけば死んでくれそうだね。良かったよ、このまま、予定通り転落事故として済ませられそうだ。後は」


 言いながら、オーバンはアレイディアの髪を高く持ち上げ、上半身を起こさせる。痛みに苦悶の声を上げる彼女の口内に片手を突っ込み、力づくで舌を引っ張りだした。


「んん! ううぅ!!」


 抵抗を試みる無力なアレイディアの声に、オーバンの口元は一層深い弧を描く。彼は、無慈悲に、容赦なく、愉しそうに、アレイディアの顎を膝でかち上げた。強制的に閉じられた歯が、引っ張り出されていた舌を噛み千切り、鮮血と共に落ちる。

 声にならない叫びと共に、顔面を地面へ打ち付けるアレイディア。止めどなく、口の中から血と痛みと声がどうしようもなく溢れてくる。


「これで、姉上に届く声はない」


 雨脚が、強くなっていく。オーバンの足音が、アレイディアの悲鳴に紛れ、遠ざかっていった。






「なんだ……これは……」


 降りしきる雨の中、ディルクは一人立ち尽くす。目の前に広がる、惨劇の後。崖を転がり落ちたと思われる、そこら中に砕け散らばった馬車の破片。木の一本に持たれる血塗れのアレイディアと、横たわるフランソワーズ。傘を取り落とし、彼は駈け出した。


「何が、あったんですか」


 あまりに突然の惨劇に、動揺に震える声を何とか平静になるよう抑え、彼は問う。

 虚ろな目のアレイディアが、答えようと口を半開きにするが、言葉は出なかった。代わりに、口の端から血が滴り落ちる。


「あー……う、あ」


 思わず、目を見開くディルク。少し開いた口の中に、舌が見えなかった。そして、言葉にならない声。唾液に混じり流れ出てくる血を手で拭い、ディルクはアレイディアの口を閉じる。


「……ともかく、ここから離れましょう」


 言いながら、上着を脱ぎ、ディルクはアレイディアを背負った。そして、脱いだ上着を縄代わりに、自分とアレイディアを結ぶ。落ちてしまわないように固定して、ディルクはフランソワーズを両腕で抱き上げた。見たところ、気を失っているようだがフランソワーズに大きな外傷は認めれない。だが、雨に打たれ続けていた所為か、体温は低かった。アレイディアの重傷もある。振動を与えれば負担になってしまうだろう。だが、そんな悠長な事は言っていられなかった。


「少しの間です。我慢してください」


 背中に顔を埋めるような頷きで、肯定を示すアレイディア。意識を繋ぎ止めているのも奇跡的な重傷だというのに、彼女はどうしようもなく気丈だった。

 雨の中をディルクは走り出す。


 仕事柄、薬草を求めて森の中を駆けまわるのは、ディルクにとって日常茶飯事だった。それ故に、一番近い建物が何も、すぐに思いついていた。それは、いつ、誰が作ったのかもわからない、古ぼけた山小屋。以前発見した時に、軽く掃除をして休憩所として利用していた過去を、この時ディルクは心底感謝した。

 明かりのない、小さな山小屋。入り口から真っ直ぐ奥に敷いてある仮眠用の毛布の上に、フランソワーズを寝かせる。続いて、右手側の机代わりにしている棚の前から、切り株の椅子をその隣に持ってきて壁に寄せ、アレイディアを座らせた。

 雨に濡れた髪を乱暴に描き上げながら、ディルクはすぐに棚の方へ駆け寄る。ともかく、アレイディアの止血をしなくてはならない。薬草や製薬道具や本が散らばるその机から、いくつかの瓶と脱脂綿、ガーゼ、包帯等を手にし、アレイディアの下へ戻った。

 無言のまま、ディルクは手当を行う。消毒液を傷にかけ、脱脂綿を使って汚れをとりながら洗浄。いくつかの種類の薬を布に染み込ませて湿布にし、それを当ててきつく包帯を巻く。それで一先ずの足の応急処置を施した。そこまでしてから、彼は一旦その場から立ってまた棚の方へ、そこにある開いたままの鞄を漁り、フランソワーズの治療に使っていた薬瓶を取り出した。霊力の発現を促すその薬。生命力そのものである霊力を高める事が出来れば、命を繋ぎ止めるのに一役買うかもしれない。戻ったディルクはその薬と他数種を垂らした布を丸め、アレイディアの口の中へ入れる。


「血を吸わなくなったら教えて下さい」


 小さく、アレイディアは首肯した。ディルクは彼女の両脇に手を差し込んで持ち上げて、フランソワーズのように寝かせる。椅子に使っていた切り株を足の下に、自分の上着をまるめて枕にし、傷口を高くして。

 傷の消毒、薬の投与、止血。取り敢えずの応急処置はこれでいいだろう。しかし、骨が皮膚を突き破る程の骨折と、舌の損失だ。一刻も早く、医者に見せるべきである。服が雨で濡れたままでは体力も奪われる。着替えも必要だろう。考えながら、ディルクは動いた。アレイディアの舌の出血を受け止める為の脱脂綿を用意し、垂らす薬も合わせて彼女の横に置く。


「ここに替えのものを置いておきます。血でいっぱいになったら、この薬を垂らして使ってください。私は、医者を呼びに行ってきます」


 手短に説明し、アレイディアの目線がディルクの差したものを見たのを確認し、彼は立ち上がった。だが、怪我人とは思えない早い動きで、アレイディアの手はディルクのズボンの裾を掴む。


「どうしました? 体、痛みますか? もしかしたら、薬が合わなかったんじゃ」


 慌てるディルクの言葉を、首を横に降って否定するアレイディア。何かを伝えようと口を開きかけるが、舌を失った彼女は言葉を伝えられない。気づいたディルクは、小さく頷いてしゃがみ込み、アレイディアの枕になっていた上着からメモ帳とペンを取り出した。受け取り、震える手で、彼女は文字を書く。


『オーバン フラン 殺そうとした 離れないで 私は 守れない 声 奪われた』


 ペンを持つ事も辛いのだろう。弱々しい字で、簡潔に彼女は記した。それまで、この事態の真相を考えないようにしていたディルクは、衝撃に目眩がした。

 オーバン、その名がフランソワーズのお互いに存在を知らない筈の弟の名である事は、以前聞いていた。それがフランソワーズを殺そうとした。馬車は崖を落ちたのではない。落とされたのだ、意図的に。そして、共に居たアレイディアは、怪我を負って尚、舌を、声を、フランソワーズへ言葉を運ぶ為の術を、奪われた。全てを理解し、ディルクは力の限り両の拳を握り締める。


「どうして、そんなことが」


 どうしたら、そんな惨い仕打ちが出来るのか。彼には、理解が及ばない。理解したいとも思わない。今、重要なのはそんな狂気を知ることではない。アレイディアの、想いの方だ。一つ、深く呼吸して冷静を努めて、ディルクは口を開いた。


「……アレイディアさん。貴女も重傷だ。応急処置をしたからと、安心出来るものには見えません。助けは必要だ」


 しかし、アレイディアはディルクを言葉を拒否する。困るディルクを見て、アレイディアは再びペンを手に取った。


『私 大丈夫 フラン 守って お願い』


 何処まで、彼女は優しいのだろう。ディルクは目頭が熱くなるのを指で抑えて堪えた。アレイディアの願いに応える為には、ここを離れるわけにはいかない。二人きりにして、オーバンが現れる可能性も否定は出来ない。医者を求め、エシグイの街まで二人を運ぶのは難しい。意識が戻らないフランソワーズも、未だ出血が止まらないアレイディアも、雨が叩きつける中を行くのは危険が大き過ぎた。自分の無力さに歯噛みするディルクは、やがて、全身から力を抜き、心を決めて笑顔を向けた。


「わかった。一先ずフランソワーズさんが目を覚ますまで、私はここに居る」


 辛いのは、自分ではない。そう考えたディルクの笑顔と返事。それに安堵したアレイディアは、張り詰めていた気が緩み、安らいだ微笑みのまま意識を手放した。

 眠りについた彼女からメモ帳とペンをとり、横に置いて、ディルクはまた机の方へ向かう。ここに居る以上、やれる事は全てやる。そう、彼は決めたのだ。







 暗闇の中で、ディルクの目が開く。机に突っ伏した形で、両腕を枕にしていた彼は、変な体勢で眠ってしまった為の痛みに呻きながら、ゆっくりと体を起こした。


「……いつの間に」


 乾いた声で、彼は呟く。アレイディアとの約束を守ると誓った後、ディルクは乾いた布で二人の濡れた髪や服を出来るだけ拭き、薬のストックの作成や包帯の替え等の準備をしていた。しかし、彼とて冷雨の中を人二人運んだ疲れがあり、気づかぬ間に眠りに落ちてしまっていたのだ。

 山小屋の壁の高い位置にある窓からは微かに月明かりが差し込んでいる。雨音も今は聞こえず、時は過ぎて夜。手元も危うい程の暗闇が、小屋の中に充満していた。


「ディルク……?」


 不意に、少女の声がその闇の中から響く。慌てて、ディルクは手探りで、作った薬や用意した包帯や製薬道具を机から落としながら、卓上のランプの火を灯す。柔らかな光が頼りなく小屋を照らし、ディルクはフランソワーズの姿を確認した。


「フランソワーズさん、目が覚めたんですか?」


 急ぎ駆け寄って、ディルクはフランソワーズの手を取る。彼女は、体を起こし、壁に背を預け座っていた。


「ディルクさん、一体何が、どうしたんですか……」


 震える声で、フランソワーズは続ける。


「アレイディアが私を呼んで、馬の鳴き声が聞こえて、馬車が揺れて、浮いて、落ちて……そこから、何も」


 恐れから手を強く握り返してくる彼女へ、ディルクは何を何からどうやって伝えるべきか悩んだ。彼とて、わかっている事は少ない。彼女が大きな怪我を負っていない事だけが救いだが、今有りのままを伝えて良いものか、わからない。


「アレイディア……アレイディアは何処ですか?」


 はっ、といつも自分の傍らに居る侍女の名を呼ぶフランソワーズ。それも、また問題だった。声を奪われたアレイディアでは、彼女に言葉を届けられない。

 苦渋の表情をしながら、ディルクが隣のアレイディアが眠る方へランプを差し出し、固まった。

 橙赤の光の先には、誰も居なかった。広げられたディルクの上着、横に倒れたままの丸太椅子そして、血が染みこんで固まった脱脂綿が数個と、空になり乱雑に投げ捨てられた薬瓶、開かれたままのメモ帳だけ。


「すみません。少し、時間をください」


 フランソワーズの手を離し、早口で告げ、ランプを置いて彼はメモ帳を手に取り、引き寄せた。


『ディルク様 いくつも謝らなくてはならない事がありますが、最初に簡潔にお伝えしておきます ごめんなさい』


 文字は力強く、刻まれている。


『フランには 私が崖から落ちた時に事切れたとお伝えください』


 あれほどの怪我人に、そんな力が出せるとは思えない程強く。


『私は フランを生涯賭けて守る事を誓っています だからその為に 為すべき事をします 独善的だと貴方は咎めるでしょうか? 私にはわかりません でも それでもいいです』


 彼女の横たわっていた場所に散らばるいくつもの瓶。それは、フランソワーズの為にディルクが作った霊力を高める薬。


『治療費 最後までお支払い出来ませんでした だから代わりに 私の一番愛する人を貴方に押し付けていきます 優しくて強い自慢の子です どうか守ってやってください』


 小さな滴が、紙に染みを広げていく。


『親愛なる 誠実な霊薬師ディルク様へ アレイディア=ラスフ より』


 歯を食いしばり、肩を震わせて、ディルクは感情が押し出してくる声を抑えこもうと努力した。だが、微かに、嗚咽が漏れてフランソワーズの耳に届いてしまう。


「ディルクさん?」


 何も見えぬ中で、フランソワーズは声の元へ手を伸ばした。悲しい鳴き声が聞こえてくる方へ。不意にその手は掴まれて、体ごと彼女は引き寄せられる。

 力強い腕に包まれたフランソワーズの頬に、暖かい雫が落ちてきた。


「アレイディアさんは……もう貴女を、守れない」


 涙声が、フランソワーズに届き、彼女は息を呑む。

 腕の中の華奢な少女を、ディルクはどうしようもなく強く、抱きしめる。


「でも! 今度は私が貴女を守るから……! だから、どうか。許して欲しい」


 ディルクはこの日、誓いを立てた。去っていった強い人に。その人から押し付けられた、優しい子に。そして、無力な自分自身に。

 冷たい月明かりが、天窓から覗いていた。











――D.A.918 霊薬師の手記、最初の1ページ。


 サンドロ家の屋敷が放火されたと、ロンドさんから聞いた。火は、屋敷を呑み込み全焼させたらしい。中からは、サンドロ家の当主とその息子、そして両足の折れた女の遺体が見つかったそうだ。


 今日この日から、私は全て書き記して行こう。アレイディアさん。貴女が命を賭して、フランソワーズさんを解き放ったこの日から。

 貴女の行動の善悪は、私には決める事が出来ない。貴女は奪ったのだ。由緒ある家の当主と、若い次期当主と、そして貴女が愛した少女の、たった一人の大切な人を。でもそれは、あの薬をつくってしまった私も、きっと同罪なのだろう。

 

 ここに記す言葉が、貴女に届く事はないのかもしれない。けれどいつか、この世に戻った貴女の魂がこれを見つけた時に、私は貴女の親愛を裏切らなかったと、胸を張って伝えられるようにしておきます。だから今一度、言葉を刻もう。

 私、ディルクはその生涯を以って、フランソワーズを守り続ける。光を取り戻して見せる。この誓いを、勇敢なるアレイディア=ラスフへ。

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