鬼の巻
続きです。
伏線は全部回収できてるかなぁ…?
どうぞお手柔らかに。
次の日、学校には登校したが、部活は顧問に頼んで休ませてもらった。顧問の先生は「妹思いだな。良くなるといいな」と言った。これは、良い、悪い、という二元的なものなのだろうか。一目見ただけでは何もない。だが、意識はなくても、確かに彼女の身には何かが起こっている。
俺は、日曜日の出来事を悔いた。どうして、あんなふうに冷たくしてしまったのだろう。どうして、すぐに謝れなかったのだろう。後悔しても八宵は眠っていて、どうしようもない。最後に見た、泣き出す寸前みたいな顔を、俺は忘れられなかった。八宵の笑顔は周りを元気づけ、幸福で満たしてくれる。俺は、土曜日に雪で遊んだ時のように、いつでも笑っている八宵が、好きだった。妹が幸せそうにしているから、俺も幸せになれて、一緒に笑顔になれた。八宵は俺にないものを持っていて、だから俺はそれを尊敬していた。時折年相応の幼さを見せるが、そうでない時は少しませていて、少しでも俺に近付こうとしていた。俺はそんな八宵を大切に思って、何かがあれば守ってやろうとも思っていた。それなのに、俺は八宵を守るどころか傷つけてしまった。そして謝れないまま、こんなことになってしまった。俺は兄失格ではないか。
自責の念に駆られた俺は、項垂れながら下校していた。気が付けばいつの間にか八宵の通う小学校の近くにいた。辺りには下校中の小学生達がいた。
そういえば母は、八宵はこの近くの神社の傍で倒れていたと言っていた。そこに行けば何か分かるかもしれない。どうして八宵はわざわざ自宅と逆方向の神社に行ったのか、どうしてそこで意識を失くしてしまったのか。俺の足は自然と神社に向かっていた。
神社へと向かう途中、下校中の小学生達から、こんな会話が聞こえてきた。
「やよいちゃん、この先の神社でたおれてたみたいだね」
「どうしちゃったんだろね」
「なんかね、お祈りしたかったみたいだよ」
「え、なんで知ってるの?」
「昨日のほうかご、いっしょにしゃべってたらやよいちゃんが、そのことよくおしえて、って言ってきたじゃない。それでね――」
俺は思わずその女の子の肩を摑んでいた。
「八宵のこと知ってんのか? 俺、八宵の兄ちゃんなんだ。もしよかったら詳しく聞かせてくれないか」
その女の子は、目を丸くしながらこくこくと首を縦に振った。
彼女らの話によると、昨日八宵は、この女の子二人が、お願いをすると呪われる、と言われる鬼の社の話をしていたところに食いついてきたという。鬼の社とは名の通り、鬼が祀られている社のことだ。そこで祈ると祟られてしまう、という言い伝えは、俺が小さい頃から耳にしていた話だった。二人が鬼の社の場所を伝えると、八宵は礼を述べて教室から駆け出していったらしい。
しかし、重大な疑問が浮上した。どうして、八宵は呪われてしまうと言われる鬼の社に興味を持ったのか。八宵は神社の傍で倒れていたはずだ。神社への道と鬼の社への道は、小学校からの方角は同じだが、途中で道が別れる。なぜ鬼の社へ行ってからわざわざ神社に行ったのだろうか。呪いを解く為に神社で身を清めるつもりだったのだろうか。
「じゃあ、なんで八宵が神社で倒れてたか分かる?」
「うーんとね、うーん……」
ひょっとすると、俺の眼は血走っていたかもしれない。しかし彼女らは懸命にその答えを探そうとしてくれている。
「例えば、鬼の社の話の前に別の話をしていて、八宵はそっちを知りたかった、とかないかな」
「え? ……そういえば……」
何か思い当たることがあったらしい。
「そういえば、おにのやしろの前に、おねがいがかなうっていう神社の話をしてた、かも。もしかしたら、やよいちゃんは……」
絶句した。つまり八宵は、この二人の神社の話を聞いて、それについて訊いたのだが、その時はもう鬼の社の話をしていて、二人は鬼の社についてのことだと思ったのだ。偶然の齟齬が、八宵を間違った方向に導いてしまった。彼女らを責めるのは門違いだろう。勘違いしてしまっただけで、そこに悪意などないのだから。
「……教えてくれてありがとう」
「え、でも、わたしたち…………ごめんなさい……」
二人は、自分達のせいで八宵が神社でなく鬼の社に行ってしまい、そしてそのせいで倒れてしまったのだと思っている。確かにそうかもしれないが、俺は、今にも消え入りそうな謝罪の声に、穏やかな声で返した。
「いいんだよ。君達は、八宵が知りたいと言ったから教えてあげたんだろ? 例え間違ってしまったとしても、八宵に答えてあげられたのなら、それでいいんだよ。そして何よりも、君達はこうして謝ってくれてる」
俺は、八宵に謝らなかった。謝らず、逃げた。だが、この子達は向き合って、謝っている。
「謝れる人は、優しい人なんだ。優しい心を持った人に、俺は怒ることなんてできない」
俺は腰を低くして目線を女の子達に合わせ、そっとその頭を撫でてやった。泣き出す寸前みたいな顔に、にこりと笑顔が咲いた。年が同じせいか、それらに八宵の面影を重ねてしまう。俺は彼女らに向けて――自らへの嘲りも込めて――静かに微笑んだ。
「これからも、八宵と仲良くしてやってくれよ」
「……うんっ」「……はいっ」
そこで二人とは別れて、俺はまず、八宵が倒れていたという神社に足を向けた。
神社には、静謐で荘厳な雰囲気が満ちている。夕時なのもあって、緋色の陽光が鳥居の朱を際立たせていた。
八宵が倒れていたというのは、どの辺りだろうか。俺は神社の周りを隈なく探索したが、残念ながら目ぼしい手がかりは得られなかった。
鳥居をくぐり、石畳を歩き、神前に立つ。俺は跪き、目を閉じて両手を合わせた。その姿は、教会で神様に懺悔し、赦しを乞うているように見えたかもしれない。
(どうして八宵はこうなったんですか? 俺が、八宵に冷たくしたからですか? もしそうなら、あいつを救って、俺に謝るチャンスをください。俺は、八宵が大切なんです。八宵は何も悪くないじゃないですか。なんで、俺じゃなくて八宵なんですか! なんで、誰にでも優しくて、一生懸命な八宵があんな目に遭うんですか! 神様、俺はどうなってもいいから、どうかあいつだけは救ってください。俺はどうだっていい。だから、八宵は、俺の、ただ一人の妹だけは……!)
どんなに強く願っても、誰も、何も答えない。神様なんていうのは所詮、人間の都合のいい拠り所で、だから縋ったってどうにもならないのかもしれない。それなら、俺は自分の力で、どうにかするしかないのかもしれない。
俺は神社を立ち去り、八宵が行ったはずの鬼の社に向かった。古来より鬼が封じられ、奉られているという、鬼の社。俺が小学生の頃に、度胸試しとしてお参りに行った児童が情緒不安定になって保護された、という噂を聞いて以来、一度も足を運んでいない。
鬼の社に到着した頃には、既に日は沈み、暗い群青色の空が俺を見下ろしていた。神聖な空気を帯びていた神社とは違って鬼の社は、草は伸び放題、蔦は社に絡みつき、社の木材には黒く朽ち果てている箇所も見られた。心なしか空気が重く歪んで見える。薄暗い境内に足を踏み入れる。
その瞬間、背後から誰かの視線を感じた気がした。しかし振り向いても誰もおらず、きっと気のせいだと自分を納得させる。
背の低い雑草が隙間から生い茂る石畳を行き、祠に辿り着く。祠の陰で白い何かが目に映った。しゃがんで見てみると、何かの紙切れだった。手に取って見てみると、誰かに宛てた手紙らしい。俺はそれをなんとなく広げた。
俺は我が目を疑った。それは八宵のものだった。見間違うはずもない。これは八宵の字に他ならない。震え出した手で持った手紙の、その文面に目を走らせる。
『神さまへ。おにいちゃんと、やよいになかなおりさせてください。それで、やよいたちの家ぞくが、今までより、もっともっと、しあわせになれますように』
俺の目から熱いものが溢れ、頬を伝って流れた。嗚咽は静かに喉から漏れ、脚からふっと力が抜けて膝をついた。落涙が慟哭へと変わるのに時間はかからなかった。
どんな所でも彼女は優しくて、真摯な人だったのだ。
八宵の行き先を調べ、彼女のことを考えるにつれて、思いは嵩を増していく。八宵の思いを知るにつれて、狂おしいほど彼女に会いたくなる。
しばしの号哭の後、俺は決心した。骨を粉にし身を砕く覚悟で尽力することを。自己犠牲でも、八宵が救われるのなら構わない。自己満足でも、八宵の為になるのなら構わない。誰から何と言われようともこの意志は曲げず、邁進する。
真摯な八宵が祟られてしまった、それを覆すべく、代わりに俺が祟られることはできないだろうか。呪いの肩代わりというか、少しでも八宵の現状を和らげることはできないだろうか。
或いは、それは叶わないかもしれない。かつて病気は呪いと同一視されていた。例えば風邪が移っても、移した人の風邪が治ることはないように、呪いも、俺が祟られて八宵の呪いが解けるという保証はどこにもない。俺が俺自身を呪っているという点においては、既にそれは無意味なものなのかもしれないが。ならば教会で神父に頼んで呪いを解いてもらうか? 馬鹿馬鹿しい。
呪いを解くには、やはりその根幹を断つのが手っ取り早いのだろうか。
しかし、その根幹とは一体何なのか。そもそも、なぜこの鬼の社は造られたのだろうか。分かることは精々、その呼称(正式名称は不明)から推測するに、鬼が祀られている社であること程度だろう。俺は、この社に近付くことはまずないので、殆ど何も知らないと言っても過言ではなかった。
つまり、打開策を捻り出す引き出しに乏しいのだ。もしかしたら、鬼の社の知識さえあれば、俺の切望はいとも簡単に叶ってしまうのかもしれない。しかしそれは同時に、鬼の社の知識が無ければ困難であると、そう告げられたかのような気分にさせられる。
ならば、鬼と直談判して、呪いを解いてもらうというのはどうだろう。非科学的で馬鹿らしい話だが、本当に呪いとやらがあるのならその方法はあるのかもしれないし、なりふりは構っていられない。だが、鬼と話すにはどうしたらいい? 鬼の言葉は分かるのか? そもそも問答無用で呪殺されるのではないか? 相手は話が分かるかどうかなんて分からない。同族なら問題は無いのだろうか。同族、それは鬼のことだ。俺が鬼になれば、鬼と話ができるのだろうか。だが鬼になる方法は? 心を鬼にする、という言葉通り、冷酷になればいいのだろうか。
何をどんな風に考えたらいいのか、訳が分からなくなってきた。果たして方法はあるのだろうか。どうなに足掻いても徒労に終わるのではないか、という諦観が俺を蝕んでいく。目を覚まさない八宵の為に動けるのは、俺しかいないはずなのに、所詮俺如きでは大団円には遠く及ばず、それはまるで、星を摑もうとするかのような滑稽で愚鈍な努力なのかもしれないと、虚無感に苛まれる。そもそも、得体の知れない何かに立ち向かうなど、無謀以外の何物でもない。見たことのない兵器に対抗策など見出せるはずがないのと同じだ。負の思考はますます深みに嵌ってゆき、悲観に陥る。こういう時、人間は弱いもので、一度傾けば戻ってくることは非常に困難になる。それを痛感しても尚、通常の思考ができない俺は、脆弱そのものだ。つい先程、己に強く誓ったばかりなのに、やはり俺にはどうしようもできないのだ。ただ一人の妹を救う糸口すら摑めず、精々こうして打ちひしがれることしかできないのだろう。普通の人間には到底叶わない、身の丈に合わない願いだったのかもしれない。元々は全て俺のせいだ。俺のせいで起こったことを、自身で落とし前をつけることさえできないなど、愚かしいにもほどがある。愚かでも愚かなりに考えてみたが、愚者も千慮に一得あり、という言葉が疑わしくなるほどに何も思い付かない。何もできない。ただひたすらに、俺は無力だ。
俺は所々草が顔を出す石畳に大の字になった。鬱蒼と茂った木々を冷たい風が揺らし、それらの隙間から見える冬の空は憎らしいほど綺麗な星空だった。
「あぁ、俺は、何もできない自分に落ち込んで、こうして打ちひしがれることしかできないんだな……」
号泣したせいで掠れた呟きが、冬の空気に溶けて消えていった。乾いた冬の風が俺の前髪を撫でる。
《――――い、……ん――――》
突如、頭の中に何かの声が木霊した。驚いて起き上がり、辺りを見回す。が、何もない。ここに来た時と同じような、誰かに見られているような感覚がする。
《――おい、兄ちゃん――》
今度ははっきりと聞こえた。
「だ、誰だ」
恐る恐る問いかけてみると、意外に明るい調子の声が返ってきた。その声は中年男性のものに近く、どこか安心感のような何かを覚えさせた。
《おぉ、やっと気付いてくれたか。いやぁ、このまま気付いてもらえんかったら、どないしよか思てたわ》
流暢な関西弁らしき声は、頭の中で響き続ける。
「これ、この声、どうやって……」
《おぅ、儂はな、兄ちゃんの目の前にある祠から話しかけとんねん》
「え、祠……? じゃあ、まさか……」
《せや。儂はここに祀られとる鬼や。まぁ、祀られとるちゅうても、儂の本意とちゃうねんけどな》
祠を注視してみるが特に異状は見られず、俄かには信じがたい。本当にこの声の主は、この祠の鬼なのだろうか。しかし、ならばこの頭の中に直接響く声は、どう説明するのだろうか。もしかすると、遂に俺はおかしくなってしまったのだろうか。
《んん? なーんか疑っとんな? 儂はほんまもんの鬼やで。なんやったらそこの祠の中調べてみたらどないや。けったいな形の石が置いたぁるはずやさかい》
言われるがままに(罰当たりな気もするが、本人がいいと言っているのだからいいのだろうか)祠の木の扉を開けると、鬼とやらが言った通り、江戸時代の同心が持っていた、十手を二本交差させたような形の石が置いてあった。
《な、言うたやろ? それ持ってみ。儂が喋んのと呼応して震えとるはずやから》
なるほど、果たしてその通りだった。感嘆の息を漏らしていると、彼が満足げに鼻を鳴らし、それに呼応してまた石が震動した。
《それでな、なんで儂が兄ちゃんに摩訶不思議な力で話しかけとんねん、っちゅう話なんやけど――》
鬼は訊いてもいないことを勝手に話し出した。
どうやら、昔(といってもそれがどれほどかは見当もつかないらしいが)こそは、神として崇められ、祈られれば自らの存在に蔵した神通力で人々を幸せにできたらしい。だが、近年(これもまた判然としないらしい)増大していく力と老衰していく存在により力の加減が利かなくなり、しまいには手綱は離れ、逆に祟ってしまうようになったという。人々は怖れ慄き、不幸をもたらす鬼とし、誰も近付かないような場所に祀って安置したらしい。それから幾ばくかの時が流れ、八宵が訪れた。鬼は彼女を呪うまいと、必死に神通を試みた。しかし、尽力の甲斐なく、八宵は意識を混濁させ、倒れてしまった。できたことといえば、人の来ないこの社から八宵を神社に移すことだけだったという。祟られてしまった八宵を救う為に訪れた俺に通じたのは、思念と因果と素質によるそうだ。
一通り話し終えて沈黙していた鬼は、やがて己の咎を悔いるように、
《……ほんまはな》
鬼にはおよそ似つかわしくない語調で、
《儂かて兄ちゃんとおんなじように運命を怨んだ。なんで何の罪もない女の子を祟ってまう羽目になんねん、って。でも、儂みたいな鬼が言うのもなんやけど、神様は正直で残酷でなぁ。人間であろうと、鬼であろうと、然るべき報いを置いてきはるんや》
諦観からか、静かに息を吐く音が聞こえ石が震えた。
「……」
鬼の声は続けて言い、手の中の石が呼応する。
《今の不甲斐ない儂自身を責めて、それで何かが変わったことはあらへん。ましてや、誰か他人のせいにしたかて、状況は何も好転せぇへんのは言うまでもなく分かっとる》
俺は何も言わず、ただ鬼の言葉に耳を傾けていた。彼の話は、どこか俺に通じるものがありそうな気がした。知らないうちに、俺は鬼と自らとを重ねていたのかもしれない。
《せめて、儂にもう少しの力があればなぁ……。救えたはずのものが目の前で散っていくんを見るんは、もうこりごりやわ》
やはり、彼は俺に似ている。自分のせいで災いを他人にもたらし、不幸にしてしまう。そしてそれを後悔し、自責に陥る。力量不足のために、それを打開できず、歯痒さに苛まれる。全て、俺と一致していた。
《あの女の子、兄ちゃんの妹なんやってな。謝りたい気持ちでいっぱいやけど、それだけじゃ足りひん。だから、儂は何も言えへん》
鬼は、単に謝罪の言葉だけでは償いにならないと分かっている。俺もそうだ。目を覚ますことのない八宵に、どんなに詫びたって、赦されるかは分からないし、赦される気も毛頭ない。きっと、彼女なら、ただ笑って赦してくれるのかもしれない。だが、それで俺の罪が雪ぎ落とせるはずはない。単に謝っただけで赦されることではない。俺の贖罪は、言葉だけでは足りない。
「……なぁ、鬼とやら」
俺は、ただ静かに、天を仰いだ。
俺の語気から怒りではない何かを感じたのだろう、鬼は意表を突かれたように石を震わせた。
「もしもあんたに、そのもう少しの力が手に入ったのなら、八宵を助けられるのか?」
質問の意図が摑めないのか、鬼はしばらく考え込むように黙りこくっていたが、その後、
《……きっと、いや、絶対に、今度こそ救ったる》
俺はそれを聞いて、妙に吹っ切れた顔をして、ふっと口元の緊張を緩めた。
その様子を感じたらしい鬼は、嫌な予感が的中していないか確かめるように、鋭く尋ねてきた。どうやら、俺のしようとしていることに気付いたか、そうでないにしても、察しはしたのかもしれない。
《兄ちゃん、何するつもりや》
馬鹿な真似をしてくれるなよ、と言外に釘を刺されたような気がした。
だが、もう構うことはない。例えこれが最善の方法じゃなくても、間違っていたとしても、守れなかったものを救う為に、この身を捧げたい。
「きっとそれは大したことなんかじゃない。俺が俺を信じ、なんでも成し遂げられると、そう思ってる以上、いとも簡単にそれは達成されるんだろう。神様がいるのなら、それくらい許してくれたってバチは当たらないさ」
要領を得ない、返答ともつかない返答をし、俺は芝居がかった調子で大仰に両腕を広げた。
「あんたはただ要求すればいい。血を、肉を、骨を、魂までも捧げる、生贄を。年老いたあんたに代わる、畏怖の対象を」
《ちょ、ちょっと待ちぃや! そんなん祈ったら、それこそ形而上の存在、形なんか無くなるんやで! 兄ちゃんの生きた記憶とその証、それら全部を、ここでパァにする気なんか!》
俺の言葉に焦り、必死に阻止しようと、石がこれまでにないほど強く震動する。
「でも、もう方法は無いんだろ? あるなら、もうとっくに試してるはずなんだから」
《確かにせやけど、人一人救うんに人一人失っとったら、結局おんなじことやないか! 兄ちゃんを失った後の妹さんのことも考えなあかんとちゃうんか!》
鬼の制止も既に俺には届かず、俺はただ、この先に待つ自己犠牲の末路のみを見据えていた。
「俺の存在は形ではなくなる、それはつまり、俺のいなくなった世界は、俺がいなかった世界になるってことなんだろ? 欠落になんて気付かなくて、最初からそういう世界だったことになるんだろ? だったら心配なんて要らないじゃないか」
そう、これは自己犠牲だ。誰かに頼まれてやるわけでもなく、俺が、勝手に選んだ選択肢だ。それは自己満足に過ぎない。しかし、それで八宵を救えるのなら、俺にとって、それほどの幸福はなかった。
ざわざわと、不穏な風に吹かれて木々がざわめく。それすらも俺の耳には心地良く、徐々に強くなる冷たい風もまた俺の肌には温かく感じられた。
「これで心置きなく、あんたに八宵を任せられるよ」
俺は石を包み込むように手を組み、強く祈った。
一人の女の子の、無邪気で愛らしい笑顔を、ただ一心に思い浮かべながら。
願わくは、我が最愛の妹八宵に、救済と、永遠の幸福が訪れんことを。
しんしんと雪が降る夜のこと。
窓の外では、まるで妖精のような氷の結晶が舞い降り、町を美しく、白く、輝かせる。
冷たく乾燥した風が積雪を僅か舞い上げるが、それとは対照に、ここでは穏やかで温かい空気が満ちていた。
「ねぇ、お母さん、今日私ね、バスケ部でベンチ入りできたんだよ!」
「え、ほんと? 凄いじゃない! お父さんが帰ってきたら教えてあげないとね」
「うん!」
ここには、どこにでもあるような幸せが当たり前にあって、だからこそ、それが一番なのだろう。きっと、これ以上あっても持て余すだけで、このままで充分幸せなのだ。このままずっと幸せが続くなら、大きな幸せなんて要らなくて、小さな幸せを、いつまでも、幸せだと、そう言えるような人生が、最も誇らしいのだろう。
「おかえりお父さん! 今日私バスケ部でベンチ入りできたんだよ!」
「おぉ、おめでとう。もっと練習して上手くなって、父さんに活躍するところ見せてくれよ」
「へへ、楽しみにしてて!」
三人の家族は賑やかに食卓を囲んで団欒する。まるでそれが、最初からそうだったかのように。欠落したものは永遠に気付かれることなく、時はただ過ぎ去っていく。
道路の脇にひっそりと息づく花は、降り注ぐ雪に埋もれてしまった。
とある場所に、ぽつんと社が建っている。草木は生え放題で、誰も立ち入っていないのかと思わせる佇まいだった。かつてここで、一人の少年が、その身を捧げて妹を救ったということを、誰一人として知る者はいない。
そんな場所に中学生ほどの少女が訪れた。透き通るような黒い髪が頭の上で一本に束ねられている。手にはビニール袋が提げられており、彼女の歩みと共に揺れていた。
少女は祠の前に立つとビニール袋をがさごそと漁り、二つの物を取り出した。彼女はそれらを祠に置いて、手を合わせ祈った。
その姿は、今は無く、過去は確かにあったはずの、そんな何かを懐かしむような、不思議な雰囲気を醸していた。
やがて少女が立ち去った三波之社の祠には、中華まんとコロッケが供えられていた。
木々が淋しげに風に吹かれ、再び社は静寂に包まれた。
自己犠牲とは自己満足です。誰かの為にしたことでも、それはまた別の面で迷惑をかけているのかもしれません。自分が犠牲になることによって誰かを救うという陶酔に浸り、他の面が見えなくなっているのです。また、犠牲になるということは、相手に、犠牲にしてしまった、という負い目を与えることにもなります。それは、一方的な善の押しつけに他ならないでしょう。しかし、それで救われる人は実際にいるわけですし、一概に否定できないのが問題です。
心を鬼にする、という言葉があります。相手に同情しがちな気持ちを抑えて厳然たる態度で接する、という意味で使われます。が、そもそも、鬼の心は冷たいのでしょうか。彼らもまた、人間と同じように多種多様な性格の鬼がいて、明朗な鬼もいれば、逆に沈鬱な鬼もいるかもしれません。そう考えれば、心を鬼にする、という言葉はつまり、人間と同じように、人間らしく接する、という解釈もできます。ですが、世俗で使うには明らかな誤用ですのでご注意を。
ご読了頂き、恐悦至極に存じます。