二人の夕立
暑い夏を象徴する太陽は、しかしながら雲の影に隠れると、その威厳が無くなったかのように、熱を放つ仕事を放棄する。
神社へ続く山道。午前中に太陽に照らされたアスファルトの道路からは、容赦なく夏の熱を放射させる。それでも、近くを流れる阿流野辺川のおかげで、街の中よりは幾分マシに思えた。
時刻は午後十三時前。空は相変わらず青いが、雲の数が徐々に増えていき、徐々に灰色が広がった青を消していく。
「やっぱり、雨は降りそうだな。亜留、神社の屋根って、どれくらいなんだ?」
「本殿なら、結構大きいよ。結構長い雨でも、いざとなったらそこに退避すればいいと思うよ」
「なら、心配ないかな。神社につく前に降らなきゃいいけど」
明は、亜留の隣で空を眺めながら言った。
『川沿いの道に、セミの鳴き声。なんだか、初めて見る風景なのに、懐かしい気がします』
亜留の体の中から、沙織が声を出す。
「やっぱり、自分の家の周りの風景も、全部忘れちゃったのかな……」
本当ならよく知る風景のはずなのに、初めて見たような沙織の口ぶりに、亜留は少し寂しさを覚えた。
『全部って言うほどではないですよ。なんとなく見たことあるような風景はあります。あ、例えばあそこ』
そういうと、突然沙織は亜留の体から抜け、川の土手の方へ向かって行った。
「ここらへん、でしたか。誰とかは忘れましたけれど、とても大切な思い出があるような気がします」
亜留の家に向かう横道がある丁字路から少し歩いた場所。そこは、沙織が初めて亜留に憑依した場所だった。
「ああ、そういえばここで初めて、僕と沙織が一つになったんだよな」
「なな、ひ、一つにって、私、そんなに大胆だったのですか!?」
亜留の一言に、沙織は顔を赤くしているように見えた。
それを見て、亜留は慌てて両手を振って否定する。
「え、い、いや、そうじゃなくて、憑依したって意味だよ」
「あ、そ、そういう意味ですか。私はてっきり……」
沙織はほっとした表情で、土手の方へ振り返った。
「確かに、ある意味記念日、ですね。私と、彦野君との。だから、覚えていたのでしょう」
なんとなく、沙織の表情には笑顔が見えた気がした。
「そう、か。じゃあ、神社に行ったら、もっといろんなことを思い出せるかもしれないね」
「そうだな。しかし、それで覚えてるんだったら、俺も天川ともっと楽しい思い出を作っておけばよかったな」
「なんだよ、沙織とどんな楽しい思い出を作ろうとしてるのさ」
「別に、二人きりとかじゃなくてもさ、例えば、亜留に天川、そして重菜ちゃんと、一緒にもっと遊ぶとか」
明の説明に、ああ、そういうことか、と亜留は一人で頷いた。
「そういえば、たくさんの友達と、この辺を歩いていたような気がします。確か、海の方にある公園から、この先まで」
明の話を聞いて、沙織が思い出したように口を開いた。
「あ、もしかして、阿流野辺神社の夏祭りかな。そういえば、去年は四人で行ったんだよね」
「そういえばそうだったな。なんだ、俺の思い出も、一応あるのはあるんだな」
何故かほっとしたような明の表情に、亜留は思わず吹き出しそうになった。
「でも、ごめんなさい、佐渡君。誰と歩いたかまでは覚えてなくて」
「え、ああ、大丈夫だよ、これから思い出せばいいことだし」
「そう、ですか。二人とも、優しいですね」
そういうと、沙織はふふっ、と二人の方を見て笑った。
「ま、まあ、亜留はともかく、俺は昔から優しいからな」
「なんだよ、僕がまるで悪人みたいじゃないか」
「まあまあ。とりあえず、今は急ごうぜ。なんだか雲行きも怪しくなったし」
空を見ると、先ほどの雲がより厚くなっている気がする。周囲も妙に暗くなり、夕立前の生暖かい空気が、亜留たちを包んだ。
「そうだな。とにかく神社まで行けば、何か思い出せるかもしれない」
よし、行こう、と亜留は神社へ行く道へ足を進ませた。
「ちょ、ちょっと待てよ」
その後を、明と沙織も追いかけた。
阿流野辺神社は、その地区で作られた小さな神社だ。地元の住民の清掃維持活動によりきれいに整備されているが、鱈瀬神社と違って大きなイベントでもなければ参拝客はほとんど来ない。
今日も休日だというのに、参拝客の姿は全くなかった。
神社へ続く小さな橋を亜留が渡ろうとすると、明が突然その場に立ち止り、両手を交差させて肩にあて、急に震え始めた。
「なあ、亜留。たしかに水場が近いし、日陰だし、秋も近いけど、何で急に寒気がするんだ?」
「そういえば、さっきから少し寒気がするね。多分神社が近いから霊的エネルギーが……あ、そうか。明は一度霊に憑依されたから、霊感が上がって霊的エネルギーを感じるようになったんだ」
霊体に憑依されたものは、少しだけ霊力が上がり、霊的エネルギーを感知でき、霊体エネルギーでできたもの、すなわち幽霊を見ることができる。明は須羅府神社で悪霊に取り憑かれていたため、霊感が上がっていた。
「でも、鱈瀬神社にあった霊的エネルギー、っていうか邪気、かな。それよりはマシだから、大丈夫だよ。いざとなったら、『邪気追放』のお札もあるしね」
「そ、そういうものなのか? と、とりあえず神社に向かってみようか」
感じる震えを抑えながら、明は橋をゆっくりと渡って行った。
神社の入口。七夕の前後には、ここにたくさんの笹が飾られており、そこに地区の住民が短冊を飾るようになっている。
亜留と沙織も、この笹に短冊を飾るのを毎年楽しみにしていた。
今年は、沙織が事故で死んだため、それどころではなかった。おかげで、今年の笹の葉には、亜留や沙織の短冊は吊るされていない。
「去年はここで、沙織と一緒に短冊を吊るしたんだ。覚えてないかな」
亜留は鳥居の前に立つと、沙織に確認した。
「……そういえば、ここで何かをしていた気がしますが……はっきりとは、わからないです」
「そうか……」
「あ、でも、この周辺はなんとなくわかりますよ。この奥が本殿で、夏には屋台がいっぱい並んでた気がします。あと、あの道をもっと奥に行くと、墓地があるんですよね」
そこまで言うと、沙織の顔は寂しげになり、急に声のトーンを落とした。
「そこに、私のお墓も……」
「……そうだね。もしかしたら、沙織の墓にも、何か思い出させるようなものがあるかもしれないね」
「でも、なんだかあまり行きたくないですね。自分のお墓を見ると、改めて私、死んでるんだなって、実感してしまうのが怖くて」
「そう、だね。多分僕でも、自分の墓を見ると、なんか寂しくなると思う」
亜留が言い終わったところで、亜留は自分の頬に何か冷たいものが落ちてきたのを感じた。それは右手に、左手にと体を濡らしていく。
「ああ、ついに降りだしたな。亜留、天川、土砂降りになる前に雨宿りしよう」
明が「早く」と合図をすると、亜留と沙織は神社の本殿へと向かった。
神社の本殿は屋根が広く作られており、おかげで多少風が吹いても、雨がそこまで降り込んでくることはなかった。
亜留と明が着いたころ、雨は急に勢いを増し、それこそバケツをひっくり返したような勢いで降り始めた。
「うわあ、これ来てる途中じゃなくてよかったな」
「そうだね。重菜は大丈夫かな」
「一応雨降りそう、とは言ってるけど……。まだ家にいれば、傘を持ってくるはずだから、大丈夫なんじゃない?」
「今来てる途中じゃなかったらいいんだけど……」
全てを洗い流すような、降り続く雨。亜留と明は、しばらくその雨を眺めつづけていた。
「……そういえば、あの時も雨だったよな」
「あの時って?」
うわごとのようにつぶやいた亜留の言葉を聞き、明は尋ねた。
「去年の七夕の日、僕は今みたいに、沙織に憑依されていたんだ。その時は、まだ沙織は死んでなくて、生霊状態だったんだけどね。それで、体の方が意識を取り戻す時に、沙織の霊体と、ここでお別れしたんだ」
「去年の七夕……っていうと、天川が事故に遭った時か。え、じゃあ、亜留は前にも天川に憑依されたことがあったのか?」
「そうなんだ。でも、沙織は、その時のことを覚えていないんだ。説明がややこしいけど、生霊の状態から元の体に戻るとき、生霊の時の記憶は無くなるんだって」
「なるほど、そういうことだったのか。……ってことは、俺と買い物に行った時には、天川も一緒にいたのかよ」
「うん。明と買い物してるときは、まさか沙織が取り憑いてる、なんて言えるはずがないからな」
亜留がそういうと、急に明は頭を抱え始めた。
「うわあ、あの時天川いたのかよ。な、何か俺変なこと言って無かったっけ? あ、そういえば、妹のプレゼント選ぶ時、妙に的確なものを選んでたな。あれは、天川が選んだものだったんだな」
「え、あ、うん。そうだよ。こういうのは、女の子に聞いた方がいいと思ったから」
「はぁ……、まったく、百戦錬磨の彦野亜留君だからこそ、女の子の喜ぶプレゼントが分かると思ったんだがなぁ。まあ、妹も喜んでくれたし、別にそれはいいんだけどさ」
「なら、いいじゃん。結果オーライなんだから」
亜留と明が話していると、遠くから声が聞こえた。
「亜留君、明君、お待たせ。お弁当、持ってきたよ」
入口のあたりに目を移すと、重菜が傘をさしてこちらに近づいているのが見えた。
「重菜、こっちだよ」
亜留が立ち上がって手を振ると、重菜も荷物を持った手を無理やりあげて応えた。
まだ止みそうにない雨の中、重菜は本殿まで続く石畳を、ゆっくりと歩いて向かった。
「二人とも、お腹空いたでしょ。はい、ほとんど冷凍食品だけど」
『おかずは冷凍食品だが、おにぎりはシゲナ特製だ。男ども、心して食べるがよい』
本殿の階段に少し大きめの弁当箱を二つ開けると、中には爪楊枝が刺さったから揚げや肉団子といったおかず、そして俵むすびのおにぎりがたっぷり入っていた。
「それじゃあ重菜、いただきます」
「俺も、重菜ちゃん、いただきます」
そういうと、亜留と明は弁当箱のおにぎりとおかずを手に取り、口に入れた。
「お、このおにぎり、おいしいな」
「うん。重菜はいいお嫁さんになれるよ」
亜留の一言に、重菜は突然顔を赤くした。
「な、お、お嫁さんだなんて、あ、亜留君、私まだ……」
「いや、でも亜留の言う通りだよ。重菜ちゃんが作ったおにぎり、とってもおいしいよ」
「あ、明君も、ありがとう。でも、私、まだ料理あんまりできなくて、おかずが……」
重菜は弁当に視線を移すと、急にしょげてしまった。
「別に、冷凍食品でもいいと思うよ。こんなときなんだし、下手に凝りすぎて時間掛けて相手に待たせすぎるよりも、よっぽど気が利いてると思う。料理のうまい下手だけじゃなくて、こういう時の判断も大切だと思う」
「そ、そうかなぁ」
亜留に褒められ、重菜は照れながらほっぺを掻いた
『そうじゃそうじゃ。料理は愛情、と言うからな。温めるだけにしても、そこには機械で得られる熱だけでなく、作る人のぬくもりが加わるものだぞ?』
「そ、そんな、リラちゃんまで……あ、お茶もあるから」
重菜は照れながら、荷物から紙コップと水筒を取り出し、紙コップにお茶を注いだ。
「それにしても」
明はおにぎりをほおばりながら、神社の周りを見渡した。
「なんか、あっちこっちで色のついた紙きれが見えるんだけど、あれは何なんだろう」
参道の周りは掃除されていてきれいになっているが、本殿周辺には赤や紫といった、色のついた紙があちこちに散らばっていた。
「ああ、多分七夕の時の短冊だよ。毎年八月に、神社の裏で七夕に使った笹の葉を焼いているんだ。それで、短冊に書かれた願いを、天の神様に届けるんだって。でも、毎回いくつか短冊が落ちて、周辺に散らばることがあるんだ。大体一カ所に拾い集めて、時期を見て一斉に焼くんだけど、それがまた散らばってるみたい」
「どこか風のないところに保管しておけばいいのに」
「神社の外に出すと願いがかなわなくなるし、かといって神社の中は入れないから、風よけを作ってその中に入れてるらしいんだ。それでも、風で飛んじゃうんだけど」
「短冊を保管しておく場所とか作っておけばいいのに」
なんだかんだ文句を言いながら明がおにぎりを食べていると、ふと一枚の紙切れに目が留まった。
「ん、あれは……ハンバーガーの包み紙? 誰だよ、こんなところにポイ捨てしてる奴は」
そう言いながら、口に残っている物をお茶で流し込むと、明は本殿の脇に落ちていた包み紙を拾った。
「あれ、何か書いてある。えっと……」
明は包み紙を伸ばすと、ゆっくりと書いてあることを口にした。
「元気な沙織の姿を、いつまでも見られますように……って、え?」
明が読み上げた時、亜留は思わず口に含んでいたおにぎりを吹き出しそうになった。
「そ、それ、僕が去年書いた短冊じゃないか!」
「え、そうなのか? それにしても何で今頃こんなところに……」




