二人の想い
重菜が落ち着いた頃にバス停留所に向かうと、着いたときにちょうどバスが到着する時間だった。
降車客と入れ替わりで何人かの乗客の後に続いて乗車すると、ちょうど最後尾の席が空いていたため、亜留たちはそこに来た時と同様三人並んで座った。
鱈瀬神社への昼からの参拝客が多いためか、やはり帰りのバスも乗客は多くなかった。二人掛けの椅子に、かなりの数の空席が見える。しかも、すぐに降りる客が多いためか、前の方に乗客が偏っていた。
「それにしても、沙織は本当に何も覚えていないの?」
前の客に聞こえないように、しかし重菜や明には聞こえるような声で、亜留は沙織に尋ねた。
『何も、と言うほどではないんです。例えば名前はわかりますし、物の名前とか、一般的な常識はある程度わかりますよ。でも、人の名前とか、誰かとの思い出とか、そういうものを忘れてしまったんです』
「そう、か」
亜留は小さな声でつぶやいた。
『でも、私がずっと彦野君に憑依して生活していたっていうのは、なんだか不思議ですね。私の記憶では初めて人に憑依したのに、なんだか懐かしい気がします』
「懐かしい?」
『何というか、初めてじゃない感じがしないんです。冷たくて暗いところにいたからかもしれませんが、なんだか、ここにいると暖かくて居心地がいいんです』
「そ、そう?」
今まで沙織が憑依していて慣れていたはずなのに、改めて言われて亜留は少し恥ずかしくなった。
バスは次々と停留所を通過していくが、終点に近づくにつれて停車の回数が増えて行った。
ちょうど昼前なので、昼食のために移動する客が多くなったようだ。終点の星海センタータウンに着く頃には、席がほぼ埋まっていた。
乗り換えのために、亜留たちは一度ここでバスを降りた。乗り場を見ると、既に目的のバスが待機していた。
「ミルキーキャニオンには、寄らなくてもいいのか?」
亜留は重菜に憑依しているリラに尋ねた。
『別に母上に話すことはないだろう。やることが決まっている以上、そちらが先ではないのか?』
「それはそうだけど……」
亜留は停留所から見える、喫茶「ミルキーキャニオン」をちらりと見た。そこから見える駐輪場を見て、ふと明の自転車を思い出した。
「そういえば、明は自転車どうするのさ?」
「ん、ああ、別に後から戻ればいいだろ。バスが無くなる訳じゃあるまいし」
「まあ、そうだな。えっと、トイレとかは、大丈夫?」
亜留が二人に聞くと、重菜が控えめに手を挙げた。
「えっと、ちょっと行って来ていいかな」
「うん、まだ時間があるから、焦らなくてもいいよ」
亜留がそういうと、重菜は停留所近くにある公園の公衆トイレに駆け込んだ。
これから買い物に来る客が多いせいか、やはり乗継のバスも客はほとんどいない。
先ほどのバスと同じく、亜留たちは最後尾に並んで座った。
出発するまで少し時間がある。しばらくすると、トイレを済ませた重菜が入ってきた。
「お待たせ、何とか間に合ったみたいだね」
「まだ時間はあったから、大丈夫だよ。間に合わなかったら、次のバスに乗ればいいしね」
重菜が席に着くと、バスにエンジンがかかり、同時にエアコンのスイッチが入った。九月とはいえまだ外の気温が高いためか、クーラーがの涼しい風が車内に流れる。
『それにしても、彦野君は、他の人のことをいろいろと考えてるんですね』
不意に沙織が話しかけてきたので、思わず亜留は「えっ」と声を出してしまった。
「いやまあ、別に当たり前のことをしただけだよ」
「でも、亜留君って、こういうところよく気が利くんだよね」
隣で重菜が笑いながら言った。
「まあ、亜留は世話焼きでおせっかいが過ぎるからな。自分のことはよく放置してるのに」
『ふむ、アキラは、もう少し他人の気持ちを考えて行動するべきだな。自分ですべてをやろうとするから、周りから見ていたらひやひやするわい』
「え、俺そんなに自分勝手か?」
リラの指摘に明が突っ込むと、亜留と重菜はくすくすと隣で笑った。
乗客が数人乗ったところで、運転手から発車のアナウンスが入る。少しして自動ドアが閉まると、バスは停留所を出発した。
バスが亜留たちの家の最寄の停留所、阿流野辺に到着したころには、かなり日が高くなっていた。
バスから降りると、先ほどの涼やかな空気が一転して、日差しも手伝って少し暑いくらいの風が吹き抜ける。
空はまだ気持ちのいい青色が、山の向こうを見ると、この時期には珍しい入道雲が見えた。
「これはひと雨くるかもなぁ」
亜留は入道雲をみてぽつりとつぶやいた。
「山のほう、大丈夫かな。夕立くらいなら、神社の屋根で止むまで雨宿りすればいいんだけど」
明も、巨大とは言わずとも良い形をしている入道雲が気になる様子だ。
心配をしながらも、とりあえず阿流野辺神社の方へ向かって歩いていく。
「あ、そうだ。私、お昼のお弁当作ってくるね。亜留君も明君も、お腹空いたでしょ?」
「え、いや大丈夫だよ。なんだか悪いし、今からだと時間かかるんじゃない?」
亜留は手を突き出して断ったが、重菜は首を横に振る。
「私が作りたいなって思ったから。こういう機会だし、たまには、神社でみんなでお弁当食べようよ」
重菜にそう言われ、亜留と明はしばらく顔を見合わせたが、
「じゃあ、お願いしようかな」
と重菜に頼んだ。
「じゃあ、今から家に戻って作ってくるね。あ、リラちゃんはこのまま一緒に連れていくから」
「え?」
思わず亜留が声を挙げる。
「沙織を連れていくなら、別に二人でいいでしょ?」
重菜はフフッ、と笑って亜留と明に行った。
『私は別に構わないがな。ただサオリを神社に連れて行けばそれでよいのだし。しかし、私に手伝えることなどないぞ?』
「いいじゃない、女同士の話もしたいし」
『女同士の話ねえ。別に、アルが問題ないのならよいが、二人だけで大丈夫か?』
リラが亜留に尋ねると、亜留は「うん」と返事をした。
「沙織のことは任せておいて。俺と明で、神社まで連れていくから。重菜は、リラのことを頼んだ」
『おい、それは逆だ。まあ、私が付いていれば別にシゲナのことは心配いらんがな』
亜留とリラが言い合っていると、重菜がくすくすと笑い始めた。
「二人とも、仲がいいね」
重菜が言うと同時に、亜留とリラが一斉に声を出す。
「誰がだ!」
『誰がじゃ!』
亜留、明と別れた重菜は、自分の家に向かって海岸沿いの道を歩いていく。
途中、小さな商店の先の道を曲がると、そこから登山道に続く住宅街の小道を進んだ。
車がぎりぎり一台通れるかくらいの幅であり、離合は途中にある駐車場や小さな広場で行うくらいしかできない。
この道からも、阿流野辺神社へは迎えるのだが、どちらかと言うと遠回りになる。川を挟んで反対側の、亜留の家がある道の方が早い。
『ところでシゲナ、どうして私を連れてきたのだ? どうやらあの二人には話せないようなことがあるようだが』
リラが重菜に声をかけると、小道を歩いていた重菜の足が止まった。
「鱈瀬神社でのことなんだけど」
気持ちの良い青々とした空を眺めると、やはり向こう側の入道雲が気になる。肌が焼けそうな太陽光が、重菜の白い肌を照り付けていた。
「あそこって、お祓いしてもらったあと、すごく寒気がしたよね。でも、亜留君はずっとあんな感じで、本殿まで歩いてたんだよね」
『ああ、そうだな。多分、霊感が強い人間にはかなりきつかったと思うぞ』
「私、少しあそこにいただけでも辛かったのに、亜留君は、ずっとあんな状態で我慢してたんだよね。何で、そこまでできるのかなって」
誰も居ない住宅街。独り言のようにつぶやきながら、重菜はゆっくりと足を進めた。
『そりゃまあ、好きな女のためだろう。少しぐらい我慢できねば、男ではあるまい』
「でも、あの寒気は、普通じゃなかったよ。あんなところにずっと立ってたら、絶対倒れちゃう。なのに……」
山のほうに近づくにつれ、遠くからセミの声が聞こえてくる。少しだけ、雷のごろごろという音が聞こえた気がした。
『つまりは、アルにとってサオリは、それくらい特別な存在だったということだ。ただでさえ、死んだあともずっと一緒にいるような存在だからな』
「……そっか。そうだよね。やっぱり、死んだ人には勝てないのかな。生きている人間は」
目に溜まった涙が落ちそうになる。重菜は空を見上げて、ぐっと泣きたいのをこらえた。
『確かに、人の死と言うのは強烈な印象を与えるからな。そして、死んでしまった以上は、その人に関する感情がほとんど変化せぬ。もし、その時に愛情を感じていたのならば、それを超えるのは難しいかもしれないな』
「そう……よね」
トーンダウンした重菜の声は、力なく夏の空に消えていく。その声のやまびこの代わりに、セミの声が力強く聞こえてきた。
『しかしだな、死んだ者への想いというのは、精神的な支えにはなっても、肉体的な支えにはならぬ。死者には誰も干渉できぬし、誰にも干渉せぬ。だから、どれだけ死者が誰かのために何かをしたくても、そうそうできるものではないのだ』
誰にも聞こえない、リラの言葉が脳内に響く。命の終わりを迎えて鳴き続けるセミの声と、どちらが大きいだろうか。
『私はまだ死んで一ヶ月だが、その間にたくさんの成仏しきれない霊体を見てきた。長年付き合ってきた恋人や相方を残して死んでしまった人や、小さな子供を残して死んだ親もいたかな。そういう霊体は、自分のことを忘れてほしいのに恋人がずっと忘れてくれず、新しい恋に進めずに苦しんでいる姿を見て心が痛んだり、自分が死んですぐに恋人が新しい恋人を作ってやきもちを焼いたり、自分のことを忘れられずに子供が自立できず、イライラしたりしておった。霊体は、そうやって干渉できないことに、歯がゆい思いをしているのだ』
「それじゃあ、リラちゃんも?」
『ふむ、私も少しは……って、別に私のことはよいではないか。ともかく、死んだ者のことをとやかく考えていても仕方ないのだ。生きている者は生きている者でできることはたくさんある。相手の気持ちを考えることも大切だが、まずは自分がどうしたいのかが大切だぞ?』
「自分がどうしたいか……」
流れてくる汗にも気づかず、重菜は淡々と自分の家の方向へ向かって行く。途中、近所の人の出会って挨拶をされ、慌てて挨拶を返した。
『特にアルの奴、一人で先走って解決しようとするきらいがあるからな。ずっと憑依していると、焦ってるのがよく分かるわ。』
「え、そんなこともわかるの?」
『憑依している間は、お互いの考えや気持ちが少しは分かるからな。いつ焦って変な行動を起こすかとひやひやしておったところだ。まあ、結果的には意外と冷静な奴だったから助かってるところだ』
「そっか。落ち着いているように見えても、やっぱり心配だったんだね」
『もしかしたら、今後冷静な判断ができずに暴走することがあるかもしれぬ。そうなった時に、アキラやシゲナが支える必要があろう。そうやって、直接支えることで、心の中の存在を大きくすることは可能だ。死んでしまっては、そういうこともできんからな』
ふと気が付けば、視界に重菜の家の門が入ってきた。重菜はそこで立ち止ると、「そっか」と独り言のようにつぶやいた。
「うん、そうだよね。きっと沙織も、ずっとそばにいても何もできないのは辛かったよね。だったら、その分、私が頑張らないと」
『おう、その通りだ。だから、あまり深く悩まず、自分のやりたいようにすればよい』
「うん、そうする。ありがとう、リラちゃん。少し元気出た」
そういうと、重菜は思い切り背伸びをし、「よしっ」と気合を入れた。
「じゃあ、おいしいお弁当、頑張って作ろうね!」
『うむ、その意気だ。だが私は何も手伝えぬぞ』
「大丈夫だよ、おにぎり作って、冷凍食品温めるだけだから」
『……結局私は何も出来ぬではないか』
リラの突っ込みを無視し、重菜は家へと駆けこんだ。




